2013年5月12日日曜日

非合理なお願い@鈴虫寺

今年のGWは、京都の「鈴虫寺」というところに行ってきました。

鈴虫寺
鈴虫寺の入り口


鈴虫寺HP

本当は「華厳寺」と言うそうです。


「願い事をひとつ、必ず叶えてくれる」有難いお寺だそうです。

(結構有名らしく、寺ガール(?)たちで長蛇の列ができてました)


必ず叶えてくれるなんて言われると、とても悩みました。


いったいどんな願いをすればいいんだろう!


せっかくなので、無い知恵を働かせて考えてみました。


そして、次のようなルールを決めました。

制約と誓約。

縛りがある方が、お願いごとの強度も増すと思ったのです。

ルール1 普段できない(思いつかない)お願いをする


せっかく遠いところまできてたので、普段できないようなお願いをしようと思いました。

「家族の健康」とか、「お金がほしい」とかは、いつでも思いつく。

いつでも思いつくようなお願いは、近場の神社とかですればいいなと思いました。

そうではなくて、普段絶対思いつかないような願い事をしたいと思いました。



ルール2 自分からできるだけ遠いことをお願いの対象にする


最近マイブームの内田樹先生の影響もあり、「一番合理的なことは、一見もっとも非合理な方法でなされなければならない」というのを思い出しました。

(詳しくはコレに書いてある。)

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ということで、願い事をするにあたって、非合理なお願いをすることにした。


つまり、「自分のためにならないお願い」が、実は「自分にとって最もためになるお願い」になる、という法則です。

「自分のためにならない」ことを「自分以外の誰かのためになる」としました。


そして、「できるだけ自分から遠いもの」、あるいは「自分とは対極にあるもの」に対してお願い事をしようと思いました。

「情けは人の為ならず」。


廻り巡って自分のためになるような、そんな願い事がになればいいと思いました。




結論。僕のお願い。


結論として、次のようなお願いをしてきました。



これから僕が出会う「僕が嫌いな人」を幸せにしてください。

「ちょっと嫌な人」にはささやかな幸せを。

「こんな奴死んでもいい」と思う人には目一杯の幸せを。


これなら、普段思いつきません。

特に、実際嫌な人を目の前にしてしまったら、絶対思いつかない。

京都の山奥で、頭が冷静だから思いつくことだ。

そして、「嫌いな人」は自分からもっとも対極にある存在だ。


条件にぴったり合う。


このお願いをしてみてから、我ながらなかなかイイお願いをしたような気がします。



効果1 世界が少し平和になるかも


僕が嫌な思いをするだけで、世界が少し平和になるなら、それはそれでいいことじゃないか。


効果2 人を嫌いにならずに済むかもしれない


僕が嫌いになることで、そいつが幸せになるなら、いっそのこと「そいつを嫌いになってやらん!」と思えるかもしれない。

そうすれば、世の中から僕が嫌いな人が一人減るかもしれない。

それは、僕の精神衛生面で、ひとつ健康になるかもしれない。


効果3 好きな人のために日々祈ろうと思う


僕がこんなことを願ったおかげで、「こいつに嫌われれば幸せになれる!」とか考えて、僕から嫌われようとする人が出てくるかもしれない。

それはちょっと嫌だ。(まぁ、実際にそこまでする人はいないと思うけど)

だから僕は、僕の好きな人の幸せを、ちょくちょくお願いしようと思う。

近所の神社なりなんなり。

ことあるごとに。

それで、僕に嫌がらせをしようとする人が出ないようにしようと思う。


自分の好きな人のためにお祈りすることは、悪いことじゃなかろう。たぶん。


(だから、僕に嫌がらせをするのは、よしてください)




