2013年7月18日木曜日

蟬の抜け殻と蝉の亡骸

蝉の抜け殻があると、子どもの服に付けてやる。


だけど、蝉の亡骸を、子どもの服に付けてやることはない。



蝉の抜け殻と、蝉の亡骸の間には、いったい何が違っているんだろうか?




蝉の抜け殻はただの「物質」だから、服に付けても気にならないんだろうか?
(もちろん、抜け殻だろうと嫌な人は嫌だろうけど)


それなら、蝉の亡骸だってただの「物質」ではないんだろうか?


亡骸には、何かしら穢れみたいなものがあるのだろうか?



無意識に死の気配を恐れてしまうのだろうか?



それは、文化的なものなんだろうか?


習慣的なものなんだろうか?



文化が違えばまた違ってくるんだろうか?





混乱してきたので、この辺でやめる。

2013年7月16日火曜日

蝶と芋虫

昔々、蝶と芋虫は別の生き物でした。

そして、蝶は蝶の国で暮らし、芋虫は芋虫の国で暮らしていました。


美しい蝶は醜い芋虫が大嫌いでした。

地道に生きている芋虫は、ひらひら飛んでいる蝶が大嫌いでした。


蝶と芋虫は互いにいがみ合い、いつも戦争ばかりしていました。


蝶と芋虫は、何百年、何千年もの間戦争をつづけていたので、やがてどちらの国もあと少しで滅びてしまうというところまで来てしまいました。


このままでは、大変なことになると思った蝶の国と芋虫の国は、それぞれ神様のもとへ遣いを出しました。


蝶の国の遣いと芋虫の国の遣いに、神様は言いました。


「それでは、お前たちを一つの生き物にしよう。
芋虫はその生涯を終えるとき、さなぎとなり蝶になりなさい。そして蝶は芋虫の卵を産みなさい。
芋虫は、より立派な蝶となるためにたくさんの葉っぱを食べなさい。蝶は遠くまで行くことができない芋虫のためより遠くにたくさんの卵を産みなさい。
そうすることで、お前たちはこれから素晴らしい繁栄を遂げることになるだろう」



そうして、蝶と芋虫はひとつの生き物となりました。

2013年7月13日土曜日

列車はココからどこかへ行くためのもの

木のレールのおもちゃっていいですね。


プラレールみたいに自動で動くおもちゃもいいですが、ある程度小さいときは、自走しないものがいいと思います。



保育園の先生の受け売りですが、子どもがレールをつなぎ合わせて行くとき、子どもなりに「物語」を作っているそうです。


きっと、ココにはこんな人が住んでいて、どんな生活をしていて、とか。

ココには、こんな山があってこんな花が咲く、とか。

列車はその人々や、モノを眺めながら進んでゆく。


ということだと思います。




なるほど。わかります。





そう考えると、そもそも列車ってココからどこかへ行くためのもんだなぁ、と思う。


一周ぐるっと回る列車って、現実世界では、実は少数派なんじゃないだろうか。



山手線とか、大阪環状線とか、東京の地下鉄とかって、どちらかというと割と”特殊”な部類に入るんだと思う。



列車の根本的なものって、「A地点からB地点へ何かを運ぶ」っていうものなんじゃないだろうか。


それは、人間が「どこかへ行きたい」っていう根源的な欲求から生み出されたものなんじゃないだろうか。






だから、レールのおもちゃも、「別に一周回らなくてもいいじゃん」と思う。


(プラレールみたいな自走するおもちゃは、「一周することが前提」になってしまう)


