2017年4月2日日曜日

【感想文】『騎士団長殺し』/イデアとメタファーについての考察

イデアとメタファーについての考察。

ネタバレあり。





騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
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騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編
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『騎士団長殺し』におけるイデアとメタファーについて、以下のように理解した。


イデア

認識から生じるもの。まさに認識することで「顕れるイデア」である。誰かが何かを「信じる」ことで形作られる。
流れとしては、「認識する」⇒「存在する」。
「騎士団長」が存在すると信じれは、騎士団長はいる。
あるところに女の子がいて、その女の子が「自分の子どもである」と強く信じることができれば、その子は「自分の子ども」である。たとえ、論理的に説明できなくても、問題ない。
まず、信じることが大事である。

メタファー

表象から生じる意味あい。物事と物事をつなぐもの。関連性。誰かが何かを見ると、そこから「これはこういう意味だ」という感じる。ゆえに見る人、見るときによって変化する。まさに「遷ろうメタファー」である。
流れとしては、「事象がある」⇒「認識する」。
あるところに女の子がいて、その女の子の中に自分に似ている部分を発見する。すると「この子は自分の子どもであるかもしれない」と思う。またある時には「この子には、自分と全然似ていない」と感じ絶望する。表象にメタファーは揺れ動く。
免色は強力な自己制御でその揺れ動きをコントロールし自分を保つ。しかし、何かを信じることはできない。二重メタファーはその心の隙間を狙う。
どんなにスマートで、能力があり、基本的に善良な人間でも、この心の隙間があれば、二重メタファーの餌食になる。二重メタファーに取りつかれると、自分の意思とは無関係に、悪を成す。
憎しみや嫉妬や怒りを生み出す。
それらは雨田具彦の恋人を死に追いやり、雨田継彦を自殺に追い込んだ。そして「邪悪なる父」となり、秋川まりえを閉じ込める。
おそらく「私」は、メタファーの世界に降りていき、そこへ二重メタファーをおびき出した。その間に秋川まりえは逃げ出すことができたのではないだろうか?

二重メタファーに対抗するには、手に取ることができる具体的な記憶である。記憶で心の隙間を埋めることである。そして、何かを信じることである。

2017年3月12日日曜日

『騎士団長殺し』/物語は現実世界を侵食する

『騎士団長殺し』を読んだ。

いろいろ思うこと、まだまだ分からないこと、たくさんあるけど、まずは初見で感じたことをメモ。


以下、ネタバレあり。


騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
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村上 春樹
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この小説の中では、主人公である「私」は画家である。

画家である「私」は、絵の場面を再現することによって、そこに描かれたメタファーを現実世界におびき出す。

そうすることで、「私」はメタファーの世界へ入っていくことができる。


この原理をそのまま受け入れるのであれば、当然、小説にも同じ原理が成り立つはずである。


つまり、小説を読んでいる我々のすぐそばには、メタファーが潜んでいて、そこには、メタファーの世界へ通じる穴が存在するはずである。





「騎士団長殺し」という絵に描かれた"メタファー"と『騎士団長殺し』という小説に描かれた"メタファー"。


それらが合わせ鏡のように反響しあって、それぞれメタファーが無限に増幅し、混然一体となり、ある一転を超えた時に、ポンと現実世界に飛び出してくる。


小説世界が、現実世界に侵食してきた。

そういう感覚がある。


自分の背後にメタファーの存在をありありと感じることができる。


2016年11月23日水曜日

【感想文】『おかえし』/善意を突き通すこと、イチゴを摘むこと

『おかえし』という絵本についての感想。
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あらすじ

ある日、タヌキのお家のとなりにキツネが越してきて、引っ越しのあいさつを渡す。
タヌキは「おかえし」をする。
するとキツネは「おかえしのおかえし」をしてタヌキは「おかえしのおかえしのおかえし」をして・・・
互いの「おかえし」がエスカレートしていって最後には・・・

意思とは無関係に行為が独立する

キツネもタヌキも、狡さや悪意があったわけではなく、ただ当然やるべきことを善意をもってやっていただけでだ。だけど、あれよあれよという間に、自分たちの意思とはほとんど無関係に、「おかえし」という行為だけが独立して繰り返してしまう。
現実世界でも、しばしばみられる。


善意を突き通すこと

タヌキとキツネは、善意の人である。「おかえし」を繰り返し、途中「そんなものまで上げるの?」とぎょっとしてしまうが、彼女たちの持ち前の人の好さが、結果的にハッピーエンドを引き寄せる。
私たちは、しばしば間違いを犯す。最初は良かれと思って始めたことがとんでもないことを引き起こす。まるで目に見えない者たちに操られているように。
しかし、それでも善意を突き通すことが、「彼ら」に対抗するための方法なのかもしれない。


