2014年1月31日金曜日

説得力はあるけど、この方法ではそんなにスポーツはうまくならないだろうなと思う理由

TLにこんなのが流れてきた。

武井壮が語るスポーツが上手になるコツが説得力ありすぎ


とても説得力がある。

だけど、たぶんこれを実践しても、多くの人はスポーツうまくらなないだろうと思った。

いや、少しはうまくなるかもしれない。だけど、劇的にうまくなることはないだろうと思いました。

なぜそう思うか、考えてみた。


---

たぶん、この方は嘘は言っていない。

自分の経験を語っている。

しかも、情熱にあふれていて、スポーツを心から愛していることがわかる。

それが、話の説得力を生んでいる。

とても好感を持てる。


だけど、成功体験を語る多くの人が陥りがちな語り方をしている。


それは、「今の私が成功したのはこういう風にしてきたからだ。だから、みんなこうすればうまくいくはずだ」という語り方だ。


みんな、これを聞いて、「〇〇になるために××をしよう」と思う。


だけど、この考え方ではたぶん失敗する。



たぶん、成功した(する)人は、ベクトルが逆なんだと思う。


つまり、「××をしていたら、なんか知らないうちに○○になっていた」というベクトルだ。




おそらく、この武井さんという方は、「肉体を制御すること(あるいはできるようになること)が死ぬほど好き」なんだろう。

自分の肉体がどうあるか、どうすればどう動くのか、そいうことに死ぬほど興味があって、それを突き詰めていく。

その過程で、”たまたま”スポーツというジャンルで花開いたんだろう。


(後で書くけど、この”たまたま”というのがとても重要だと思う。)




だけど、それを語るときは、なぜか、「自分がスポーツをできるのは、こういうことをしてきたからだ」という言い方になる。

本当は「肉体に興味がある自分だから、結果的にスポーツがうまくなってしまった」という方が実際に近いんじゃないかと思う。


だから、冒頭の動画の話をフムフムと聞いて、そのまま実践しても、たぶんうまくいかない。

まず、肉体のコントロールに愛情を持っているかが問われるし、持っていたとしても必ずスポーツの分野で花開くとは限らない。武井さんがその分野でうまくいったのは”たまたま”だ。(といったら失礼かもしれないけど)

すべての人が、まったくその通りにして、同じ分野でうまくいくなんて限らない。




何かで成功するというのは、自分の好きなこと興味があることについて、とことん突き詰めていくしかないんだろう。それも、愛を持って。

そして、悲しいことに、それによって自分が望む結果が得られるとは限らない。と言うより圧倒的にその確率は低い。


だけど、自分では望んでいなかった、別の何かを得られる可能性は高いと思う。


そして、その別の何かを得たときに「何かしらんけど、なんかすごいものを手に入れてしまった!」と思えた人だけが、「私はこうやって成功した」という資格を持てるんだろう。


たぶん、成功する人は、「愛を持って何かに打ち込む」ことと、「何かすごいものを手に入れた」ことに気付くのがうまい人だと思う。


反対に、何かを手に入れることができたとしても、その価値に自分で気付けなかった人は永遠に満足を得られないだろう。




なかなか難しい。

こんな、「成功する方法」みたいなのは、面白みもないし、即効性もないし、だれも相手にしてくれないだろう。

しかも僕みたいな凡人が語っても何の説得力もない。


だからこそ、成功体験者の「こうすればうまくいく」という情報は人気があるんだろう。







追伸。

そもそも僕は、スポーツとは突き詰めれば己の肉体(あるいは精神)を制御することこそが目的だとおもう。

スポーツが手段で、肉体の制御は目的だと思う。

でも、冒頭の動画では、スポーツが目的で、肉体の制御は手段になっている。

僕は、自分の肉体を完全にコントロールできた時点でほとんど人間としての達成をしているし、スポーツの役割は終わっていると思う。


もちろん、卵が先か鶏が先かという話ではあるけども。

スランプと言うならば、スポーツをうまくすることを目的化しすぎて、自分の肉体を動かすという喜びそのものを忘れることにあるんじゃないかと思う。


まぁ、僕はスポーツの専門家でも何でもないので、異論はもちろん認めます。


そして、この武井さんという人のことを全く知らないのに想像だけで書いています。ごめんなさい。

2014年1月30日木曜日

『したきりすずめ』と村上春樹と僕の子育て

この間、絵本で『したきりすずめ』を読んだ。

その感想を書いたけど、例によって考えながら書くもんだから、かなり長くなってしまった。。。



したきりすずめ (日本傑作絵本シリーズ)
石井 桃子
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『したきりすずめ』面白い。示唆に富んでいる。

こういう寓話はいろんな教訓や見方がある。

読むたびに新しい発見がある。



今回読んでみて気になったのは、「ばあさんのつづらの中身が化け物になったのはいつのタイミングか?」というところです。


大きなつづらには、最初から化け物が入っていたのか?

