2014年4月13日日曜日

天国の場所

子どもが図書館で借りてきた乗り物の図鑑に、次のような説明があった。

小惑星探査機『はやぶさ』
・・・役目を終えた『はやぶさ』は、流れ星になりました。

随分、詩的な図鑑です。

これを聞いて、息子(四歳)が

「”流れ星になった”てどういうこと?」

と質問してきたので、少し考えて

「天国に行ったんじゃないかな?」

と答えた。

すると息子は、

「天国って宇宙より上にあるの?」

と聞いてきた。

天国ってどこにあるんだろう?

宇宙の上?

それとも天国は宇宙に含まれる?

難しい問題です。

2014年4月7日月曜日

【感想文】『フラニ―とズーイ』/中二病に効く薬

図書館で借りた。

フラニーとズーイ (新潮文庫)
サリンジャー
新潮社 (2014-02-28)
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涙がぽろぽろあふれてきた。

物語に感動したわけでもなく、登場人物に感情移入したわけでもない。

ズーイの言葉に僕自身が救われた。


何のために祈るのか。

何のために働くのか。

何のために生きるのか。


(それが全てではないにしても)一つの答えを提示してくれる。


村上春樹はエッセイの中で次のように言っている。

『キャッチャー』のホールデン・コールフィールドが叫んだ社会への痛切な「ノー」は、『ズーイ』のズーイ・グラスが最後に魂から搾り出した「イエス」へと高められ、その昇華された転換は多くの読者の心を打った。<村上春樹 特別エッセイ 「こんなに面白い話だったんだ!」より>

まさにその通りだと思う。

ホールデンもフラニ―もズーイも世界を批判的に見る若者の象徴だと思う。
その中で代表格のズーイが、それでもなお世界に対して「イエス」と叫ぶことに心が震えた。



世界がどうしようもなくつまらなく見えたり、生きることの意味が分からなくなって自分の殻に閉じこもってしまったり、そんな時に読むといいと思う。


中二病に効く薬だと思う。

2014年3月29日土曜日

眉毛

世間には、電車の中で化粧をすることを快く思わないか方々いるようだけど、僕は決してそんなことは思わない。
化粧をすることで、実際的に誰かに迷惑をかけているわけではないのだから。
むしろ、これから向かっていくであろう仕事やデートで、彼女たちがうまくいくように心の中でささやかなエールを送っているくらいだ。(グッドラック!)

ただ、公の場で化粧をする以上、それを見られること対しては許容しなくてはならない。

先日、電車の中で立っていると、僕の前に座っているお姉さんがおもむろに化粧を始めた。僕は本を読んでいたんだけど、本を読んでいる視線の先がちょうどお姉さんを見下ろすような加減だったので、彼女の化粧シーンが視界に入った。


それは、丁度彼女がピンセットを取り出して眉毛を抜き出した時で、彼女はそれを親指の付け根に一本一本丁寧に置いて行った。

僕は別にマジマジと化粧を見ようと思っていたわけではないけれど、なんとなくその「抜かれた眉毛」の行き先が気になってきたので、本を読みながら眉毛抜きの続きを目の端で追いかけた。

数分後、彼女は眉毛の選別を終え、手鏡で残された眉毛の並びを精査し、十分満足いったというわけではないが、これから向かう場所と自分の容姿と電車に乗っている時間を考えると妥協できる範囲だろうという感じで、手鏡とピンセットをポーチの中にしまい込んだ。

僕は「あれ?」と思った。

彼女は、親指の上の眉毛をティッシュにくるむわけでもなく、その辺に払うわけでもなく、最初からその存在がなかったかのように、全く関心を払わなかった。

まるで「私の眉毛はもともとこういう形だったの。だから、“抜かれた眉毛”も存在しないの。」と言わんばかりに。

そんなことをしたら、抜かれた眉毛はその辺に散らばってしまうのではないか? と思った。

あまりに、自然なふるまいに僕は少し混乱してしまった。抜かれた眉毛の存在を否定されてしまうと、それまでにしていた眉毛を抜くという行為そのものの確かさが揺らいできた。

果たして「眉毛を抜いているところを見た」という僕の記憶は確かなものなんだろうか?

最初から誰も眉毛なんて抜いていなかったんじゃないだろうか?

僕はだんだん不安になってきた。(他人の眉毛で僕のアイデンティティが崩壊しかけている!?)

僕は、僕自身の記憶の確かさ、僕自身の確かさをつなぎとめるために、僕は抜かれた眉毛のことを思う。

誰が何と言おうと、僕だけは彼女の眉毛がそこにあったという事実を確認し、記憶にとどめるためにここにその出来事を書いておく。

そうすることで、僕と言う人間をこの現実という皮膚の上に留めておく。

なんだかわけがわからなくなってきた。


それにしてもいったいあの眉毛はどこに行ってしまったのだろうか?