自分の好きな人のことはある程度自分で何とかできる。

好きな人の為に祈ることも割とできる。

だけど、僕は聖人君子じゃないので、自分の嫌いな人のことは、なかなか自分自身で解決できない。

だから、この負の感情を神様なり仏様なりの力を少し借りて、ちょっとでも心の平穏を保てればいいと思います。





合理的な効果を求めるには、まず非合理な方法を考えるのもなかなかいいものだと思いました。


(まだ、効果測定中だけど。ていうか、効果測れん気がする。)

2013年5月10日金曜日

見たいものを見るために全力を尽くす人々

先日、fbのタイムラインにこんなネタが舞い込んできた。


【怖すぎ】ヤフー知恵袋に投稿された、ママ友イジメについての相談の結末が衝撃的wwwwww : はちま起稿


怖い。

なんか怖い。


だけど、なんとなく、わかるような、気も、しないではない。


これは、情報社会に住む現代の人々の傾向なんじゃないだろうか。



僕が好きな『ローマ人の物語』(塩野七生)の中で、次のような言葉が出てくる。


人間ならば誰にでもすべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない。

カエサルの言葉らしい。

ローマで偉大な為政者たちは、自分が見たくない現実をしっかり見ていた。

また、人々が見たいと思った現実を巧みに見せることで、ローマ帝国を統治した。




今の僕らはどうだろうか。




インターネットで情報があふれ、あらゆる情報が飛び交っている。


「現実」なら星の数ほどある。


だけど、あまりにも現実が多すぎて、見たいと思う現実がなかなか見つかりにくいのではないか。


ただ情報を眺めているだけでは、見たい現実になかなか巡り合えない。


だから、僕たちは以前よりもより能動的に見たいものを採りに行くようになった。


その顕著な例が、冒頭のリンクのA女史のような方ではないだろうか。


自分の見たいものを見るために、全力を尽くす。


より能動的に、より主体的に、より積極的に。





そして、情報社会はもう一つ我々に変化をもたらした。


それは、「見たいものを見られれば、それ以外のものは全くどうでもいい」という傾向だ。


それは、昔みたいに単純に「見えない(認識できない)」わけじゃなく、これまた能動的に無視するようになった。
(能動的に無視するってなんか変だ。でも、うまく言えない)


みんな、もう、「現実」は星の数ほどあることを知っている。


その中には、もちろん自分が見たくない現実も含まれていることを知っている。


だから、我々はこう思う。


「見たくない現実があったって一向にかまわない。だって、見たい現実が確かにあることを確認できたんだから」


情報社会は、僕らにこんな変化をもたらした(と思う)。


たぶん。きっと。


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2013年5月8日水曜日

【子どもから学ぶ】「はたらく」とは/あるいはキッザニアのお土産

みなさん、GWはいかが過ごされましたか?


このGWで甥っ子、姪っ子たちが、あこがれの「キッザニア」に行ってきました。



「キッザニア」では子どもが様々な「労働体験」ができます。


そして、労働をした暁には賃金をもらいます。通貨単位は「キッゾ」。キッザニア内の高島屋で使えます。


一番上の姪っ子(小3)は、キッザニアでの労働で70キッゾもらいました。

彼女は、その70キッゾで、僕の息子(3歳児)にミニカーを買ってくれました。

自分のおもちゃではなく!

アミューズメント施設とはいえ、初めて自分で稼いだお金で、誰かにプレゼントしてくれるなんて!

なんて素敵な子でしょう。

そのミニカーは70キッゾだったかもしれませんが、僕の中ではプライスレスです!

