なぜ、それが引っかかるのか、少し考えてみた。
※あんまりまとまってません。しかも長文。
引っかかる話題はこの二つ
結婚のご報告。30年彼女がいなかった僕が、秒速で結婚できた理由。
伊集院光が語る AKB48峯岸みなみ坊主謝罪事件と秋元康のスゴさ
この二つの出来事を見て、人間の「自由意志」ってなんだろうと思いました。
(※これは、上記の個別の事例について批判するものではありません。センセーショナルなこれらの事例を見てみて、一般論に落とし込めればなぁと考えただけです。)
この二つの出来事の共通点は、「センセーショナルだけど、それを選択したのは本人の意思だ」という点です。
どうして、こんなセンセーショナルでトリッキーな選択肢を彼らは自らの意志で選んだろうか。
これらは、非常に斬新なようでありながら、落ち着く先は「結婚」や「ケジメ」といった至って古風な帰着点です。
自由な選択の結果でありながら、「結婚」や「ケジメ」という、法や社会の規定という枠組み(しがらみ)へ自ら飛び込んでいるようでもあります。
「結婚」や「丸坊主」っていう結果自体は非合理なようで、それらは彼らの合理的な選択の連続の結果です。
個人の自由な選択の結果のようでありながら、彼らには他の選択の余地はなかったようにも見えます。
なんで、こんな矛盾した二つのことが同時に起こるんだろうか?
なんで、こんな不可解なことが起こるんだろうかと、非常に興味がわきました。
特に、本人の「自由意志」による選択のようでありながら、他の何物かの意志によってその選択をせざるを得なかったように”見える”という点に興味があります。
(もちろん僕の偏見です)
そして、自分なりに考えてみました。
この二つの出来事は、どちらも本人の「自由意志」によって選択された行動です。
インターネットが広まり、多くの人がSNSを利用し、個人が台頭する時代になりました。
多様性が尊重され、個人の自由が尊重されるようになりました。
人々はより幅広い選択肢の中から、より自由に人生を選択することができるようになりました。
様々な選択肢が提示され、人々は自分の好みに合わせて、合理的に効率よく、最善と思えるものを手に入れることができる。
自由礼賛。
個人万歳。
・・・
本当だろうか?
僕の心にはこの二つの出来事が引っかかっています。
彼らの前には、あらゆる選択肢が提示されていた。
そして、その中から、”合理的”に”最善”と思われる選択をした。
だけど、ある面から見れば、あらゆる選択肢がありながら”それ”を選択する以外になかったんじゃないだろうか。
考えれば考えるほど、彼らがそうすることは自然だったように思えてくる。
そこには、彼らの「自由意志」なんてものは、本当に脆弱に感じられる。
”自分以外の何か大きな圧力”によってそうすることを仕向けられたように見える。
それは、LIGのプロモーション戦略だとか、秋元康のマネージメントだとか、そんな生易しいモノじゃない。
人間社会が持つ空気圧とか、運命とか、そういう類のものだ。
彼らがもがけばもがくほど、こうなる「運命」が加速していく。
そんな気がする。(結果論でしかないけど)
人間は、”自由”に”合理的”に動こうとすればするほど、その行動は限定されたものになるんじゃないだろうか。
しかもそれを自分「自由意志」によるものだと考える。
だから、後悔もしない。幸せだと感じる。
(これは、別に彼らの結婚やケジメが不幸だといっているわけではないです。あくまでもメカニズムの問題です)
だけど、僕は、その「自由意志」の背景に、何か得体のしれない「圧力」のようなものを感じる。
それは一体なんなんだろうと考えていた。
そして、それは意外と僕の身近なところにヒントがあった。
僕が好きな村上春樹の小説の中にしばしば表現されているものだ。
僕が感じた得体のしれない「圧力」は、例えば『1Q84』の中では「リトルピープル」として描かれている(たぶん)。
また、小説ではないけど、エルサレム章のスピーチの中では「システム」と呼ばれる。(きっと)
【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)/タンポポライオンのブログ
僕らが「自由意志」により選択したと信じているものには常に「リトルピープル」や「システム」が介在している。
