2016年6月1日水曜日

【感想文】世界の終わりとハードボイルドワンダーランド/読むごとに味わいが変わる

もう何回目だろう、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』読んだ。

読むごとに、その味わいが変わる。

今回読んだ感想をメモ。(ネタバレ注意)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)
村上 春樹
新潮社
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ハードボイルド的文体の中に垣間見る日本人的弱さ

作者はこの二つの物語それぞれの文体をかなり楽しんで描いていると思う。

時々思うんだけど、「ダンス・ダンス・ダンス」で主人公と五反田君が真剣に冗談を語り合ったように、村上春樹は冗談みたいな内容を真剣に小説にしているんじゃないかと思うことがある。

この物語、特に「ハードボイルドワンダーランド」は、突拍子もない物語をハードボイルド風に描くと、いったいどんな物語になっていくのか、作者は楽しみながら描いているように思える。

まず、文体ありきで、物語は後からついてくる。そんな感じがする。

「ハードボイルドワンダーランド」の主人公は、確かにタフなんだけど、フィリップマーロウに比べると、ずいぶん弱さを感じさせるところがある。

こわがったり、叫びだしたり。

前までそこまで気にしなかったけど、今回読んで、ハードボイルド的な文体と、その中で垣間見せる日本人的な弱さの部分のギャップがよかった。


自我の中の永遠の命、他者の中の記憶

「ハードボイルドワンダーランド」で世界が終る直前、太った娘と電話するシーンで、

あなたがもし永久に失われてしまったとしても、私は死ぬまでずっとあなたのことを覚えているから。私の心の中からあなたは失われないのよ。そのことだけは忘れないでね」

というシーンがある。小説の中では特に言及していないけど、自分自身の中で完結する永遠の命より、他者の記憶の中で自分が生きていることのほうが、大事なんじゃないだろうか。このことによって、「私」は救われたんじゃないだろうか? そんな気がする。

2015年12月17日木曜日

『あさおひさまひかる』

あさおひさまひかる きょうもあさがやってきた
 
ごはんをたべたらでかけよう

きょうはなにがあるかな どんなものがあるかな

ゆうひがさしてきた きょうももうすぐおわりだね

あしたはなにがあるかな きょうもいろんなことがあったね

あしたのてんきもよさそうだね

あしたがもうすぐやってくる

あしたになったらなにしよう

たのしいあしたがやってくる

あかるいあさがもうすぐやってくる

またあした

ねながらあしたのことをかんがえよう

(さく:゛た)




2015年10月25日日曜日

小さなところから

ある日、子供の後にトイレに入ると、トイレットペーパーが新しくなっていた。



子供というものは、ほんとうに小さなところから成長するものだ。

2015年9月15日火曜日

恐竜

ティラノサウルスの子供と、小型肉食恐竜の大人ってどうやって区別するんだろう。

骨だけで見分ける研究者ってすごいと思う。

2015年9月12日土曜日

【感想文】『指輪物語』/ありとあらゆる教訓が詰まっている

『指輪物語』読了。
 
物語のありとあらゆる教訓が詰まっている、とりあえず今書き留められるだけ書き留めてみる。


文庫 新版 指輪物語 全10巻セット (評論社文庫)
J.R.R. トールキン 瀬田 貞二 田中 明子
評論社
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強大な敵に立ち向かうのではなくて、強大な力を捨てに行く

