2015年1月11日日曜日

【子育て】おまじないの言葉

ネクラな私は何かにつけて思い悩んでズルズルと後に引きずるタイプで、子どもにもその傾向が伝染するとアレだなと思っていたわけですが、子どもは子どもでいつの間にか、僕の知らないところで嫌なこととか悲しいとことを乗り越える力であったりテクニックを身に付けてきているようです。

その中で、僕が特に感心して、僕自身も使いたいと思ったテクニックを一つ。


うちの子は、食べたいおやつが食べられなかったり、遊びに行きたいのに行けなかったり、そんなちょっと残念なことがあったとき、「がっくし」と言って肩を落とします。

これって、結構いいなと思いました。

嫌なこと、残念なことがあったら、「がっくし」と言ってみる。そうすることでとりあえずの区切りを自分自身に付けることができる。
例えば、食べたいおやつを食べれなかったとき、「がっくし」ということで、「僕は今、“がっくし”な状態なんだ」と腑に落ちる。
自分の気持ちを客観的に見ることができる。(というか、本人は意識していないにしろ、客観的に見ている状態である)
そうすると、あんまり後に引かない。


逆にいつまでも引きずっているときって、

「おやつ食べたい! なんで僕は食べれないの?  なんとかすれば食べられるんじゃないの? そんなん納得いかない! なんで僕だけこんないやな思いしないといけないの! 云々・・・」

とまあ、“おやつ食べたい感情”に引っ張られて、頭がごちゃごちゃしてしまっていて、全然冷静じゃない状態だとおもう。

そういう時って、周りも大変だけど、本人も結構きつい(と思う)。


だから、意識して「がっくし」と言ってみる。

そうすると、まぁ、嫌なことが消えてなくなるわけではないけど、すこし落ち着く。気持ちを切り替えることができる。


もちろん、いつも「がっくし」と言えるわけではなく、「がっくし」と言えないほど嫌なことはたくさんある。
でも、それはそれで「“がっくし”レベルではない」という一つの指標になる。





子どもに限らず、こういう「おまじないの言葉」を一つ持っておくと、少し生きやすくなるかもしれません(僕のようなネクラは特に)。


僕らは、思ったことを言葉にすることもあれば、言葉にしたことから生まれる思いと言うものもある。

昔の人はそういうものを「言霊」と呼んだ、かどうかはわかりませんが、言葉にはそういう力があると思います。


あと、こういう「おまじない」を子どもに使わせるには、「こういう時は『がっくし』と言いなさい」と言う風に教えこむのは、あんまりよくないかもしれない。ちょっとくらいならいいかもしれないけど、多用すると、ある種の思考停止状態になってしまうかもしれない。

それより、きっと親自身が、「今日ビールないの? がっくし」とか、「今日は雨か、がっくし」とか、自分自身で使っているところを見せるのがいい思う。たぶん。

そうすると、子どもは子どもで勝手に「がっくし」のニュアンスとか使うタイミングとかを掴むし、勝手にアレンジして自分のものにする。もし自分には合わなかったら、使わない。それはそれでいいと思う。(うちの場合、「がっくし」は子どもが先に言い始めたんだけど。)


そんな風にして自分の家族にあった「おまじないの言葉」を作っていくと、楽しいかもしれません。


それでは。

バルス!

※僕は専門家ではなく、結構適当に書いているので、これが本当にいいかどうかはわかりません。なので、全然責任は持てません。

2014年12月21日日曜日

サンタクロースの不在性

もうすぐクリスマス。息子は「サンタさん捕まえるネン!」と意気込んでおります。

とても可愛らしい目標ですが、彼のささやかなその夢は叶うことはありません。

なぜなら、不在であることがサンタクロースがサンタクロースたる所以だからです。

人と人は、ここにあるものよりも、“ここにないもの”を共有するときに、強く結び付けられる(らしい)。

(たしかに、お互いにとって自明のことに対してコミニケーションをとる必要はなく、目の前にないものをお互いが理解し合うことがコミニケーションの本質かもしれない。違うかもしれないけど。)

戦没者を共有することで国家はつながる。

救世主を待つことで宗教が生まれる。

サンタクロースを共有することで、家族は繋がる。

語らいの中で、子どもが考えるサンタクロース像と、親が考えるサンタクロース像をすり合わせ、その家庭独自のサンタクロース像を作り上げる。

各家庭はオリジナルのサンタクロース像を持ち、同じサンタクロース像を持つのが家族である。

たぶん。

サンタクロースは、その不在性に意義がある。

そして、サンタのプレゼントは、サンタクロースの存在の「しるし」だと思う。

サンタクロースは永遠に不在である。だけど確かに存在している。

なぜなら、親と子供は確かにここにいないのサンタクロースを共有したんだから。

その証として、朝、ツリーの下に(あるいは枕元に)プレゼントが置かれる。

子どもは、プレゼントを通して見たこともないサンタクロースの存在を実感する。

(それが“僕のことを分かってくれているサンタ”なのか“全然分かってないサンタ”なのかはわかりませんが、とにかく実感する。)

