大好きな絵本の一つ。
北欧の民話が元ネタだとか。
よい物語は示唆に富んでいる(何回もいっているけど)。
『だいくとおにろく』も、読むたびに(と言うのは少し大げさだけど)新しい発見がある。
今回読んで、感じたことを備忘録的に記録しておく。
この物語に出てくる「鬼」は「川の化身」と思っていた。
だけど、ふと思った。
「鬼」とは、大工自身ではないだろうか。
人間の中にある、未知の領域。
自分でも制御できない潜在意識。
荒々しい川にも耐える橋を創るようなすごい力を持つ一方で、鬼のように恐ろしい部分。
そういうものを具現化した存在ではないだろうか。
橋を創る力は、もともと大工に備わっていたんじゃないだろうか。
大工自身がそれに気づいていないだけで。
そして、鬼は大工自身が抱える恐怖でもあると思う。
自分の中にありながら、コントロールできない未知の力に対する恐怖。
人が恐怖に退治した時、二つの選択を迫られる。
ひとつは、恐ろしいものから目をそらすこと。すなわち目玉を差し出すこと。
若しくは、恐怖の正体を見極めること。すなわち鬼の名前を言い当てること。
人間はわけのわからないものが一番恐ろしい。
正体がわかれば、もう怖くない。
そして、恐怖の正体は暗い森の中でしか知ることができない。
たぶん、大工が入っていった森の中は、深層心理の一番深いところなんだと思う。
そして、そこは死の世界の一歩手前なんだと思う。
それくらい、ギリギリのところでしか、鬼の名前を聞くことができない。たぶん。
昔の人は、自分自身の一部を、鬼とか精霊とか、そういうものに切り分けて考えることが上手だったんだと思う。
今の僕らは、「自我」とか「自意識」とかが強すぎて、自分自身は自分自身であると信じすぎてるんじゃないかと思う。
自分自身の中に、自分でもコントロールできないものが存在していることを忘れているんじゃないだろうか。
そういうものに対する、敬意や畏怖の念みたいなものが足りないんじゃないだろうか。
そして、知らず知らずのうちに、鬼に目玉を差し出して、いろんなものを見つめる機会を失っているんじゃないだろうか。
『だいくとおにろく』を久しぶりに見て、そんなことを考えた。
とにかく、『だいくとおにろく』は面白い。