前向きに、ポジティブに

この絵本は、とてもテンポが良いため、一瞬ドキッとする場面があるけど、全然悲壮感がない。楽しく、ポジティブに、前向きであることも大事。


何もなくなったら、イチゴを摘みに行こう

タヌキもキツネも「おかえし」するものがなくなったら、イチゴを摘みに行く。自分の中に誰かに与えるものがなくなったら、自分の外にあるものを手に入れる。
すでにあるものを与えあっているうちは、なんだか大変そうだけど、相手のために何かをしようとする様子はとても幸せそうだ。
誰かのために、自分の「外」にあるものを手に入れる。それがコミュニケーションの本質なのかもしれない。

2016年11月22日火曜日

【感想文】アンデルセン『影』/影と共に生きること

村上春樹がアンデルセン文学賞受賞した際のスピーチに取り上げられたアンデルセンの『影』を読んでみた。


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知を得るためのリスクの放棄が影を解き放つ

学者が影を解き放つのは、向かいの部屋の中を知りたいという欲望がきっかけになっている。
この時、学者は、自らの足を使わず、影にすべてをゆだねてしまっている。
自分の手を汚さず、痛みを伴わず、安易な方法を選んだ瞬間、我々は影を解き放ってしまう。

理想を追い求めることの難しさ、欲望に対する抗いがたさ

実体であるはずの学者は、「真善美」といった、観念的な研究を行っている。
一方、影は実業家となり、金銭的に裕福となり、実際的である。

実体は理想を追うがゆえに、現実とずれていき、影となり、最後には死んでしまう。
影は欲望に忠実がゆえに、現実的に金銭を手に入れ、最後には実態に成り代わる。

理想を追い求めることの難しさ、欲望に対する抗いがたさを突き付けられる。


実体と影は同一人物としてみてみる

例えば、私はブログを書いている。
最初は、自分の考えを文章にしてみることを目的にしていたとする。
最初のうちは、自分で考えたことを文章にする。
しかし、次第にブログに書くために物事を考えていくようになる。
いつの間にかブログを書くために生きていくようになる。

『影』の物語では、影と実態が別々の人格で描かれている。
別々の人格で描かれているから、影と実体が入れ替わっていく様子が痛々しいくらい伝わってくる。
しかし、現実では、影と実体は同一人物である。
その入れ替わりは客観的にはわかりにくいし、本人ですら、というか本人には余計にわからない。

もしかしたら、今の自分はいつの間にか、影のほうかもしれない。



影と共に生きる

では我々はどうするべきか。
その一つの答えとして、村上春樹が言うように、影と共に生きることなのかもしれない。
できるだけ、影を解き放たないように、安易な心地よい誘惑に負けないように、痛みを受け入れながら、リスクを引き受けながら、自らの欲望を理解しながら、自分に影の部分があることを理解しながら生きていかなければいけないのかもしれない。

2016年6月1日水曜日

【感想文】世界の終わりとハードボイルドワンダーランド/読むごとに味わいが変わる

もう何回目だろう、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』読んだ。

読むごとに、その味わいが変わる。

今回読んだ感想をメモ。(ネタバレ注意)

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ハードボイルド的文体の中に垣間見る日本人的弱さ

作者はこの二つの物語それぞれの文体をかなり楽しんで描いていると思う。

時々思うんだけど、「ダンス・ダンス・ダンス」で主人公と五反田君が真剣に冗談を語り合ったように、村上春樹は冗談みたいな内容を真剣に小説にしているんじゃないかと思うことがある。

この物語、特に「ハードボイルドワンダーランド」は、突拍子もない物語をハードボイルド風に描くと、いったいどんな物語になっていくのか、作者は楽しみながら描いているように思える。

まず、文体ありきで、物語は後からついてくる。そんな感じがする。

「ハードボイルドワンダーランド」の主人公は、確かにタフなんだけど、フィリップマーロウに比べると、ずいぶん弱さを感じさせるところがある。

こわがったり、叫びだしたり。

前までそこまで気にしなかったけど、今回読んで、ハードボイルド的な文体と、その中で垣間見せる日本人的な弱さの部分のギャップがよかった。


自我の中の永遠の命、他者の中の記憶

「ハードボイルドワンダーランド」で世界が終る直前、太った娘と電話するシーンで、

あなたがもし永久に失われてしまったとしても、私は死ぬまでずっとあなたのことを覚えているから。私の心の中からあなたは失われないのよ。そのことだけは忘れないでね」

というシーンがある。小説の中では特に言及していないけど、自分自身の中で完結する永遠の命より、他者の記憶の中で自分が生きていることのほうが、大事なんじゃないだろうか。このことによって、「私」は救われたんじゃないだろうか? そんな気がする。

