2013年1月28日月曜日

『ためらいの倫理学』と『ダンス・ダンス・ダンス』と『リーン・スタートアップ』の共通点

単なる備忘録です。

以下の3冊について共通点を発見したので忘れないうちにメモをします。



  • 内田樹『ためらいの倫理学』
  • 村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』
  • エリックリース『リーン・スタートアップ』



共通点は「留まらず動き続けること」。


『ためらいの倫理学』ではあとがきに
自分の正しさを雄弁に主張することができる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性の方が、私は好きだ
とある。
一見正しいと思える「知性」に留まらない。「間違っているかもしれない」、「わからない」という愚かさを吟味する(動き続けること)重要性が語られている。


『ダンス・ダンスダンス』では羊男が
音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。
と言っている。

『リーン・スタートアップ』では、大きなリスクを負わずに小回りが利くサイズで動けと説いている。
訳者あとがきに、

地図を捨ててコンパスを頼りに進め
とある。(カッコイイ!)


わかりやすいもの、安心するもの、巨大なものに取り込まれず、「動き続けること」が大事だと思った。




バラバラな情報から、共通点を発見する。

楽しい。





  

2013年1月16日水曜日

なぜ「夢はデカくなけりゃつまらない」のか?(考察中)

子どもの質問に真面目に答えるのは大変だ。


子どもが保育園で、忍たま乱太郎の『勇気100%』を覚えてきた。


しょっちゅう歌っている。



いい歌だと思う。


”太陽みたいに笑う君”

とか

”僕たちが持てる輝き”


など、フレーズがいい。




そんな『勇気100%』、なぜか息子は


「”夢はー でかくなーけりゃー つーまーらーないだろー” ってなんでー?」


と聞いてくる。


何度も何度も聞いてくる。



なぜそこに引っかかるんだろう?




とりあえず、次のように答えた。




A「大きいほうが長く楽しめるから」



しかし、子どもは納得しないのか、ことあるごとに質問を繰り返す。


僕もこの答えは、なんとなくしっくりこない。


なんでだろ?


なんでそこに引っかかるんだろう。






僕も、何度も何度も考えた。





なんで「夢はデカくなけりゃつまらない」んだろう?




Q「小さい夢じゃダメなんですか?」


と自問自答した。




とりあえず、第二の回答を思いついた。



A「デカいほうが何が起こるかわからないからだよ」





夢がデカいと不確定要素が大きい。



何が起こるかわからない。



だから面白い。



「そのほうがワクワクしないかい?」





とりあえず、今のところこの2つの答えを使いまわしている。




だけど、まだまだ問いは続きそうだ。





なぜ「夢はデカくなけりゃつまらない」んだろう。



禅問答は続く。





2013年1月15日火曜日

英語では「死」は擬人化されている?



今回はこの記事の内容そのものについてではなく、「死」という概念について気になったので書き留めておこうと思います。


※以下は僕の勝手な想像です。




気になった部分
引用(日本語訳)
「死」ってやつを最初に騙してやったのは4歳の時です。

引用(原文)

The first time I cheated death was when I was 4.

最初、「『死』を騙す」っていう表現が変わっているなと思いました。


青年なりのユーモアの表現なのかなぁと思っていました。




でも、しばらくして、英語では「死」は人格みたいなものを持っているんではないか? と、ふと思いました。」



「法人」みたいなものかな? 概念に人格を与えてしまう感じ。






昔、『ジョー・ブラックをよろしく』っていう映画がありました。

ゴールデンラズベリーショーのなんかの賞をとったみたいだけど、なんとなく心に残っています。




この中で、ブラッドピットは自分のことを「死」と名乗っていた気がします。

「死」は話したり食べたり恋までします。




「英語圏では『死』は騙す対象であり、恋もするような『人格』を持っている」

というのが僕の仮説です。




ほんとのところはどうなんでしょう?