プレゼントのミニカー@キッザニア
プレゼントのミニカー、プライスレス



僕は、彼女の何気ない個の行動に胸を打たれました。


キッザニアで用意されたプログラムに沿って「体験」することだけが「労働」ではない。


誰かのために、何かをしてやる。それこそが「労働」の本質だ。


そういうふるまいを自然にできるのは、なんと素晴らしいことだろう。




自分のリソースを使って、価値を生み出し、それを交換すること。



これこそ、「はたらく」という意味なんだと。



そして、大人は便宜上、価値の交換に「お金」を使う。




僕はよっぽど、ミニカーの対価として、お金をやろうかなと考えた。

だけど、やっぱりやめた。


僕には子どもにうまく「お金」を説明できるほど知識がない。


そんな僕がお金をあげることで、彼女の金銭感覚を歪めてしまうかもしれない。

それはとても怖い。


だから、価値の交換という意味で、お金以外の何かを、彼女にしてやれればいいなと思う。


そして、価値を生み出し、それを交換することこそ、労働の基本なんだということがわかってくれればいいと思う。



さて、僕は彼女に何ができるだろうか。


こういうところから、価値の創造、つまり「仕事」が生まれるんだろう。


うまく価値あるものが生まれるかどうかは別として。。。

2013年4月29日月曜日

【ネタバレ注意】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』について、じわじわ思ったこと

時間をおいて、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の「あれって、こういうことなんじゃないの?」みたいなのが、2、3思い浮かんだ。



思いつきなので、論理的に「穴」はたくさんあると思うけど、備忘録的に書く。


ネタバレ注意。


名前の中の色彩について



色彩は何を意味するのか。



この物語には、名前に色を持つ人物と、持たない人物がいる。


名前に色を持つのは7人。

多崎つくると、高校時代にグループを形成した4人。

  • ミスター・レッド
  • ミスター・ブルー
  • ミス・ホワイト
  • ミス・ブラック


大学時代の友人とその父親。

  • ミスター・グレー
  • ミスター・グレー(父)


ミスター・グレーの話に登場する人物。

  • ミスター・グリーン。



彼らはなぜ色を持つのか。


「個性的だから」、という理由だけなら多崎つくるの現在の恋人、会社の後輩たちに「色」がない理由の説明が付かない。



彼らが色彩を持つ理由を考えてみた。


名前に色彩を持つ人物たちは、「多崎つくる」にとって「過去の人」なんじゃないだろうか。

過去の思い出。

思い出の中にだけ存在する色彩。

思い出を彩る色彩。


逆に言えば、名前に色彩を持つ人物は、多崎つくるのもとから去って行く。

彼らは二度と多崎つくるの前に姿を現さないだろう。



ただ、「ミス・ブラック」は、自分と「ミス・ホワイト」のことを「シロ」「クロ」と呼ばないでくれといった。

色ではなく名前で呼んでくれと言った。


自分たちの存在を「過去」とひとくくりにされることを拒んでいるように感じられた。


二度と会えなくても、多崎つくると同じ時間を生きている、それを彼にわかっていてほしいという強い思いが感じられた。


生身の人間に立ち返ることを求めているように見えた。


人間が持つ「色」が見える能力について

ミスター・グリーンは、近い将来の「死」と引き換えに、人間が持つ「色」を見る能力を手に入れる。

その知覚は、一旦経験してしまうと、今までの生きてきた世界が”おそろしく平べったく見えてしまう”ほどのものだ。

それほど、魅力的な能力。


ミスター・グレーがなぜこのような不思議な寓話を多崎つくるにしたのか。

そこは、物語の上で重要なんだと思う。


ミスター・グレーが語るこの寓話は、多崎つくるの高校時代を暗示するものではないだろうか?




多崎つくるは、「赤」「青」「白」「黒」の色を持つ人間と”乱れなく調和する共同体”を作り上げた。


この、「名前に色を持つ人々との共同体」=「人間が持つ色を見る能力」なんじゃないだろうか?


そして、その共同体に比べれば、周りの世界が”おそろしく平べったく見える”くらいに完璧な共同体。


それと引き換えに、彼は実際に”死”に直面する。


それは、ある意味では本当の死だった。

肉体ががらりと変わり、内面はほとんど入れ替わってしまうほどのものだった。


また、ある意味では、”乱れなく調和する共同体”からの追放(能力の喪失)によって生き返ったともいえる。

ミスター・グレーの寓話は、「”乱れなく調和する共同体”を手に入れた多崎つくるが死に直面した」ということを暗示しているのではないか。



じゃあ、ミスター・グレーが能力の喪失後に現れた理由は何だ? という問題が残るので、まだ穴はあるけど、人間の色を見る能力は、多崎つくるの高校時代の比喩だという仮説は、割といい線いってるんじゃないだろうか?