2015年12月17日木曜日

『あさおひさまひかる』

あさおひさまひかる きょうもあさがやってきた
 
ごはんをたべたらでかけよう

きょうはなにがあるかな どんなものがあるかな

ゆうひがさしてきた きょうももうすぐおわりだね

あしたはなにがあるかな きょうもいろんなことがあったね

あしたのてんきもよさそうだね

あしたがもうすぐやってくる

あしたになったらなにしよう

たのしいあしたがやってくる

あかるいあさがもうすぐやってくる

またあした

ねながらあしたのことをかんがえよう

(さく:゛た)




2015年10月25日日曜日

小さなところから

ある日、子供の後にトイレに入ると、トイレットペーパーが新しくなっていた。



子供というものは、ほんとうに小さなところから成長するものだ。

2015年9月15日火曜日

恐竜

ティラノサウルスの子供と、小型肉食恐竜の大人ってどうやって区別するんだろう。

骨だけで見分ける研究者ってすごいと思う。

2015年9月12日土曜日

【感想文】『指輪物語』/ありとあらゆる教訓が詰まっている

『指輪物語』読了。
 
物語のありとあらゆる教訓が詰まっている、とりあえず今書き留められるだけ書き留めてみる。


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強大な敵に立ち向かうのではなくて、強大な力を捨てに行く

指輪物語は、強大な敵を倒しに行く物語ではない。
強大な力を持った指輪を捨てに行く物語である。

ある意味では、強大な敵そのものよりも、強大な敵が現れるかもしれないという状況のほうが恐ろしい。

指輪を持った者は強大な力を手に入れる。

だからみんなその力を使いたい。

だけど、もしその力を手に入れたとしたら、それは、その者自身がサウロンになる。

だから、指輪を捨てるしか方法がない。

そしてそれはとても難しいことである。




人間の成長とキャラクター

ホビット

ホビッとは、子供。
彼らは背負うものがない。
行動の基準は、好奇心、友情、正義感、使命感、忠誠心、慈悲などである。

人間

人間は青年。
彼らは、ホビットと違ってそれぞれ守るものがある。

ホビットのように、単純な動機で動くことができないし、かといってガンダルフの知性には遠く及ばない。

迷い、苦しむ。

それゆえに深みがある。

賢者

彼らは父親である。
ガンダルフは良い父性の化身である。
彼がいれば、安心する、すべてうまくいく。
だけど、彼には彼の世界がある。
常に、そばにいてくれるとは限らない。
父親が不在の時に、青年や子供たちは自分の力で世界と向き合わなければならない。
そして、父親はいずれ去っていく。

それが、 自立である。


なので、「ガンダルフは肝心な時にいない」のである。


サルマンは悪い父性の化身である。
ある時はその魅力的な声で誘惑し、ある時はその知識と恐ろしい言葉で襲いかかる。
父性は、子供たちをコントロールしようとする。
いつかは子供たちは、自分たちの力で悪しき父性を乗り越えなければならない。

それも自立である。


そのほかのキャラクターと人間を取り巻く環境

冥王

冥王は環境である。
冥王自体は、実態として登場しない。
実態として存在しないにもかかわらず、世界はそいつを中心に回る。
こいつは、村上春樹でいうところの、リトルピープルや、システムや、壁に近い存在なんだと思う。

僕らが本当に戦わないといけないのは、目には見えないものである。

エルフとドワーフ

エルフやドワーフは、他者である。
彼らは、感情移入の対象ではなく、あくまでも隣人である。

合わせ鏡のキャラクター

指輪物語に出てくるキャラクターは、それぞれ対になるキャラクターがいる。

フロドxゴクリ

どちらも指輪に魅せられた者同士。
ゴクリはある意味ではフロドの未来の姿である。
だからこそ、フロドはゴクリを殺せなかったのではないだろうか。

アラゴルンxボロミア

どちらもたくさんの人間の命を背負っている。
ボロミアは精神的に弱く描かれているが、ある意味では一番人間味のある人物ではないだろうか。

ガンダルフxサルマン

どちらも父性を体現している。物語の描写でもガンダルフとサルマンが見分けがつかないシーンもある。
ある意味では、二人は同一人物といってもいいのかもしれない。
強力な父性を持った父親を別の角度から見ただけなのかもしれない。