ばあさんが、家に帰るまでにあけてしまったから、箱の中身が化け物になってしまったのか?

じいさんが大きなつづらを選んだらやはり化け物だったのか?

それとも、じいさんが大きなつづらを選んだら、なかみは宝物だったのか?


じいさんとばあさんの前にはさまざまな選択肢が提示される。

そして、さまざまな可能性があった。


もし、じいさんがこうしていたらどうなっていただろう。ばあさんがこうしていたらどうなっていただろう。


いろいろと考えた挙句、結局僕の考えはこういうところに落ち着いた。





つまり、じいさんはどう転んでも小さなつづらを選んでしまう。

ばあさんは、どう転んでも大きなつづらを選んでしまう。また途中でふたを開けてしまう。


彼らには、それ以外に選択の余地がない。



だから、『したきりすずめ』の話に「もし」を考えてもあまり意味がない。


それよりも、なぜじいさんは小さいつづらを選び、ばあさんは大きいつづらを選んだか。


宝とは何か? 化け物とは何か? を考えたほうがいいと思う。



で、じいさんとばあさんの性質の違いを考察してみる。


考察に当たって、石井桃子の『したきりすずめ』(冒頭のリンクの絵本)をベースにする。

(この『したきりすずめ』は、じいさんばあさんが雀のお宿を探す際に、「牛あらいどん」と「馬あらいどん」に出くわす。彼らは、牛や馬を洗ってくれたらその見返りに雀のお宿への道を教えてくれる。)


ばあさんの性質


まず、ばあさんの性質から。


ばあさんは、なんとなく強欲で意地悪な印象がある。だけど、物語をよく見ていくと、単純にそれだけとは言いにくい。

おばあさんの行動をざっと取り上げると、次のようなものだ。


  1. 雀が糊を食べてしまったので、舌をちょん切る。
  2. 牛あらいどん、馬あらいどんに「牛(馬)を洗ったら雀のお宿の道を教えてやる」と言われたら、ちゃちゃっと牛(馬)を洗って、道を教えてもらう。
  3. 大きなつづらをもらう
  4. 家に帰るまでにつづらを開ける。
これらをざっと眺めてみると、ばあさんは、大変「合理的」な人間であるということがわかる。

1.の「下をちょん切る」というのは、残酷ではあるけど、「問題の根本を断ち切る」という意味では、実にクールで現実的で効果的な対応だ。


2.は手抜きでズルをしているようだけど、もっとも労力の少ない方法で「道を聞く」という目的を達成している。

3.も同じコストをかけるのであればより大きな利益を得るという、合理的な判断に基づいている。

4.は同じ利益を得るなら、早く得るという判断、あるいはじい様と二人で分けるよりは、一人占めしたほうが利益が大きいという判断。さらには、「持って帰る」というコストをカットするという判断かもしれない。


とにかく、ばあさんは、徹底した合理主義である。


だから「小さいつづらを選ぶ」という選択肢はあり得ない。


ここが、この物語の怖いところだと思う。


自分が合理的だと思って判断している人間は、自分で何かを選択したように思っていても、結局は何かに「選ばされている」。


そして、その結果つかむものは、化け物である。

化け物とは何か?

この化け物とは何か、というのが僕にはうまく説明できないんだけど、僕の好きな村上春樹の小説等がうまく説明してくれていると思う。

村上春樹の『1Q84』に出てくるリトルピープルや、エルサレムでの『卵と壁』スピーチの「壁」や「システム」が、この化け物と同じものだと思う。

【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)


人々の合理的な思考の総体のようなものが、人や世界を暗い方向に引っ張っていってしまう、そういうものが化け物なんだと思う。




じいさんの性質


反対に、じいさんの性質を考えてみる。

爺さんの行動はざっと次のようなものだ。


  1. 舌を切ったばあさんに代わって、雀に誤りに行く
  2. 牛あらいどんと馬あらいどんの牛や馬を丁寧に洗う
  3. 自分でも持って帰れる小さなつづらを選ぶ
  4. 家までつづらを開けずに持って帰る
じいさんは優しくて、無欲と言えばそれまでなんだけど、もうちょっと見てみると、じいさんには次のような信念があるようだ。

