2013年4月22日月曜日

自由意志について/色彩を持たない多崎つくると、LIGとAKB

最近、僕の中で引っかかる話題があった。

なぜ、それが引っかかるのか、少し考えてみた。


※あんまりまとまってません。しかも長文。



引っかかる話題はこの二つ

結婚のご報告。30年彼女がいなかった僕が、秒速で結婚できた理由。

伊集院光が語る AKB48峯岸みなみ坊主謝罪事件と秋元康のスゴさ



この二つの出来事を見て、人間の「自由意志」ってなんだろうと思いました。


(※これは、上記の個別の事例について批判するものではありません。センセーショナルなこれらの事例を見てみて、一般論に落とし込めればなぁと考えただけです。)


この二つの出来事の共通点は、「センセーショナルだけど、それを選択したのは本人の意思だ」という点です。

どうして、こんなセンセーショナルでトリッキーな選択肢を彼らは自らの意志で選んだろうか。





これらは、非常に斬新なようでありながら、落ち着く先は「結婚」や「ケジメ」といった至って古風な帰着点です。


自由な選択の結果でありながら、「結婚」や「ケジメ」という、法や社会の規定という枠組み(しがらみ)へ自ら飛び込んでいるようでもあります。


「結婚」や「丸坊主」っていう結果自体は非合理なようで、それらは彼らの合理的な選択の連続の結果です。



個人の自由な選択の結果のようでありながら、彼らには他の選択の余地はなかったようにも見えます。


なんで、こんな矛盾した二つのことが同時に起こるんだろうか?

なんで、こんな不可解なことが起こるんだろうかと、非常に興味がわきました。


特に、本人の「自由意志」による選択のようでありながら、他の何物かの意志によってその選択をせざるを得なかったように”見える”という点に興味があります。

(もちろん僕の偏見です)


そして、自分なりに考えてみました。



この二つの出来事は、どちらも本人の「自由意志」によって選択された行動です。


インターネットが広まり、多くの人がSNSを利用し、個人が台頭する時代になりました。


多様性が尊重され、個人の自由が尊重されるようになりました。



人々はより幅広い選択肢の中から、より自由に人生を選択することができるようになりました。


様々な選択肢が提示され、人々は自分の好みに合わせて、合理的に効率よく、最善と思えるものを手に入れることができる。


自由礼賛。


個人万歳。


・・・


本当だろうか?




僕の心にはこの二つの出来事が引っかかっています。




彼らの前には、あらゆる選択肢が提示されていた。

そして、その中から、”合理的”に”最善”と思われる選択をした。



だけど、ある面から見れば、あらゆる選択肢がありながら”それ”を選択する以外になかったんじゃないだろうか。


考えれば考えるほど、彼らがそうすることは自然だったように思えてくる。


そこには、彼らの「自由意志」なんてものは、本当に脆弱に感じられる。


”自分以外の何か大きな圧力”によってそうすることを仕向けられたように見える。


それは、LIGのプロモーション戦略だとか、秋元康のマネージメントだとか、そんな生易しいモノじゃない。

人間社会が持つ空気圧とか、運命とか、そういう類のものだ。



彼らがもがけばもがくほど、こうなる「運命」が加速していく。


そんな気がする。(結果論でしかないけど)




人間は、”自由”に”合理的”に動こうとすればするほど、その行動は限定されたものになるんじゃないだろうか。

しかもそれを自分「自由意志」によるものだと考える。

だから、後悔もしない。幸せだと感じる。

(これは、別に彼らの結婚やケジメが不幸だといっているわけではないです。あくまでもメカニズムの問題です)



だけど、僕は、その「自由意志」の背景に、何か得体のしれない「圧力」のようなものを感じる。

それは一体なんなんだろうと考えていた。


そして、それは意外と僕の身近なところにヒントがあった。


僕が好きな村上春樹の小説の中にしばしば表現されているものだ。



僕が感じた得体のしれない「圧力」は、例えば『1Q84』の中では「リトルピープル」として描かれている(たぶん)。

また、小説ではないけど、エルサレム章のスピーチの中では「システム」と呼ばれる。(きっと)