死中に活を見出す方法

冥王サウロンは邪(よこしま)なそんざいである。
だから、邪な考えに縛られる。

指輪を持った者は指輪を使うとしか考えることができない。

指輪を持った者が指輪を破壊する(それも敵の懐に飛び込んで)なんてことは夢にも思わない。

そこにこそ、希望がある。


敵の裏をかくには、もっとも困難と思える道をあえて行くことが大事。

詩の力、言葉の力

指輪物語にはたくさんの詩がでてくる。
物語の中で、詩が重要な役割を果たしている。

詩というものには力がある。



また、魔法使いたちは、あんまり魔法を使わない。
言葉で戦う。
知性こそが力である。


見るということ、知るということ

見ること、知ることはとても重要である一方、それに耐えられるだけの力がないと、恐ろしい結果になる。
見たい、知りたいという誘惑の向こうで、サウロンはいつでも待っている。
けれども、それに耐えられるだけの力と勇気を持った者には、大きなチャンスを与える可能性もある。
サウロンを揺さぶることができるかもしれない。

見ること、知ることには覚悟が必要である。

最後にものをいうのは慈悲の力


指輪物語の一つのテーマとして、慈悲の力というものがあると思う。
ガンダルフは一貫して、ゴクリを殺してはいけないという。
フロド、サムもそれに従い、どんなに裏切られようと、最終的にはゴクリを許す。

これが、最後の最後でものいう。


滅びの山にたどり着き、いよいよ指輪を捨てようとしたとき、フロドは誘惑に負けてしまう。

そこへ、ゴクリが現れて、指輪と一緒に火口へ落ちていく。

指輪を滅ぼしたのは、最後までゴクリを殺さなかった、フロドとサムの慈悲の力である。

どんに強い正義感や使命感でも達成できなかったことを、慈悲の力が巡り巡ってやり遂げたのである。

本当に大事なことは、自分自身の力でやるのではなく、自分が誰かに施したことが、回りまわって思いもよらないところで 達成するものである。




2015年5月26日火曜日

【絵本】『しあわせハンス』/何かを理解できるということは、本当は何にもわかっていないということである

最近、フェリクス・ホフマンにはまっている。

絶版本『しあわせハンス』を絵本屋さんで発見したので、衝動買い。




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あらすじは、わらしべ長者の逆パターン。

ハンスが手にした金塊が馬→牛→豚→ガチョウと、どんどん物々交換されて、最後には何にもなくなってしまう。だけど、ハンスはとても幸せでした、というお話。
 

息子(五歳児)にこの本を読んであげた第一声は、「よくわからん」だった。


息子は幸せ者だと思う。


この物語が理解できるということは、登場する物の価値について、その良し悪しが判断できるということである。

その価値がどんどん下がっていって、最後にはなくなってしまうが、ハンスは幸せであるというところに教訓がある。(他にも教訓はあると思うけど)


ハンスは、一般的な物の価値にとらわれないからこそ幸せである。

物の価値にとらわれない目で見れば、この物語は「わけがわからない」物語である。

つまり、(欲にとらわれない)幸せ者は、『しあわせハンス』の物語の意味が解らない。

(欲のせいで)幸せになれない者は『しあわせハンス』の物語の意味はよくわかる。

(そこに共感するかどうかは別問題として。そして、物の価値とうまく付き合いながら幸せを感じる人は別として。)



何かを理解できるということは、本当は何にもわかっていないんだということ。

そういうことも世の中にはある。


物欲に負けてこの本を買った僕は、ハンスの幸せには程遠い。

2015年2月14日土曜日

『ももたろう』の“誕生観”が好きだ

『ももたろう』の“誕生観”が好きだ。

ももたろう (日本傑作絵本シリーズ)
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『ももたろう』では、桃(子ども)はあちら側からやってくる。