しかも、個人主義、自由主義が発展すればするほどそれらは力を持ち、そしてより見えにくくなっていっているような気がする。
完全なる「自由意志」なんていうものは存在しないんじゃないだろうか。
でも、だから、僕らは彼ら(リトルピープルなるもの)と戦っていかなくてはならない。
そういうことなんじゃないだろうか。
そして、『色彩を持たない多崎つくると、その巡礼の年』でも、「自由意志」について描かれている。
※以下、ネタバレアリ。ご注意を・・・
『色彩を持たない…』の登場人物が、「自由」についてのたとえ話をする部分がある。大雑把に言うと以下のようなものです。
「悪いニュースがあります。今から君の爪をペンチで剥がします。これはもう決まっていることです。でもいいニュースもあります。剥がされる爪は”手の爪”か”足の爪”か選ぶことができます。10秒以内に決めなさい。10秒を過ぎると両方の爪を剥がします」
印象的な部分ですが、僕はこれが何を意味するのか、はっきりとわかっていませんでした。
なんとなく、単純に「どちらの爪を剥がされるのも嫌だと叫ぶこと」「爪を剥がそうとするものと戦うこと」が大事なんだと考えていました。
だけど、僕は、前段の二つの事例(「結婚の話」と「丸坊主の話」)をよくよく考えてみて、僕らの前には本当に「爪を剥がされる選択肢」しかないんじゃないかと思うようになった。
僕らの目の前にある選択肢というものは、「爪を剥がされる」ような理不尽で暴力的なものしか存在しないんじゃないだろうか。
「あらゆる選択肢の中から、最善のものを選択する」というのは、幻想でしかないんじゃないだろうか。
僕らは常に「限られた選択肢の中から、よりマシなものを選ぶ」ことしかできないんじゃないだろうか。
別の言い方をしてみる。
宇宙には、あらゆる可能性が広がっている。
そこには美しいものもあれば、心地よいものもある。
だけど、僕らが見ることができるのは、理不尽で暴力的な「選択肢」だけないんじゃないだろうか。
人間の目に映るのは可視光線の範囲だけであって、紫外線や赤外線は見ることができないように。
いや、もしかしたら、それも違うかもしれない。
どんなに美しく、心地よい可能性があったとしても、それが僕らの目の前に提示された時点で、理不尽で暴力的なものに変質してしまっている。
量子力学において、観察自体が観察されるものに影響してしまうように。
選択肢を見てしまったら、それは理不尽なものに変貌する。
という表現の方が近いのかもしれない。
それが僕らの生きている世界なんじゃないだろうか。
『色彩を持たない…』では、多崎つくるは最初に生死の狭間をさまよっている。
たぶんそれは、彼が宇宙に広がる無限の可能性から、「最善の選択」を求めていたからじゃないだろうか。
しかも、「同時」に「複数の」選択肢を求めていた。
しかし、彼は生死の狭間で、「大切なものが2つあり、そのどちらかしか手に入らない状況」を知る。
そして激しい「嫉妬」の感情を知る。
そこから、彼は再生を始める。
限定された、理不尽な選択肢の中でしか人間は生きていけない。
それを受け入れることで、多崎つくるの巡礼が始まる。
そういうことじゃないだろうか。
そして、そんな理不尽な世界で生きていくには、2通りの方法があると思う。
ひとつは、どんなに理不尽で、暴力的でも、それを自分の「自由意志」で選択したからにはそれを「善し」とし、嬉々として「手の爪」なり「足の爪」なりを差し出す。
もう一つは、たとえどの爪を剥がされようと、「リトルピープル」なるもの「システム」なるものに目を離さず、嫉妬の感情を抱え込みながら、目の前の現実を一歩ずつしっかりと歩んでいく。
それは「ダンスステップ」を踏み続けることであり、「雪かき仕事」をつづけることであり、「駅」を作り続けるということかもしれない。
(あかん、抽象的すぎる。うまく言えない。)
あまりまとまりませんが、僕らは「自由意志」なるものを有難がりすぎると、リトルピープルたちにまんまとやられてしまうという話です。
尻切れトンボになってしまったけど、最近の話題の出来事と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を絡めて考えてみました。
村上 春樹
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