いまでも電車のシートにへばりついているんだろうか?

それとも、いまでは誰かの眉毛に生まれ変わっているんだろうか?



でも、今度生まれ変わるにしても、生えている場所がほんの数ミリずれているだけで、「お前はいてもいい」「お前はダメだ」と容赦なく選別され、抜かれてしまったものは存在自体をなかったことにされてしまう女性の眉毛にはなりたくないと思った。

2014年3月26日水曜日

春雨にずぶ濡れジャンパー、ジャングルジム

春雨にずぶ濡れジャンパー、ジャングルジム(字余り)

今朝は朝から雨だった。久しぶりにしっかりした雨。

ゴミ出しに公園の横を通ると、ジャングルジムに子どものジャンパーが2つかかっていて、ずぶぬれになっていた。

きっと、春休みで公園に遊びに来た子どもたちが、遊んでいるうちに暑くなったんで、ジャングルジムにかけておいたんだろう。

「バイバイ」って、手を振って帰るころには、遊びまわってあったかくて、楽しくて、ジャンパーのことなんかすっかり忘れて、そのまま帰ってしまったんだろう。

朝、また遊びに出かけようとして、「今日も温かいな、でも雨降ってるし上着どうしようかな」なんて考えているときに、ふとジャンパーを忘れたことを思い出して、大慌てして、お母さんに怒られたり、てんやわんやしている光景を思い浮かべて、ちょっとかわいそうだけどなんとなく楽しい気分になった。


カメラを持っていたら、パシャリと撮って、さらっとアップできたんだけど、あいにくカメラを持っていなかったので、「カメラがないなら俳句を詠めばいいじゃない」というマリーアントワネット的精神を発揮してみた。

俳句、ノーマネーでプライスレス。

あと、facebookやらtwitterだと、アーカイブが効きにくいのであえてブログに書いてみた。だけどアーカイブするほど俳句を詠むんだろうか?



こんなにグダグダと捕捉を入れなくてもいいような俳句的センスがほしい。

2014年3月25日火曜日

ネットと本の違い

一人でネットサーフィンなんてしていて、ふと時計を見ると1時間くらい経っていたりする。

そんな時、

「俺は、本当はネットなんてしたくなかったんだ」

ってよく思う。


だけど、本を読んでいて

「俺は、本なんて読みたくなかったんだ。」

とは思わない。


不思議だ。

これは、ネットと本の一般的な違いなんだろうか?

それとも、僕の個人的な傾向なんだろうか?


まぁ、本って飽きたり疲れたりしたら、どうしたってそれ以上読み進められなくなってしまうってだけかもしれませんが。

2014年3月5日水曜日

【感想文】『わたしの絵本体験』/絵本との向き合い方

『昔話とこころの自立』に引き続き、松居友の『わたしの絵本体験』を読んだ。

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絵本の選び方、というか絵本との向き合い方、心構えについて、とても勉強になった。
そして、これまでの絵本の選び方や読み方について、大いに反省させられた。


僕は、上の子がもう4歳だけど、もっと早くにこの本に出合っていたら、もっと上手に絵本を選んだり、読んであげれたりしたんだろうなと思う。

反面、ある程度子どもと付き合ってきたから、この本が言わんとすることがスッと入ってきたのかもしれない、とも思う。

いずれにしても、小さいお子さんがいる方、これから子どもができるかもしれない方にはぜひ読んでほしい一冊。



ただ、後半は割と哲学的と言うか、思想的な話が主体になってくる。


戦争やら物質主義やらに対する嫌悪感がかなり強く、自然や土着文化に対するあこがれがかなり強い気がする。


たぶん、この本が書かれた当時は、地下鉄サリン事件のようなカルトが関わる大きな事件は起こってなかったし、僕らが持っているような宗教アレルギーみたいなものはあまりなかったんだろう。

そういう自然回顧主義的な、文明否定的な発想は結構自然に出てきたもので、それなりにトレンドだったんだと思う。(だからこそ、のちに問題になったんだろうけど)



なので、その辺はある程度眉に唾を付けながら話半分で読んだ方がいいかもしれない。


それでも、絵本の見方やアイヌの神話の話はとても面白いし、勉強になった。





※最近思うんだけど、子育ての世界と疑似科学やカルトの世界って結構接近してるんだよなぁ。子どもに対してあんまり無関心なのも考え物だけど、あんまり頑張りすぎるとすぐにそっちの世界に入り込んでしまう怖さがある。片足は突っ込んでいると思ったほうがいい。疑似科学やカルトって全然他人事じゃないんだよな。見極めが難しい。