昔話の世界では、子どもの誕生に関して、人は常に受け身である。

決して、子どもを手に入れるために能動的に行動しない。

桃(子ども)がやってくるのは、山へ芝刈りに、川へ洗濯へ行っているときである。

日々の生活を真面目に送っているときに、子どもは向こうからやってくる。



子どもを手に入れるために行動を起こすのは、山姥や魔女、鬼や天狗の役割である。



僕らは科学が発達し、物事の因果関係がわかったつもりでいる。

子どもは親がつくるものだと考えがちだ。

親がつくるから、子どものことは親が責任を取るものと思う。

親が責任を取らねばならないから、子どもは親が管理するものと思う。

子どもを管理しようとすると、余計なことをさせないようにする。大人の枠にはめようとする。過保護になる。

そんな時、親は鬼になる。天狗になる。山姥になる。魔女になる。

鬼になるのはつらい。

親もつらいし、子どももつらい。


自分の中の鬼が出てきそうになったとき、僕は『ももたろう』を思い出す。



子どもは、親が作ったものではない。


子どもは、“あちら側”から“こちら側”へ「どんぶらこっこ どんぶらこっこ」とやってきたものだ。

たまたまなのか、何かの導きなのかはわからない。

とにかく、僕のところめがけてやってきた。

他の誰のところでもなく、僕を選んでやってきてくれた。

だから、管理だとか、責任だとか、 そういうことは抜きにして、僕のところにやってきてくれたことを感謝して、ただただ大事に育てるのみである。


子どもが鬼退治に出かけるその日まで。

2015年1月16日金曜日

【子育て】あっかんべー

先日、おまじないの言葉について書いたけど、もう一つ、「あっかんべー」もなかなか良い。

大人は子どもに対して圧倒的に有利だけど、普段あまり意識していないと、この有利さを振り回しすぎて、子どもの逃げ道まで奪ってしまったりする。

そんな時に、「あっかんべー」は子どもにとってステキな武器になると思う。

言われた大人は、イラッとする。イラッとして子どもと喧嘩になる。

喧嘩になるということは子どもと対等になることだと思う。

「あっかんべー」は大人を子どもの位置まで引きずり下ろす魔法の言葉かもしれない。

大人も喧嘩になれば、そのうちバカバカしくなって諦めるかもしれない。

「あっかんべー」と言われた瞬間に、自分が大人の権力を振り回していたことに気づくかもしれない。

まあ、いつもいつも「あっかんべー」と言われたら、それはそれでやりにくいと思いますが、なにかしら逃げ道を残しておいてやるのも大事だと思います。

その辺のバランスも大事だとは思います。

あと、反対に親が子どもに対してNoをいう時にも「あっかんべー」はいいと思います。

僕なんかは特に、子どもにNoという時、なぜNoなのか、クドクド言い聞かせてしまいがちです。

でも、大人の優位性を振りかざしてクドクド説明しても、伝わらないことが多い。

そこで、「あっかんべー」と言ってみる。

大人の権力を自分から放棄して、子どもの位置まで降りていく。

一時的に喧嘩みたいになるけど、それはそれで子どもは自分を出せる。

すると、後に引きずりにくい。

まあ、いつもいつも「あっかんべー」を多用する大人げない親もどうかと思うけど。

2015年1月11日日曜日

【子育て】おまじないの言葉

ネクラな私は何かにつけて思い悩んでズルズルと後に引きずるタイプで、子どもにもその傾向が伝染するとアレだなと思っていたわけですが、子どもは子どもでいつの間にか、僕の知らないところで嫌なこととか悲しいとことを乗り越える力であったりテクニックを身に付けてきているようです。

その中で、僕が特に感心して、僕自身も使いたいと思ったテクニックを一つ。


うちの子は、食べたいおやつが食べられなかったり、遊びに行きたいのに行けなかったり、そんなちょっと残念なことがあったとき、「がっくし」と言って肩を落とします。

これって、結構いいなと思いました。

嫌なこと、残念なことがあったら、「がっくし」と言ってみる。そうすることでとりあえずの区切りを自分自身に付けることができる。
例えば、食べたいおやつを食べれなかったとき、「がっくし」ということで、「僕は今、“がっくし”な状態なんだ」と腑に落ちる。
自分の気持ちを客観的に見ることができる。(というか、本人は意識していないにしろ、客観的に見ている状態である)
そうすると、あんまり後に引かない。


逆にいつまでも引きずっているときって、

「おやつ食べたい! なんで僕は食べれないの?  なんとかすれば食べられるんじゃないの? そんなん納得いかない! なんで僕だけこんないやな思いしないといけないの! 云々・・・」

とまあ、“おやつ食べたい感情”に引っ張られて、頭がごちゃごちゃしてしまっていて、全然冷静じゃない状態だとおもう。

そういう時って、周りも大変だけど、本人も結構きつい(と思う)。


だから、意識して「がっくし」と言ってみる。

そうすると、まぁ、嫌なことが消えてなくなるわけではないけど、すこし落ち着く。気持ちを切り替えることができる。


もちろん、いつも「がっくし」と言えるわけではなく、「がっくし」と言えないほど嫌なことはたくさんある。
でも、それはそれで「“がっくし”レベルではない」という一つの指標になる。