駅を作ることについて



多崎つくるは、駅を作っている。

駅と聞いて、『ダンス・ダンス・ダンス』を思い出した。

二つのドアを持つ、空っぽの部屋。

互換性のない、入り口と出口。

誰かが入り口から入ってきて、出口へ出ていく。


駅も、誰かが入ってきて、誰かが出ていく。

ただ、自分はそこにいて、眺めていくだけだ。


最初、多崎つくるも、『ダンス・ダンス・ダンス』でいうところの、「ドアが二つある部屋」にいるような気がした。


だけど、読み進めていくうちに、どちらかというと、『羊男の部屋』を思い浮かべた。


何かと何かをつなぐための部屋。


駅は、どちらかというと、「つなぐための機能」だ。


多崎つくるは、駅を作ることで、何かと何かをつなげている。

羊男が「僕」のために何かをつなげるように。



多崎つくるは、羊男が何かをつなげる代わりに駅を作る。

、『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」が文化的雪かきをするように、駅を作る。

そして、「僕」がダンスステップを踏むように、「巡礼」をする。

”つながっている”
と僕は思った。


関連エントリー

自由意志について/色彩を持たない多崎つくると、LIGとAKB


【感想文】色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/示唆に富みすぎて考えがまとまりません




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2013年4月27日土曜日

スマートな結婚について

先日、結婚斡旋会社の広告で

「いまどき結婚はスマートに」

みたいな広告を見かけた。


僕はこの広告を見て、ものすごく違和感を覚えた。

「スマートな結婚式」だったらなんとなく理解できたかもしれないけど、「スマートな結婚」という部分に引っかかってしまった。



そして、その違和感の正体を探ってみた。


※ここでは「結婚」について書いています。「結婚式」のことではないです。あしからず。


先日、内田樹先生の『下流志向』という本を読んだ。



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その感想→【感想文】下流志向/先人へのリスペクトは大事


その中で、リスクヘッジについて書かれていた。

要約するとこんな感じだった。

---

現代社会は、空前のリスク社会である。

我々は、様々なリスクにさらされている。

それは、しきりにアナウンスされている。

しかし、だれも”リスクヘッジ”については教えてくれない。


さらに、個人はコミュニティから切り離され、バラバラに分断されている。

我々は、個人でこのリスクに対面している。


しかし、”リスクヘッジ”は個人では成立しない。

”リスクヘッジ”とは、「誰かがつまずいたときに、他の誰かが支える」ことで成り立つ。

だから、”リスクヘッジ”には最低二人以上の関係が必要だ。


しかも、それは、”利益最大化”の関係ではうまくいかない。

”利益最大化”では、「誰かがつまずいたとき、そいつを切り捨てること」が合理的な判断となるからだ。


”リスクヘッジ”は「その関係を結ぶことで誰も得をしない(むしろみんなが損をするような)方法」でしか成立しない。
---

※この辺りは、僕が説明するといまいちピンと来ないかもしれないので、ぜひ『下流志向』を読んでみてください。




「結婚」は、個人における最強の”リスクヘッジ”だと思う。

まさに


”健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くす”