(親切な方、ご教授いただければ幸いです)




あと、日本ではどうなんだろう。


今、僕が使っている言葉で「死」は飛んだり跳ねたりしゃべったりするイメージはないけど、古典とかを調べていけば同じような感覚はあるんだろうか?







※「death」には「死」のほかに「死神」という意味もある。
「この場合は『死神』と訳したほうがいいんじゃないの?」という考えもあるかもしれない。
でも、英語では「死」も「死神」も同じ「death」で表す以上、彼らは「死」も「死神」も基本は同じものとして認識しているという仮定しました。


2013年1月14日月曜日

がんばれ!消防車

消防車消防車 / yto

うちの子供は、はたらく車が大好きです。


はたらく車を見かけると、テンション上がってしまいます。


なので、街中で、救急車や消防車を見て喜んでしまうと気まずいなぁと思っていました。


ところが、こないだ息子と一緒に消防車を見かけた時、息子は


「がんばれwww!」


と叫んでいました。



目からうろこが落ちました。



僕は、いつのまにか救急車、消防車が困っている人たちを助けているという単純なことを忘れ、「困っている人がいる」という部分だけに目がいくようになっていました。

そして頭の中で、救急車や消防車がまるで「不幸の象徴」みたいなイメージを頭の中で作っていました。

(救急隊員さん、消防隊員さん、ごめんなさい)



でも、この日から、救急車や消防車を見ると、子どもと一緒に「がんばれww」と叫ぶようになりました。


それから、心の中で「もう大丈夫。不幸の種は取り除かれた」と思うようになりました。



物事は見る方向で全く違うものが見えるのだというお話です。

2013年1月9日水曜日

【映画】バットマン・ビギンズ/なぜ「ビギンズ」を描く必要があったのか

久々の映画鑑賞。

バットマン新シリーズシリーズ、1作目。

評判のいい『ダークナイト』を見たいがための前段として『バットマン・ビギンズ』を見ました。




以下、ネタバレ含みます。



バットマンの図
BEGINS!










クリストファー・ノーランはなぜ「ビギンズ」を描く必要があったのか


映画を観終わった後、このサブタイトル「begins」について、非常に納得しました。


これは「バットマン誕生物語」としての「begins」ではあるけれども、それ以上に新バットマン3作の「1作目」としう意味の「begins」でもあると思う。


つまり、クリストファー・ノーラン監督から

「みなさん、今までのバットマン像はいったん忘れてください。これから3作通して描く”バットマン”はこういうものなんです」

というメッセージが込められていると思います。




この映画で描かれているバットマンおよびその世界観はこれまでのバットマンと一線を画します。


これまでのバットマンを想定したまま次の「ダークナイト」「ダークナイトライジング」を見てしまうと、「???」となってしまうと思う。(見てないから想像だけど、たぶん間違いない)


だから、この「ビギンズ」で鑑賞者の頭の中をいったんリセットして、新バットマンの世界観をみんなで共有する意味合いが非常に強いように感じました。


もちろん、この映画単体としても面白かったです。



テーマは恐怖


僕の感じたこの映画のテーマは「恐怖」だと思います。

敵もバットマンも「恐怖」を武器にしている。


敵を一人一人こっそりやっつけていくバットマンはまるで「プレデター」だ。どちらかというと悪者の手口だ。




また、悪者の破壊活動も「恐怖」を念頭に計画されている。

ただ単に街を破壊するだけならほかにも方法がある。だけど、あえて回りくどい方法をとっているのは、街中を「恐怖」で満たすことに重点を置いている。



バットマンも悪者も、恐怖を利用して理想を目指します。


重要なのは恐怖とどう対峙するか? だと思いました。



スパイダーマンとの比較


最近のアメコミ映画として、やっぱりスパイダーマンと比較してしまいます。



スパイダーマンとの違いとして、僕は2つの点があると思う。


違い1:超人の成り立ち

スパイダーマンは蜘蛛に刺されて特殊な力を得る。冴えない学生(だったっけ?)がいきなり超人的パワーを得ることによって人生ががらりと変わるというパターン。
突然得た力に普通の人が翻弄される苦悩を描いている。