子どもに限らず、こういう「おまじないの言葉」を一つ持っておくと、少し生きやすくなるかもしれません(僕のようなネクラは特に)。


僕らは、思ったことを言葉にすることもあれば、言葉にしたことから生まれる思いと言うものもある。

昔の人はそういうものを「言霊」と呼んだ、かどうかはわかりませんが、言葉にはそういう力があると思います。


あと、こういう「おまじない」を子どもに使わせるには、「こういう時は『がっくし』と言いなさい」と言う風に教えこむのは、あんまりよくないかもしれない。ちょっとくらいならいいかもしれないけど、多用すると、ある種の思考停止状態になってしまうかもしれない。

それより、きっと親自身が、「今日ビールないの? がっくし」とか、「今日は雨か、がっくし」とか、自分自身で使っているところを見せるのがいい思う。たぶん。

そうすると、子どもは子どもで勝手に「がっくし」のニュアンスとか使うタイミングとかを掴むし、勝手にアレンジして自分のものにする。もし自分には合わなかったら、使わない。それはそれでいいと思う。(うちの場合、「がっくし」は子どもが先に言い始めたんだけど。)


そんな風にして自分の家族にあった「おまじないの言葉」を作っていくと、楽しいかもしれません。


それでは。

バルス!

※僕は専門家ではなく、結構適当に書いているので、これが本当にいいかどうかはわかりません。なので、全然責任は持てません。

2014年12月21日日曜日

サンタクロースの不在性

もうすぐクリスマス。息子は「サンタさん捕まえるネン!」と意気込んでおります。

とても可愛らしい目標ですが、彼のささやかなその夢は叶うことはありません。

なぜなら、不在であることがサンタクロースがサンタクロースたる所以だからです。

人と人は、ここにあるものよりも、“ここにないもの”を共有するときに、強く結び付けられる(らしい)。

(たしかに、お互いにとって自明のことに対してコミニケーションをとる必要はなく、目の前にないものをお互いが理解し合うことがコミニケーションの本質かもしれない。違うかもしれないけど。)

戦没者を共有することで国家はつながる。

救世主を待つことで宗教が生まれる。

サンタクロースを共有することで、家族は繋がる。

語らいの中で、子どもが考えるサンタクロース像と、親が考えるサンタクロース像をすり合わせ、その家庭独自のサンタクロース像を作り上げる。

各家庭はオリジナルのサンタクロース像を持ち、同じサンタクロース像を持つのが家族である。

たぶん。

サンタクロースは、その不在性に意義がある。

そして、サンタのプレゼントは、サンタクロースの存在の「しるし」だと思う。

サンタクロースは永遠に不在である。だけど確かに存在している。

なぜなら、親と子供は確かにここにいないのサンタクロースを共有したんだから。

その証として、朝、ツリーの下に(あるいは枕元に)プレゼントが置かれる。

子どもは、プレゼントを通して見たこともないサンタクロースの存在を実感する。

(それが“僕のことを分かってくれているサンタ”なのか“全然分かってないサンタ”なのかはわかりませんが、とにかく実感する。)

誰も見たこともないにもかかわらず、それでもなお、お父さんとお母さんと子どもは同じサンタクロース像を共有している。

それは、すごいことだと僕は思う。奇跡的だと思います。

サンタクロースは偉大です。

大切なのは、家族がサンタクロースという物語を共有することだと思います。

2014年12月9日火曜日

自然のサイクル、人のサイクル

通勤中に電車から、海が見える。

海の表情は毎日違う。

眩しい太陽をぎらぎら反射させている日。

どんより雲が立ち込めている日。

静かに雨が降り注ぐ日。


だけど、100年たっても海は、大体こんな海なんだろうと。



通勤中に、電車から街並みが見える。

人口の町並みは、毎日大体同じ。

晴れていようが、風が吹こうが、雨が降ろうが、ほとんど表情は変わらない。


だけど、100年たったら今ある街並みは、ほとんど跡形もないだろう。



 だからどうだというわけでもないのだけれど。

『負の方程式』/宮部みゆきが提示する、新しい探偵像

宮部みゆき『ソロモンの偽証』文庫版の最後についていた中編、『負の方程式』を読んだ。

ソロモンの偽証: 第III部 法廷 下巻 (新潮文庫)
宮部 みゆき
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この『負の方程式』では、宮部みゆきの「新しい探偵像」というのもを、かなり意識的に描いていると思う。

シャーロックホームズのようなインテリ探偵でもなく、フィルップ・マーロウのようなハードボイルドでもなく、コナンのように体は子どもでもなく。
(あまり探偵物を読んでないので、ミステリー小説の歴史についての知識は適当だけど)