指輪物語は、強大な敵を倒しに行く物語ではない。
強大な力を持った指輪を捨てに行く物語である。

ある意味では、強大な敵そのものよりも、強大な敵が現れるかもしれないという状況のほうが恐ろしい。

指輪を持った者は強大な力を手に入れる。

だからみんなその力を使いたい。

だけど、もしその力を手に入れたとしたら、それは、その者自身がサウロンになる。

だから、指輪を捨てるしか方法がない。

そしてそれはとても難しいことである。




人間の成長とキャラクター

ホビット

ホビッとは、子供。
彼らは背負うものがない。
行動の基準は、好奇心、友情、正義感、使命感、忠誠心、慈悲などである。

人間

人間は青年。
彼らは、ホビットと違ってそれぞれ守るものがある。

ホビットのように、単純な動機で動くことができないし、かといってガンダルフの知性には遠く及ばない。

迷い、苦しむ。

それゆえに深みがある。

賢者

彼らは父親である。
ガンダルフは良い父性の化身である。
彼がいれば、安心する、すべてうまくいく。
だけど、彼には彼の世界がある。
常に、そばにいてくれるとは限らない。
父親が不在の時に、青年や子供たちは自分の力で世界と向き合わなければならない。
そして、父親はいずれ去っていく。

それが、 自立である。


なので、「ガンダルフは肝心な時にいない」のである。


サルマンは悪い父性の化身である。
ある時はその魅力的な声で誘惑し、ある時はその知識と恐ろしい言葉で襲いかかる。
父性は、子供たちをコントロールしようとする。
いつかは子供たちは、自分たちの力で悪しき父性を乗り越えなければならない。

それも自立である。


そのほかのキャラクターと人間を取り巻く環境

冥王

冥王は環境である。
冥王自体は、実態として登場しない。
実態として存在しないにもかかわらず、世界はそいつを中心に回る。
こいつは、村上春樹でいうところの、リトルピープルや、システムや、壁に近い存在なんだと思う。

僕らが本当に戦わないといけないのは、目には見えないものである。

エルフとドワーフ

エルフやドワーフは、他者である。
彼らは、感情移入の対象ではなく、あくまでも隣人である。

合わせ鏡のキャラクター

指輪物語に出てくるキャラクターは、それぞれ対になるキャラクターがいる。

フロドxゴクリ

どちらも指輪に魅せられた者同士。
ゴクリはある意味ではフロドの未来の姿である。
だからこそ、フロドはゴクリを殺せなかったのではないだろうか。

アラゴルンxボロミア

どちらもたくさんの人間の命を背負っている。
ボロミアは精神的に弱く描かれているが、ある意味では一番人間味のある人物ではないだろうか。

ガンダルフxサルマン

どちらも父性を体現している。物語の描写でもガンダルフとサルマンが見分けがつかないシーンもある。
ある意味では、二人は同一人物といってもいいのかもしれない。
強力な父性を持った父親を別の角度から見ただけなのかもしれない。


死中に活を見出す方法

冥王サウロンは邪(よこしま)なそんざいである。
だから、邪な考えに縛られる。

指輪を持った者は指輪を使うとしか考えることができない。

指輪を持った者が指輪を破壊する(それも敵の懐に飛び込んで)なんてことは夢にも思わない。

そこにこそ、希望がある。


敵の裏をかくには、もっとも困難と思える道をあえて行くことが大事。

詩の力、言葉の力

指輪物語にはたくさんの詩がでてくる。
物語の中で、詩が重要な役割を果たしている。

詩というものには力がある。



また、魔法使いたちは、あんまり魔法を使わない。
言葉で戦う。
知性こそが力である。


見るということ、知るということ

見ること、知ることはとても重要である一方、それに耐えられるだけの力がないと、恐ろしい結果になる。
見たい、知りたいという誘惑の向こうで、サウロンはいつでも待っている。
けれども、それに耐えられるだけの力と勇気を持った者には、大きなチャンスを与える可能性もある。
サウロンを揺さぶることができるかもしれない。

見ること、知ることには覚悟が必要である。

最後にものをいうのは慈悲の力


指輪物語の一つのテーマとして、慈悲の力というものがあると思う。
ガンダルフは一貫して、ゴクリを殺してはいけないという。
フロド、サムもそれに従い、どんなに裏切られようと、最終的にはゴクリを許す。