ためにある。



また、個人と個人だけでなく、親族を含めた強力な”リスクヘッジ”となる。


それをより強固なものにするには、より泥臭く、よりしがらみが強くなる方法で、結婚する方がよい。

制約と誓約。

”しがらみ”が強いほうが、”リスクヘッジ”は強力になる。


だから、結婚はスマートたりえない。



「結婚式」をスマートにするのはありだと思う。

バブルのころみたいに無駄に派手にする必要はない。

ただ、「結婚自体」には親族、友人を巻き込んだ方が”リスクヘッジ”という面でいいと思います。


そして、式はそのための手段の一つだと思う。


昔みたいに、親族たくさん呼んで、めんどくさい感じにした方が、実は”リスクヘッジ”としてより強力になる。


昔の人は偉い。





まぁ、自分の結婚の時は、そんなことを考える余裕はなかった。

めんどくさい「しがらみ」はすっ飛ばしてしまいたかったというのが正直なところです。

だけど、今は、しがらみというか、つながりみたいなのをもう少し大事にしたいと思う。

そして、そのめんどくささを少し楽しめるようになってきた。




結婚を”リスクヘッジ”としてばかり考えるのも、それはそれでつまらないと思いますが、ひとつの視点として。

2013年4月26日金曜日

スピッツ『ロビンソン』/自転車に乗っているのは誰?

春ですね。暖かくなってきました。

新しい季節はなぜか切ない日々ですね。


先日、とあるお店で、スピッツの『ロビンソン』が流れていました。



懐かしいですね。


僕は、『ロビンソン』は大好きですが、歌の始めの方を聞くといつも戸惑ってしまいます。


”河原の道を自転車で走る君を追いかけた”

さて、問題です。


自転車に乗っているのは誰でしょうか?



A:自転車に乗っているのは「君」
B:自転車に乗っているのは「僕」



A:自転車に乗っているのは「君」 B:自転車に乗っているのは「僕」
”河原の道を自転車で走る君を追いかけた”の図




僕はいつも悩んでしまいます。


ただ、『ロビンソン』を聞くたびに、違う情景を同時にイメージすることも難しいので、とりあえずの仮の答えとして”A”を思い浮かべるようにしています。

僕がAを選んだ理由としては、


1.冒頭で”新しい季節はなぜか切ない日々”と言っている。自転車を走って追いかけると、なかなか追いつかない。つまり、「切ない」。


2.僕が自転車で追いかけたらすぐに追いついてしまう。そんな易々と達成してしまうような、あたりまえのことを歌にするだろうか(いやしない。[反語])

3.追いついてしまうなら、「河原を一緒に走った」とか「追い越した」とかの方が、「僕」にとっては印象に残るのではないか。そちらを歌詞にするほうが自然じゃないか。

4.もし、走っている人を自転車で追い続けるなら、それはほとんどストーカーだろ。



というところです。




ちなみに、この話を嫁にすると、嫁の意見は違いました。(僕と嫁はしばしば意見が合わない)


嫁はBに近いけど、「”君”は走っていない、歩いている」といいます。

”河原の道を自転車で走る。/君を追いかけた。”
らしいです。”/(スラッシュ)”のところでいったん区切るらしいです。

C:河原の道を自転車で走る。/君を追いかけた。
”河原の道を自転車で走る。/君を追いかけた。”の図

C:自転車に乗っているのは「僕」。かつ、「君」は歩いている。

(その発想はなかったわw[棒])


嫁の言い分は、

1.自転車で走る君を、僕が走って追いかけると、追いつくわけがない。そんな無意味なことは普通しない。

2.自転車をこいでると、河原で歩いてる「君」を見かけたので、追いかけた。(青春!)

3.「君」が河原を走っている理由がわからない。ジョギング? なんか変だ。

だそうです。




あなたはどう思いますか?

2013年4月22日月曜日

自由意志について/色彩を持たない多崎つくると、LIGとAKB

最近、僕の中で引っかかる話題があった。

なぜ、それが引っかかるのか、少し考えてみた。


※あんまりまとまってません。しかも長文。



引っかかる話題はこの二つ

結婚のご報告。30年彼女がいなかった僕が、秒速で結婚できた理由。

伊集院光が語る AKB48峯岸みなみ坊主謝罪事件と秋元康のスゴさ



この二つの出来事を見て、人間の「自由意志」ってなんだろうと思いました。


(※これは、上記の個別の事例について批判するものではありません。センセーショナルなこれらの事例を見てみて、一般論に落とし込めればなぁと考えただけです。)