宮部みゆきが提示する新しい探偵像は、「だっせえ探偵」。

宮部みゆきは、この中編『負の方程式』を“ボーナストラック”的に挿入したといっているけど、その内側には、この新しい探偵像をこれから世界に向けて押し出していこうとする作家としての野心を感じずにはいられない。

楽しみです。

2014年11月24日月曜日

もし君が妖怪をウォッチすることができたなら

もし君が妖怪をウォッチすることができたなら、妖怪はそこにいないということなんだ。

2014年9月11日木曜日

花いちもんめは「システム」に対するワクチンである

先日、小学生が「花いちもんめ」をしているところに出くわした。

改めて見てみると、花いちもんめって面白い。

やっているうちに、だんだん呪術的な趣きが出てくる。


なんというか、右チームと左チームでメンバー自体はどんどん入れ替わっているはずなのに、それぞれのチーム自体が独立した意志(人格)を持ちだしているように見える。

右チームは左チームに勝ちたいと思っているし、左チームは右チームに勝ちたいと思っている。

それは、人が入れ替わっても持続する。



よくできた遊びだなぁと思う。


個人レベルでは、その場その場の勝ち負けに一喜一憂しているんだけど、それとは別に集団としての勝ち負けがある。

しかも、個人の意志は、どの集団に属するかで180度変わってしまう。集団の意志の中に飲み込まれてしまう。

なんというか、人間というものの不思議さを教えられる。


たぶん、この集合的意識みたいなものは、村上春樹が言っている「システム」というものなんだと思う。


その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。(【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)

我々は「花いちもんめ」というシステムを作った。だけど、いつの間にかシステムのために我々が競い合っている。

もちろん、花いちもんめは楽しい遊びだ。

だけど、たぶんこれは、ある意味で社会の縮図なんだと思う。


僕らはある意味で、巨大で複雑な「花いちもんめ」の中で生きている。

そいつらは、資本主義と言ったり、民族自決と言ったり、まあ、いろいろ。

花いちもんめのように楽しくやっているうちはいい。

だけど、気を付けないと「システム」は僕ら人間に憎しみ合ったり、殺し合いをさせたりする。


だから村上春樹は言っている。

「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。「システム」に自己増殖を許してはなりません。「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。(【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)
(なんだか話が大きくなってきた)


だから、「花いちもんめ」って怖いなぁと言っているんじゃなくて、こういう遊びは社会に対する「ワクチン」みたいなもんなんだろなぁ、と思うわけです。



そういうことを遊びの中に取り入れてきた昔の人はすごいと思う。


(今回書いたことは、あくまでも「花いちもんめ」の面白さの一部です。ふと思ったことを備忘録的に書いただけです)



2014年9月6日土曜日

ゴーシャマダー

人もまばらな帰り道。

ようやく駅にたどり着く。

改札くぐるその耳に、

ふと聞こえるその言葉、

「ゴーシャマダー」。


僕は思わず立ち止まり、


心の中で口ずさむ。


「ゴーシャマダー」


夜を横切る電車の中、

何故か頭から離れない。

「ゴーシャマダー、ゴーシャマダー」




優しく響くその言葉。


疲れた心が癒される。



浅くまどろむ闇の中、


僕はふと気が付いた。



あれはたぶん、


「ご乗車ありがとうございまーす」だったんだろう。

2014年8月23日土曜日

【子育て】感想を保留状態にすることは大事だと思う

先日、ひさしぶりに姪っ子(小学4年生)にあっていろいろ話をした。

「『アナと雪の女王』を見た」というので「どうやった?」と聞いたら、

「わかりやすかった」

という答えが返ってきた。


わかりやすかった!


“面白い”とか“ツマらない”とかではなく、“わかりやすかった”ってどういうことだろう。

“わかりにくかった”っていうなら理解できる。

だけど、“わかりやすかった”っていう答えは僕を混乱させた。

だって、何かがわかったんならそれに対して何かしらの感想が想起されてしかるべきではないか?

「話の流れはわかった。で、結局何が言いたいの?」ってことだろうか?




「わかりやすかった」っていうことは、結局「何一つわからなかった」っていうことだろうか?


僕はあれこれ考えた。

『アナと雪の女王』は中身のない空っぽの映画なんだろうか?

姪っ子の(映画に対する)読解力が弱いんだろうか?

姪っ子のコミュニケーション能力の問題だろうか?