一方バットマンは、身体的に何らかの超人的パワーがあるわけではない。彼は精神力と科学とトリックで超人になる。
それらを身に着けるため、子どものころのトラウマを執拗に克服しようとする主人公が描かれている。そのため、物語前半はかなり泥臭い。バットマンにたどり着くまで結構時間がかかる(それでも最初の方は展開が急ぎ足に感じたけど)。


どちらがいいというわけではないけど、同じヒーローものでも超人の成り立ちが全然違うので、テーマも全然違う。



違い2:スパイダーマンは「動」。バットマンは「静」。

スパイダーマンは「動」のイメージ。音も立てずにそーっと忍び寄る。
音はないけど、忍び寄るイメージが映像として思い浮かぶ。
「バレエ」的な動き。


バットマンは「静」のイメージ。気が付いたらそこにいる。
いつのまにそこにいるのか、どうやってそこにいたのか想像がつかない。
未知のもの、理解不可能なことに対する「恐怖」がここでも表現されている。
「能」的な動き(イメージだけど)

そういえば修業のシーンで師匠が「隠れるのではなく消える!」みたいなことを言ってた(正確じゃないけど)

僕は、どちらかというとバットマンのたたずまいというか、姿勢というかが大好きです。

あのマスクをかぶると、「バットマンは動じんなぁ」といっつも感心してしまいます。



世界観

バットマンのメインステージとなる「ゴッサムシティ」は、現実世界の一部として描かれている。
これまでのバットマンのゴッサムシティとは違い、かなり「現実的」だ。

バットマンのアイテムも近未来にありえそうなものだ。


恐怖とどう対峙するか? という人間的な部分をより濃く描くために、SF的な何でもありの要素を排除したんじゃないかなと思う。


この映画で一番SF的(アメコミ的?)なのは、ヒマラヤと忍者の組み合わせだと思う。

「なんでヒマラヤに忍者やねんwww」という突っ込みは「アメコミ」という枠で吸収可能な映画的ちっちゃな「ウソ」だと思います。


許容できない人もいるだろうけど、僕は「アメコミだからな」の一言で笑って許容できる範囲でした。




乗り越えるべきは父親

テーマとして「恐怖」というのはあるけど、もう一つ「父親を乗り越える」というテーマもあると思う。

偉大な父親の「負」の部分が自分や街に襲い掛かかる。(父親が残した会社の資金力や開発した兵器など。また、父親が作った街のシステムそのものが凶器として利用される。)

また、それによって、父親を象徴するビルが破壊されそうになる。


それに対して、父親の誇りを守り、街の破壊を阻止することことで、父親を乗り越える。


また、敵によって父が自分に残してくれた「居場所」は破壊されてしまう。


だけど、戦う術を身に着けた主人公は、自分で自分の居場所(基地)を再建することを誓う。

父親のトラウマのために父親の力で戦うのではなく、自らの意志で自らの力で戦うという決意の表れだと思います。


この「ビギンズ」の物語を通して主人公は父親から解放される。それこそが本当の「バットマン誕生」ではないだろうか?


父親の呪縛から解放されたバットマンが、次回作からどう戦っていくのか!?



『ダークナイト』。楽しみです。




あとがき


この映画を見るにあたって、「バットマン・リターンズ」でも「バットマン・フォーエバー」でもなく、正しく「バットマン・ビギンズ」をレンタルしてきてくれた妻に、この場を借りてお礼を言いたいと思います。