誰も見たこともないにもかかわらず、それでもなお、お父さんとお母さんと子どもは同じサンタクロース像を共有している。

それは、すごいことだと僕は思う。奇跡的だと思います。

サンタクロースは偉大です。

大切なのは、家族がサンタクロースという物語を共有することだと思います。

2014年12月9日火曜日

自然のサイクル、人のサイクル

通勤中に電車から、海が見える。

海の表情は毎日違う。

眩しい太陽をぎらぎら反射させている日。

どんより雲が立ち込めている日。

静かに雨が降り注ぐ日。


だけど、100年たっても海は、大体こんな海なんだろうと。



通勤中に、電車から街並みが見える。

人口の町並みは、毎日大体同じ。

晴れていようが、風が吹こうが、雨が降ろうが、ほとんど表情は変わらない。


だけど、100年たったら今ある街並みは、ほとんど跡形もないだろう。



 だからどうだというわけでもないのだけれど。

『負の方程式』/宮部みゆきが提示する、新しい探偵像

宮部みゆき『ソロモンの偽証』文庫版の最後についていた中編、『負の方程式』を読んだ。

ソロモンの偽証: 第III部 法廷 下巻 (新潮文庫)
宮部 みゆき
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この『負の方程式』では、宮部みゆきの「新しい探偵像」というのもを、かなり意識的に描いていると思う。

シャーロックホームズのようなインテリ探偵でもなく、フィルップ・マーロウのようなハードボイルドでもなく、コナンのように体は子どもでもなく。
(あまり探偵物を読んでないので、ミステリー小説の歴史についての知識は適当だけど)


宮部みゆきが提示する新しい探偵像は、「だっせえ探偵」。

宮部みゆきは、この中編『負の方程式』を“ボーナストラック”的に挿入したといっているけど、その内側には、この新しい探偵像をこれから世界に向けて押し出していこうとする作家としての野心を感じずにはいられない。

楽しみです。

2014年11月24日月曜日

もし君が妖怪をウォッチすることができたなら

もし君が妖怪をウォッチすることができたなら、妖怪はそこにいないということなんだ。

2014年9月11日木曜日

花いちもんめは「システム」に対するワクチンである

先日、小学生が「花いちもんめ」をしているところに出くわした。

改めて見てみると、花いちもんめって面白い。

やっているうちに、だんだん呪術的な趣きが出てくる。


なんというか、右チームと左チームでメンバー自体はどんどん入れ替わっているはずなのに、それぞれのチーム自体が独立した意志(人格)を持ちだしているように見える。

右チームは左チームに勝ちたいと思っているし、左チームは右チームに勝ちたいと思っている。

それは、人が入れ替わっても持続する。



よくできた遊びだなぁと思う。


個人レベルでは、その場その場の勝ち負けに一喜一憂しているんだけど、それとは別に集団としての勝ち負けがある。

しかも、個人の意志は、どの集団に属するかで180度変わってしまう。集団の意志の中に飲み込まれてしまう。

なんというか、人間というものの不思議さを教えられる。


たぶん、この集合的意識みたいなものは、村上春樹が言っている「システム」というものなんだと思う。


その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。(【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)

我々は「花いちもんめ」というシステムを作った。だけど、いつの間にかシステムのために我々が競い合っている。

もちろん、花いちもんめは楽しい遊びだ。

だけど、たぶんこれは、ある意味で社会の縮図なんだと思う。


僕らはある意味で、巨大で複雑な「花いちもんめ」の中で生きている。

そいつらは、資本主義と言ったり、民族自決と言ったり、まあ、いろいろ。

花いちもんめのように楽しくやっているうちはいい。

だけど、気を付けないと「システム」は僕ら人間に憎しみ合ったり、殺し合いをさせたりする。


だから村上春樹は言っている。

「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。「システム」に自己増殖を許してはなりません。「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。(【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)
(なんだか話が大きくなってきた)


だから、「花いちもんめ」って怖いなぁと言っているんじゃなくて、こういう遊びは社会に対する「ワクチン」みたいなもんなんだろなぁ、と思うわけです。



そういうことを遊びの中に取り入れてきた昔の人はすごいと思う。


(今回書いたことは、あくまでも「花いちもんめ」の面白さの一部です。ふと思ったことを備忘録的に書いただけです)



2014年9月6日土曜日

ゴーシャマダー

人もまばらな帰り道。

ようやく駅にたどり着く。

改札くぐるその耳に、

ふと聞こえるその言葉、

「ゴーシャマダー」。


僕は思わず立ち止まり、


心の中で口ずさむ。


「ゴーシャマダー」


夜を横切る電車の中、

何故か頭から離れない。

「ゴーシャマダー、ゴーシャマダー」




優しく響くその言葉。


疲れた心が癒される。



浅くまどろむ闇の中、


僕はふと気が付いた。



あれはたぶん、


「ご乗車ありがとうございまーす」だったんだろう。