この二つの出来事の共通点は、「センセーショナルだけど、それを選択したのは本人の意思だ」という点です。

どうして、こんなセンセーショナルでトリッキーな選択肢を彼らは自らの意志で選んだろうか。





これらは、非常に斬新なようでありながら、落ち着く先は「結婚」や「ケジメ」といった至って古風な帰着点です。


自由な選択の結果でありながら、「結婚」や「ケジメ」という、法や社会の規定という枠組み(しがらみ)へ自ら飛び込んでいるようでもあります。


「結婚」や「丸坊主」っていう結果自体は非合理なようで、それらは彼らの合理的な選択の連続の結果です。



個人の自由な選択の結果のようでありながら、彼らには他の選択の余地はなかったようにも見えます。


なんで、こんな矛盾した二つのことが同時に起こるんだろうか?

なんで、こんな不可解なことが起こるんだろうかと、非常に興味がわきました。


特に、本人の「自由意志」による選択のようでありながら、他の何物かの意志によってその選択をせざるを得なかったように”見える”という点に興味があります。

(もちろん僕の偏見です)


そして、自分なりに考えてみました。



この二つの出来事は、どちらも本人の「自由意志」によって選択された行動です。


インターネットが広まり、多くの人がSNSを利用し、個人が台頭する時代になりました。


多様性が尊重され、個人の自由が尊重されるようになりました。



人々はより幅広い選択肢の中から、より自由に人生を選択することができるようになりました。


様々な選択肢が提示され、人々は自分の好みに合わせて、合理的に効率よく、最善と思えるものを手に入れることができる。


自由礼賛。


個人万歳。


・・・


本当だろうか?




僕の心にはこの二つの出来事が引っかかっています。




彼らの前には、あらゆる選択肢が提示されていた。

そして、その中から、”合理的”に”最善”と思われる選択をした。



だけど、ある面から見れば、あらゆる選択肢がありながら”それ”を選択する以外になかったんじゃないだろうか。


考えれば考えるほど、彼らがそうすることは自然だったように思えてくる。


そこには、彼らの「自由意志」なんてものは、本当に脆弱に感じられる。


”自分以外の何か大きな圧力”によってそうすることを仕向けられたように見える。


それは、LIGのプロモーション戦略だとか、秋元康のマネージメントだとか、そんな生易しいモノじゃない。

人間社会が持つ空気圧とか、運命とか、そういう類のものだ。



彼らがもがけばもがくほど、こうなる「運命」が加速していく。


そんな気がする。(結果論でしかないけど)




人間は、”自由”に”合理的”に動こうとすればするほど、その行動は限定されたものになるんじゃないだろうか。

しかもそれを自分「自由意志」によるものだと考える。

だから、後悔もしない。幸せだと感じる。

(これは、別に彼らの結婚やケジメが不幸だといっているわけではないです。あくまでもメカニズムの問題です)



だけど、僕は、その「自由意志」の背景に、何か得体のしれない「圧力」のようなものを感じる。

それは一体なんなんだろうと考えていた。


そして、それは意外と僕の身近なところにヒントがあった。


僕が好きな村上春樹の小説の中にしばしば表現されているものだ。



僕が感じた得体のしれない「圧力」は、例えば『1Q84』の中では「リトルピープル」として描かれている(たぶん)。

また、小説ではないけど、エルサレム章のスピーチの中では「システム」と呼ばれる。(きっと)