ありがとう。



2013年1月5日土曜日

無いもの探しゲーム

立て続けに、内田樹先生の著書を読んで、人間は「あるものを共有する」よりも「ないものを共有する」ことに重きを置く云々というくだりにフムフムと納得しました。

じゃあ、自分に無いものってなんだ? と考えた時、結構困る。

「有るもの」は有限だけど、無いものは「無限」だから。

無限の中から、「これが無い」と選択するのはなかなか難しい。

でも、その中から選び出されたものは、自分にとって何らかの意味を持つ。

「きっと、無いものを理解することは人生において重要だ!」 と思い、「ないもの探しゲーム」というのを考え付きました。

なんてことはないんですが、「古今東西」のお題を「ここにないもの」にしただけのものです。

(物体の名前だけでなく、概念やシステムなんかを含めると広がりがあって面白いと思うけど、わけわかんなくなります)

かっこよく言えば、消去法によって自己を捉える試みですね。

彫刻みたいに、どんどん削り取っていく感じです。

で、嫁とやってみましたが、これ、意外と難しい。

ありとあらゆる無い物から、ひとつ選び出すっていうのはなかなかセンスが問われます。

相手に「おお!」と言わせるようなものを言うのはなかなか出てこない。

自分のボキャブラリーの少なさに愕然としました。

このゲームをやってみて思ったのが、「無いもの」は無限にあるのだけど、「無いもののうちで言葉にできるもの」はごく一部で、その外側には「言葉にできないもの」がさらに広がっていることを実感できました。

(内田先生もこの言語化できない方の共有が大事と言ってるのかな?)

結局僕らが認識できるのは言語化できるものだけなんだなぁと。

きっと、この言語ができないものを表現するのが芸術なんだなぁと思いました。

子供が大きくなったら、「無いもの探しゲーム」をやってみたいと思います。

世にも奇妙な我が家の”トイ・ストーリー”

あけましておめでとうございます。


新年になり、僕の周りでポツポツと不思議な出来事が起こっているのを感じます。


そんな不思議な出来事の中から、心温まる、我が家の”トイ・ストーリー”を紹介します。



平成二十五年、1月5日。


実家に子供を預け、用事を済ませた後、部屋の整理をしていました。


我が家は、車好きの長男のおかげで、あらゆる方からあらゆる車のおもちゃをいただいています。




たくさんのおもちゃ中には、相当使い込んでガタがきているものもあります。


ですので、そろそろ、おもちゃを整理しないといけないなと考えていました。



そんな中、HONDAのお店でいただいた、FREEDの模型に白羽の矢が立ちました。




「ちょっと壊れているし、2つもあるし、割と大きいし。処分しようか?」


と妻と話しました。

Freed x 2
ターゲットのFREEDの模型





もうすぐ息子たちが実家から戻ってくるので、子どもが寝付いてからこっそり処分しようということになりました。




さて、しばらくして両親が息子たちを連れてきました。


両親の手にはHONDAの紙袋を下げていました。


新年フェアみたいなのをやっていたようです。


そして、なんと、息子の手には、FREEDの模型があります!



僕と妻はびっくりしました。



ついさっき、模型を処分しようと相談してたのに、息子は3台目の模型を持って帰ってきたのです。

Freed x 3
一番左が3台目 しかもプレミアムホワイトパール


僕たちは、FREEDの模型を捨てることができなくなってしまいました。


息子の頭の中にはFREED x 3 が頭の中に強烈に印象付いてしまったため、こっそり捨てることは不可能です。



「やられたな。」と思いました。


僕たちは、FREEDにしてやられたんだと思いました。




FREEDは僕たちの会話を聞いていて、あらゆる戦略を駆使して、新FREEDを息子に持って帰ってこさせたんだと思います。




まるでトイ・ストーリーのように。




きっと、うちからHONDAのお店までおもちゃたちが大冒険を繰り広げて、新FREEDを説得して連れて帰り、古いFREEDを救ったんだと思います。




モノには生命力があります。


自分の生命を全力で守り抜こうとする意志があります。



だから、モノにはそれなりの敬意を払わないといけないなと思いました。



そんなことに気が付いた平成二十五年、一月五日。



あけましておめでとうございます。


本年もネクラ父さんをよろしくお願いいたします。