【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)/タンポポライオンのブログ


僕らが「自由意志」により選択したと信じているものには常に「リトルピープル」や「システム」が介在している。

しかも、個人主義、自由主義が発展すればするほどそれらは力を持ち、そしてより見えにくくなっていっているような気がする。


完全なる「自由意志」なんていうものは存在しないんじゃないだろうか。



でも、だから、僕らは彼ら(リトルピープルなるもの)と戦っていかなくてはならない。

そういうことなんじゃないだろうか。


そして、『色彩を持たない多崎つくると、その巡礼の年』でも、「自由意志」について描かれている。



※以下、ネタバレアリ。ご注意を・・・




『色彩を持たない…』の登場人物が、「自由」についてのたとえ話をする部分がある。大雑把に言うと以下のようなものです。


「悪いニュースがあります。今から君の爪をペンチで剥がします。これはもう決まっていることです。でもいいニュースもあります。剥がされる爪は”手の爪”か”足の爪”か選ぶことができます。10秒以内に決めなさい。10秒を過ぎると両方の爪を剥がします」

印象的な部分ですが、僕はこれが何を意味するのか、はっきりとわかっていませんでした。

なんとなく、単純に「どちらの爪を剥がされるのも嫌だと叫ぶこと」「爪を剥がそうとするものと戦うこと」が大事なんだと考えていました。



だけど、僕は、前段の二つの事例(「結婚の話」と「丸坊主の話」)をよくよく考えてみて、僕らの前には本当に「爪を剥がされる選択肢」しかないんじゃないかと思うようになった。


僕らの目の前にある選択肢というものは、「爪を剥がされる」ような理不尽で暴力的なものしか存在しないんじゃないだろうか。


「あらゆる選択肢の中から、最善のものを選択する」というのは、幻想でしかないんじゃないだろうか。


僕らは常に「限られた選択肢の中から、よりマシなものを選ぶ」ことしかできないんじゃないだろうか。




別の言い方をしてみる。




宇宙には、あらゆる可能性が広がっている。

そこには美しいものもあれば、心地よいものもある。


だけど、僕らが見ることができるのは、理不尽で暴力的な「選択肢」だけないんじゃないだろうか。


人間の目に映るのは可視光線の範囲だけであって、紫外線や赤外線は見ることができないように。




いや、もしかしたら、それも違うかもしれない。



どんなに美しく、心地よい可能性があったとしても、それが僕らの目の前に提示された時点で、理不尽で暴力的なものに変質してしまっている。

量子力学において、観察自体が観察されるものに影響してしまうように。

選択肢を見てしまったら、それは理不尽なものに変貌する。


という表現の方が近いのかもしれない。


それが僕らの生きている世界なんじゃないだろうか。



『色彩を持たない…』では、多崎つくるは最初に生死の狭間をさまよっている。


たぶんそれは、彼が宇宙に広がる無限の可能性から、「最善の選択」を求めていたからじゃないだろうか。

しかも、「同時」に「複数の」選択肢を求めていた。


しかし、彼は生死の狭間で、「大切なものが2つあり、そのどちらかしか手に入らない状況」を知る。


そして激しい「嫉妬」の感情を知る。


そこから、彼は再生を始める。



限定された、理不尽な選択肢の中でしか人間は生きていけない。

それを受け入れることで、多崎つくるの巡礼が始まる。



そういうことじゃないだろうか。



そして、そんな理不尽な世界で生きていくには、2通りの方法があると思う。



ひとつは、どんなに理不尽で、暴力的でも、それを自分の「自由意志」で選択したからにはそれを「善し」とし、嬉々として「手の爪」なり「足の爪」なりを差し出す。



もう一つは、たとえどの爪を剥がされようと、「リトルピープル」なるもの「システム」なるものに目を離さず、嫉妬の感情を抱え込みながら、目の前の現実を一歩ずつしっかりと歩んでいく。
それは「ダンスステップ」を踏み続けることであり、「雪かき仕事」をつづけることであり、「駅」を作り続けるということかもしれない。
(あかん、抽象的すぎる。うまく言えない。)



あまりまとまりませんが、僕らは「自由意志」なるものを有難がりすぎると、リトルピープルたちにまんまとやられてしまうという話です。



尻切れトンボになってしまったけど、最近の話題の出来事と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を絡めて考えてみました。









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