じいさんは「自分にできることを真面目にやる」という信念だ。



言い換えると、じいさんは結果よりも過程を大事にしていると言える。

宝とは何か

じいさんが得た宝とは、この過程を大事にする人生そのものではないだろうか。


また村上春樹で例えると、『ダンス・ダンス・ダンス』で羊男が次のように言っている。

音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。
意味、つまり「それによって何が得られるか」ということは大した問題ではない。大事なのは踊り続けることだ。



自分ができることを、ただ誠実にやる。


それだけが、合理性という化け物に抗う唯一の方法であり、人生を宝物にする方法のようだ。



この『したきりすずめ』の教訓を自分に当てはめてみる


こいつを、自分の人生に当てはめるのはなかなか難しい。


たとえば、子育てに当てはめてみる。


自分の子どもが、将来幸せになってほしい。素晴らしい人間に育ってほしい。

だけど、僕のリソースは限られている。(経済面、時間面etc)

だから、どうしても少ないコストで、より効果の上がる教育を施してやりたい。



だけど、そういう考え自体が自分の子どもたちに、「より少ないコストで最大の利益を上げる」という思考回路を育てるだろう。

できるだけ努力せずに何かを手に入れる術を身に着けていくだろう。

『したきりすずめ』のばあさんのような人間に育っていくだろう。





自分の子どものことを思えば思うほど、化け物に食われる可能性が高くなる。

この矛盾が僕の前に立ちはだかる。


僕は、『したきりすずめ』のじいさんにならなければならない。

自分の子どものことを考えるなら、自分の子供の将来のことを考えてはいけない。

「子どもの幸せ」という結果を求めてはいけない。

ただただ、目の前の「子ども」と向き合うしかない。

僕が人生を一歩ずつ歩く姿を見せるしかない。


とても難しそうだ。


うまくいくだろうか?


とにかく、できることをやるしかない。


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2014年1月26日日曜日

合気道始めました

合気道始めました。


所信表明と言うか、動機の確認と言うか。

だらだら書きます。



前々から思っていたことですが、ここ最近特に気になっていることがありました。


それは、「自分とは何か」とか、「自分と自分以外のものの違いとは何か」とか、まあ、そういった類のことです。


例えば、僕は僕の肝臓がどうなっているのか感じることはできないのに、車を運転しているときはハンドルを通して車全体をなんとなく把握することができる。(たまにぶつけたりはするけど)


よくわからない例えだけど、僕の体の中にあるからといって、すべて意識できるわけじゃない。
反対に僕の体じゃないからと言って僕が意識できないわけじゃない。

そんなことを考えていたら、じゃあ、僕と言う人間は何なんだ? って話になってとても混乱してしまいます。

混乱するけど、とても興味がある。

自分自身に対する好奇心。


思春期やら就活の時にもたしかに「自分とは?」ということに関心はあったと思う。

でも、あの頃は、何かしらせっぱつまった感というか、切実さがあって、なんか余裕がなかった。

「自分を知りたい」より、「自分をよく見せたい」だったんだと思う。

けど、30を過ぎて、子どももできた今は、純粋に好奇心と言うか、自分の良いところも悪いところも、ただただ「知りたい」という気持ちがある。



まあそんなわけで、まずはどこまで自分の体を知りたい。

体を制御することができるか、どこからができないのか。

それから始めようと思うわけです。



で、それを知るには、武道が一番いいだろうと思ったわけですが、何分、勝ち負けだとかは好きじゃない。


柔道とか、空手とかはなんか違うなあと思っていたんですが、ここ一年くらい、僕のブログでも時たまネタにする内田樹先生のブログで合気道の話がちょくちょく出てきて、これは僕向きだなぁと思ったわけです。


まず、合気道には試合がないそうです。


勝ち負けではなくて、武道とは(合気道とは)「手持ちのリソースで如何に生き延びるか?」というためのものだそうです。


なるほど。


これは僕向きだと思いました。


そんなことを考えていたこの頃ですが、たまたま子どもの保育園のおじいさんが合気道の先生をしているという情報を嫁が仕入れてきてくれました。


灯台下暗し。渡りに船。思い立ったが吉日。


合気道を始めることにしました。


何はともあれ、僕と言う人間にはどれだけのリソースがあり、それをどう使うことができるのか。


まずは、そこから始めてみようと思います。




で、先週、合気道の見学に行って、今日第一回目の稽古に行ってきたんですが、なかなか楽しかったです。


ベテランの方に思いっきりつかみかかっていって、あっけなく倒される。

自分の全力を受け止めてくれる人がいるというのはとても気持ちがいいものです。(合気道なので受け止めるというよりは、いなされるという感じですが)