しばらく考えた結果、こういう結論に達した。




映画も姪っ子も何の問題はない。


問題があるのはむしろ僕の方だ。


僕の「映画どうやった?」っていう質問がそもそも適切ではなかったんだという思いに至った。



ます、映画はたぶん素晴らしいものなんだろう。(見てないからわからないし、これからも見るつもりはないけど。)


姪っ子は「わかりやすかった」と言っているが、たぶんそれは「ストーリーの流れはわかった」ということだろう。話の前後関係、因果関係は子どもにも理解できたということだろう。
だけど、きっと、彼女はこの物語が「面白かった」とか「感動した」とか「面白くなかった」とか、そういう感想を“保留”している。

にもかかわらず、そのうえで彼女はこの物語が好きなようだ。(それは、映画の中の歌を楽しそうに歌ったりしている様子からわかる)

たぶん、そういう物語は素晴らしい(はず)。


「なんだかよくわからないけど、この物語には何かしら大事なことが込められている」ということを彼女はよくわかっている。それは、単純に「面白い」とか「感動した」とかでは言い表せないものだ。

僕だって「『フラニ―とズーイ』ってどうやった?』って聞かれたら、困ってしまう。


面白いかと言われたら、まあ面白いんだけど、別に大笑いする話でもないし、いらいらする部分もあるし、、、なんと答えたらいい変わらない。「自分で読んでみてよ」って言うしかない。(読んでもらったとしても同じ感想を得られるわけでもないけど)


たぶん、素晴らしい物語はそういう類のものだと思う。言葉で言い表せないけど、直観的に何か大事なことが詰まっている、今はわからないけど、いつかわかるときが来るかもと思わせられる部分がある、そういうもの。

だいたい、もし物語を一言で言い表せるならそもそも物語なんていらない。

そういう意味で、『アナと雪の嬢王』はたぶんいい映画なんだろうと思う。


そして、姪っ子の読解力、コミュニケーション能力にも何の問題もない。むしろ素晴らしいものを持っている。

『アナと雪の女王』には何かしら素晴らしいものが秘められていると直観的に感じている。それだけでたぶん十分だろう。たぶん、これはいくつになっても大事なものだと思う。何でもかんでもわかった気になってしまうと、それ以上深く物語を読み解くことはできない。(姪っ子は「わかりやすかった」といっているけど、まぁ、それは「何もわからなかった」の裏返しなわけで。)

コミュニケーション能力についても、僕が「どうやった?」と聞いたから仕方なく答えただけで、むしろ僕の方に問題がある。それに、単純に「面白かった」とか「つまらなかった」と答えずに、何とか感想を“保留”しようとする試みが見られる。
自分の中でこの映画の位置を固定したくないという抵抗を感じる。
素晴らしい判断だと思う。




それに比べて僕の軽率な言動は何だろう、猛省している。

僕はいったい何を聞きたかったんだろう?

「面白かった」という答えを期待していたんだろうか?

それとも「『アナと雪の女王』はキリスト教とイスラム教を象徴している(適当)」とか言うよくわからない論説を期待していたんだろうか?




いずれにしても、僕の不用意な一言で、彼女の中で『アナと雪の女王』は“わかりやすい物語”という位置付けになってしまった。

それは、とても申し訳ないことだと思う。
だけど、でもたまたま今回は、彼女自身の力で“わかりやすい物語”程度ですんだ。



たぶん、普通なら単純に「面白い物語」とか「アナがかわいい物語」として固定されてしまうところだ。


だけど、さっきも言ったように、物語はそんなに単純じゃない。言葉で表現できないから僕らは物語る。(村上春樹も、「フィクションで真実をおびき出す」みたいなことを言っていた。たぶん、真実を語るには物語りが必要なんだと思う。)

それをお手軽に子どもから引き出そうなんてすることは、たぶん間違っている。

だから、僕らは子どもに語りかけるときは、とても注意を払わないといけない。(払いすぎて緊張するのもだめだけど)


映画に限らず、僕らはつい「どうやった?」と聞いてしまう。

絵本を読んだり、動物園に入ったり、保育園から帰ってきたり、いろんなシーンで。


たぶんそれは、僕らの満足のために聞いている。僕らが提供したサービスがよきものであったことを確認するために聞いている。(あるいは悪かったとき、次より良くするために。)


だけど、子どもたちのために、それらの体験の意味を“保留状態”にしてあげることも大事なんじゃないだろうか。

それは、“自分の感想を的確に表現する”みたいなことよりもっと大事なことなんじゃないだろうか。



※とはいうものの、映画を見たり、動物園に入ったり、特別なことをした後は何かしら語り合いたいもので、じゃあどういう話をするべきかは、僕も模索中です。とても難しい。
例えば動物園にいったなら、「なにを見た」だとか、そういう事実を提供してやって、自然に子どもの方から感想が出てくるのを待ったりしている。それがよい方法かどうかはわからないけど。