これが、最後の最後でものいう。


滅びの山にたどり着き、いよいよ指輪を捨てようとしたとき、フロドは誘惑に負けてしまう。

そこへ、ゴクリが現れて、指輪と一緒に火口へ落ちていく。

指輪を滅ぼしたのは、最後までゴクリを殺さなかった、フロドとサムの慈悲の力である。

どんに強い正義感や使命感でも達成できなかったことを、慈悲の力が巡り巡ってやり遂げたのである。

本当に大事なことは、自分自身の力でやるのではなく、自分が誰かに施したことが、回りまわって思いもよらないところで 達成するものである。




2015年5月26日火曜日

【絵本】『しあわせハンス』/何かを理解できるということは、本当は何にもわかっていないということである

最近、フェリクス・ホフマンにはまっている。

絶版本『しあわせハンス』を絵本屋さんで発見したので、衝動買い。




しあわせハンス―グリム童話 (世界傑作絵本シリーズ―スイスの絵本)
グリム
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あらすじは、わらしべ長者の逆パターン。

ハンスが手にした金塊が馬→牛→豚→ガチョウと、どんどん物々交換されて、最後には何にもなくなってしまう。だけど、ハンスはとても幸せでした、というお話。
 

息子(五歳児)にこの本を読んであげた第一声は、「よくわからん」だった。


息子は幸せ者だと思う。


この物語が理解できるということは、登場する物の価値について、その良し悪しが判断できるということである。

その価値がどんどん下がっていって、最後にはなくなってしまうが、ハンスは幸せであるというところに教訓がある。(他にも教訓はあると思うけど)


ハンスは、一般的な物の価値にとらわれないからこそ幸せである。

物の価値にとらわれない目で見れば、この物語は「わけがわからない」物語である。

つまり、(欲にとらわれない)幸せ者は、『しあわせハンス』の物語の意味が解らない。

(欲のせいで)幸せになれない者は『しあわせハンス』の物語の意味はよくわかる。

(そこに共感するかどうかは別問題として。そして、物の価値とうまく付き合いながら幸せを感じる人は別として。)



何かを理解できるということは、本当は何にもわかっていないんだということ。

そういうことも世の中にはある。


物欲に負けてこの本を買った僕は、ハンスの幸せには程遠い。

2015年2月14日土曜日

『ももたろう』の“誕生観”が好きだ

『ももたろう』の“誕生観”が好きだ。

ももたろう (日本傑作絵本シリーズ)
まつい ただし
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『ももたろう』では、桃(子ども)はあちら側からやってくる。

昔話の世界では、子どもの誕生に関して、人は常に受け身である。

決して、子どもを手に入れるために能動的に行動しない。

桃(子ども)がやってくるのは、山へ芝刈りに、川へ洗濯へ行っているときである。

日々の生活を真面目に送っているときに、子どもは向こうからやってくる。



子どもを手に入れるために行動を起こすのは、山姥や魔女、鬼や天狗の役割である。



僕らは科学が発達し、物事の因果関係がわかったつもりでいる。

子どもは親がつくるものだと考えがちだ。

親がつくるから、子どものことは親が責任を取るものと思う。

親が責任を取らねばならないから、子どもは親が管理するものと思う。

子どもを管理しようとすると、余計なことをさせないようにする。大人の枠にはめようとする。過保護になる。

そんな時、親は鬼になる。天狗になる。山姥になる。魔女になる。

鬼になるのはつらい。

親もつらいし、子どももつらい。


自分の中の鬼が出てきそうになったとき、僕は『ももたろう』を思い出す。



子どもは、親が作ったものではない。


子どもは、“あちら側”から“こちら側”へ「どんぶらこっこ どんぶらこっこ」とやってきたものだ。

たまたまなのか、何かの導きなのかはわからない。

とにかく、僕のところめがけてやってきた。

他の誰のところでもなく、僕を選んでやってきてくれた。

だから、管理だとか、責任だとか、 そういうことは抜きにして、僕のところにやってきてくれたことを感謝して、ただただ大事に育てるのみである。


子どもが鬼退治に出かけるその日まで。