そして、そんな親ほど年の離れたベテランの方々が、「なるほど! こんな技があったのか!!」と子どもみたいに楽しそうに稽古している姿をみると、なんというかこっちまでワクワクしてしまうのです。

結局、何歳になっても「自分」なんてものがわからないのかもしれない。

でも、何歳になっても新しい技(自分の中の新しい部分)を発見できるかもしれない。


そういう年の取り方をしたいと思うのです。

2014年1月18日土曜日

【感想文】『無印良品は、仕組みが9割』/ビジネス書をモノにするのは難しい

久々のビジネス書。





こういうお話を読むと、「マニュアル大事だなぁ」と思う。


でも例えば、『スターバックスは、マニュアルを作らない』という本があったら(※スタバにマニュアルがあるかないかは知らんけど、例えばの話)、「マニュアルってよくないんだなぁ」と思うだろう。




結局、”無印”と”マニュアル”の相性がよくて、それをしっかり見抜いたことと、周囲の反対やいろんな迷いを振り切って自分の道を貫くというバイタリティの問題なような気がする。
だけど、そういうところはあまり本に書かれない。

たぶん、著者にとってあまりにも当たり前すぎて書くべきこととして意識されないんだろう。


こういうビジネス書を読むと、小手先の技術に目移りしながらあっちへフラフラ、こっちへフラフラしまう。

そして、結局何も身につかないで終わってしまう。

2014年1月17日金曜日

【感想文】『恥知らずのパープルヘイズ』/過去の自分自身の救済の物語

読んだ。

恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-
上遠野 浩平 荒木 飛呂彦
集英社 (2011-09-16)
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5部の途中で離脱したフーゴのその後を描いた小説。

ぼくは、作者がフーゴを題材にした気持ちがとてもよくわかる。


フーゴは人生において一番大事なところで一歩を踏み出せなかった。

物語の中から唐突に姿を消し、それ以降本編に一度も登場しなかった。

あまりにもあっけなく消えてしまったので、逆に心に引っかかってしまう。


たぶん彼は、かつて勇気を出せずに立ち向かえなかった僕自身だ。

フーゴの欠落は、僕自身があのとき一歩を踏み出せないがために生じた欠落だ。


たぶん、だれしもそういった欠落を抱えているんじゃないだろうか。


勇気を出せなかった後悔。

誰かを裏切った後ろめたさ。



きっと作者も、フーゴの物語を書かずにはいられなかったんだと思う。

物語の中でフーゴを救済することは、一歩を踏み出せなかった過去の自分を救済することに他ならない。



そして、『恥知らずのパープルヘイズ』は、作者自身のための物語だ。


僕のための物語ではない。


僕は僕自身のパープルヘイズの物語を創らないといけない。

2014年1月16日木曜日

どうせ見せるなら青々と芝生を

最近、次男坊(2歳)が人のものをほしがるようになってきた。

同じおやつを食べているのに、「あっちのほうがいい」とか言ってごねたりします。

めんどくさい。



誰が教えたわけでもないのに、他人のものがよく見えるようです。

きっと、隣の芝生が青く見えるのは本能なんだろう。


たぶん。


子どもが人のものを羨ましがったり、ほしがったりするのはめんどくさい。



だけど、それが本能だとすると、人間が生き延びていくためにきっと必要だったんだと思う。


考えてみると、もし人のものを全く「いいなぁ」と思わなかったら、子どもはどうやって価値観を育てていけばいいんだろう。

だれもが、バラバラな価値観になってしまって、同じものを好きだという「共感」みたいなものが生まれないんじゃないか。

そうしたら、たぶん人間に社会性なんて生まれなかったんじゃないだろうか。


きっと、他者のものを「いいなぁ」と思う気持ちの積み重ねがその人間性を方向付けていくんだろう。

そして、そういう気持ちが人間を社会的に結び付けていくんじゃないだろうか。

(逆にそいつが強すぎて争いの原因にもなると思うけど)


まぁ、あんまり「隣の芝生が青い」のが強すぎるとそれはそれで大変だけど、子どもに対しては「こいつは今価値観を育てている最中なんだ」とある程度おおらかに見てやるのがいいのかなと思ったりもする。



そして、彼の人生における最初の他者として、青々とした芝生を見せつけてあげたいと思うのです。