【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)/タンポポライオンのブログ


僕らが「自由意志」により選択したと信じているものには常に「リトルピープル」や「システム」が介在している。

しかも、個人主義、自由主義が発展すればするほどそれらは力を持ち、そしてより見えにくくなっていっているような気がする。


完全なる「自由意志」なんていうものは存在しないんじゃないだろうか。



でも、だから、僕らは彼ら(リトルピープルなるもの)と戦っていかなくてはならない。

そういうことなんじゃないだろうか。


そして、『色彩を持たない多崎つくると、その巡礼の年』でも、「自由意志」について描かれている。



※以下、ネタバレアリ。ご注意を・・・




『色彩を持たない…』の登場人物が、「自由」についてのたとえ話をする部分がある。大雑把に言うと以下のようなものです。


「悪いニュースがあります。今から君の爪をペンチで剥がします。これはもう決まっていることです。でもいいニュースもあります。剥がされる爪は”手の爪”か”足の爪”か選ぶことができます。10秒以内に決めなさい。10秒を過ぎると両方の爪を剥がします」

印象的な部分ですが、僕はこれが何を意味するのか、はっきりとわかっていませんでした。

なんとなく、単純に「どちらの爪を剥がされるのも嫌だと叫ぶこと」「爪を剥がそうとするものと戦うこと」が大事なんだと考えていました。



だけど、僕は、前段の二つの事例(「結婚の話」と「丸坊主の話」)をよくよく考えてみて、僕らの前には本当に「爪を剥がされる選択肢」しかないんじゃないかと思うようになった。


僕らの目の前にある選択肢というものは、「爪を剥がされる」ような理不尽で暴力的なものしか存在しないんじゃないだろうか。


「あらゆる選択肢の中から、最善のものを選択する」というのは、幻想でしかないんじゃないだろうか。


僕らは常に「限られた選択肢の中から、よりマシなものを選ぶ」ことしかできないんじゃないだろうか。




別の言い方をしてみる。




宇宙には、あらゆる可能性が広がっている。

そこには美しいものもあれば、心地よいものもある。


だけど、僕らが見ることができるのは、理不尽で暴力的な「選択肢」だけないんじゃないだろうか。


人間の目に映るのは可視光線の範囲だけであって、紫外線や赤外線は見ることができないように。




いや、もしかしたら、それも違うかもしれない。



どんなに美しく、心地よい可能性があったとしても、それが僕らの目の前に提示された時点で、理不尽で暴力的なものに変質してしまっている。

量子力学において、観察自体が観察されるものに影響してしまうように。

選択肢を見てしまったら、それは理不尽なものに変貌する。


という表現の方が近いのかもしれない。


それが僕らの生きている世界なんじゃないだろうか。



『色彩を持たない…』では、多崎つくるは最初に生死の狭間をさまよっている。


たぶんそれは、彼が宇宙に広がる無限の可能性から、「最善の選択」を求めていたからじゃないだろうか。

しかも、「同時」に「複数の」選択肢を求めていた。


しかし、彼は生死の狭間で、「大切なものが2つあり、そのどちらかしか手に入らない状況」を知る。


そして激しい「嫉妬」の感情を知る。


そこから、彼は再生を始める。



限定された、理不尽な選択肢の中でしか人間は生きていけない。

それを受け入れることで、多崎つくるの巡礼が始まる。



そういうことじゃないだろうか。



そして、そんな理不尽な世界で生きていくには、2通りの方法があると思う。



ひとつは、どんなに理不尽で、暴力的でも、それを自分の「自由意志」で選択したからにはそれを「善し」とし、嬉々として「手の爪」なり「足の爪」なりを差し出す。



もう一つは、たとえどの爪を剥がされようと、「リトルピープル」なるもの「システム」なるものに目を離さず、嫉妬の感情を抱え込みながら、目の前の現実を一歩ずつしっかりと歩んでいく。
それは「ダンスステップ」を踏み続けることであり、「雪かき仕事」をつづけることであり、「駅」を作り続けるということかもしれない。
(あかん、抽象的すぎる。うまく言えない。)



あまりまとまりませんが、僕らは「自由意志」なるものを有難がりすぎると、リトルピープルたちにまんまとやられてしまうという話です。



尻切れトンボになってしまったけど、最近の話題の出来事と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を絡めて考えてみました。









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