むしろ「ココから出発して、どんどんつなげていって、どこかにたどり着く。その方が物語としては自然じゃん。」と思う。





というわけで、子どもの四歳の誕生日は奮発して木のレールのおもちゃにしました。












プラレールは、もう少し大きくなって、メカと親しめるようになってから。。。


セブンカフェのデザインはまっとうなデザインだと思う

はてぶで以下のリンクがにぎわっておりました。



おや、全国のセブンカフェのようすが・・・



リンク先のように、佐藤可士和によるセブンカフェのデザインが盛り上がっているようです。


「シンプルすぎてわかりにくい」

「使いにくいので結局テプラを張られてしまっている」

とか。



これらの批判は、ネタとしてはとてもとても面白い。




けど、僕はこのデザインは、かなりまっとうで妥当なデザインだと思う。


別に、佐藤可士和が大好きなわけでも何でもないけど。


以下、その考察。




シンプルすぎるデザインについて


シンプルすぎてわかりにくいという批判もあるようだけど、結果的にはテプラを張ればわかりやすいデザインになっている。


シンプルなために、テプラを張るのに十分なスペースがある。


しかも、張ったテプラがしっかり目立っている。


そして田舎のコンビニは、テプラを張ることでちゃんと田舎っぽくなっている。




デザイナーとしては、テプラを張られることを想定していたかどうかはわからない。


せっかくかっこいいデザインが台無しにされたことに腹を立てるかもしれない。


だけど、張ったテプラが目立つのは、このシンプルなデザインのおかげだ。



世の中には、テプラを張る余地さえないゴチャゴチャしたデザインがあふれている。


そういう意味では、テプラを張って、店舗ごとにカスタマイズできるのは「拡張性の高いデザイン」と言えるのかもしれない。






R(Regular)L(Large)表記について


コーヒーのサイズについて、R(Regular)とL(Large)という表記がわかりにくい批判されているようだ。

この点について、以下のように問題を分けられると思う。


  • なぜ英語なのか
  • なぜM(Medium)、L(Large)ではないのか
  • なぜピクトグラムではないのか


なぜ英語なのか


英語表記がわかりにくいという批判もあるようだ。


「日本語の方がわかりやすい」と。



もちろん、日本人向けだけだと日本語の方がわかりやすいと思う。


だけど、たぶんセブンイレブンは日本に来る外国人や、海外店舗に置くことを想定しているんだと思う。

グローバルな企業にとっては当然の考え方だと思う。


グローバルに展開する場合、言語として採用するには(好き嫌いはあるとしても、今のところ)英語が妥当なところだと思う。


”国内にも、海外にも同じものを置く”ことの是非はともかくとして(そしてそれは僕の勝手な推測だけど)、デザイナーはその戦略に見合うものをデザインしたんだと思う。


なぜM(Medium)、L(Large)ではないのか




「Regularという表記がわかりにくい」

「MLの方がしっくりくる」

という批判もあるようだ。


だけど、Mっていうのは「Medium」のことだから、S(SmallあるいはShort)が存在しないのにMとLだけ存在するというのは原理的におかしい。

MとLだけしか存在しないのではあればそれはMではなくSだ。


じゃあなぜ、「SL」にしないのかという問題も生じてくる。


「大小」の概念は比較でしかない。


まず基準になるものがあって、それより「大きいか」「小さいか」となる。

だから、基準としてのRegular(標準)があって、それより分量が多いLargeとするのは、自然な流れだと思う。




別にSLでもいいと思う。

でも2種類しかないのにわざわざ「小さい」と言ってしまうと、客を損した気分にさせる。

お店は少しでも商品をよく見せたいものだ。






なぜピクトグラムではないのか




言語に関係なくわかりやすくするには、ホントはピクトグラムの方がいいのかもしれない。


だけど、「大きさ」と言う概念を、万人に誤解なくピクトグラムにするのはとても難しいと思う。


ちなみに、僕がコーヒーのサイズ(大、小)のピクトグラムを考えると、下のようになった。



レギュラーサイズ(左)とラージサイズ(右)をピクトグラムにしてみた
レギュラーサイズ(左)とラージサイズ(右)をピクトグラムにしてみた


なんだこれは。。。

大きいのと、小さいのとはわかるけど、これがレギュラーサイズとラージサイズを表しているとは到底思えない。

レギュラーサイズのピクトグラムは、ラージサイズのピクトグラムを見ないとそれが「より小さい」ことがわからない。

レギュラーサイズのピクトグラムは独立してその意味性を持たない。。。


これでは、絶対トラブル続出だ。


店舗側も、こんなデザインの機械を置かれたら迷惑千万だと思う。



もちろん、僕はデザイナーではないので、かなりひどいデザインだ。


だけど、万国共通で誤解を生まないピクトグラムを作るのはとても難しいと思う。



特に、売買というシビアな場所で、下手なピクトグラムを使ってしまって誤解が生じると、それはかなり面倒だ。


店舗側もそんなリスクをしょいたくないと思うし、経営側もそんなコストをかけたくないだろう。


だから、デザインとしては最低限、分量についてのトラブルが起こってしまった場合に

「ここにちゃんとRegularって書いてあるでしょ」

と言えるものが必要だった。


だから、確実な「文字」を使う方を選んだんだと思う。




デフォルトで使えるもの


人によっては使いづらさがあるものの、『セブンカフェ』はデフォルトの状態で使えるようになっている。


これは大きなポイントだと思う。


地域差、客層の差があることは初めから分かっているからといって、例えばデフォルトはのっぺらぼうの状態で、各店舗で説明書きを加えないと使い始められないというのでは、コストもかかる。


機械が店舗に来て、カウンターに置けばとりあえず使えるというのは大事だと思う。

(もちろん、電源とか水道とか諸々の設定は必要だろうけど)




まとめ



というわけで、僕はこのデザインは至極まっとうで妥当なものだと思いました。


(セブンカフェとか使ったことないけどね! それはともかくとして。)


なんというか、万人に使いやすいデザインって、本当に難しいんだろうなぁと思う。

こうやって考えてみると、デザインって奇抜でかっこいいモノと言うよりは、お店側か経営側とか客とかいろんな人の思惑の妥協点を探っていく、結構地道で泥臭いもんだなと思う。


(そもそも、セルフサービスじゃなくて、店員がコーヒー入れてくれたらこんなデザインいらないわけで。でも店員の教育やらなんやらのコストを考えるとセルフにした方がコスト安いし、その分コーヒー自体も安くなるし。だからデザインが必要になってくるわけで・・・)



そして、出来上がったモノを見ると、「妥当だなぁ」と思ったりするけど、”無”の状態からその”妥当”なところに落ち着かせるというのは、とても難しいんだろうなぁと思う。


デザイナーってすごい。

2013年7月8日月曜日

空っぽの部屋

あるところに、部屋がひとつありました。


部屋の中は、美しい絵や、高価な飾りでいっぱいでした。


その部屋にはたくさんの人が訪れました。

そして、部屋の美しさに感心して帰っていきました。


部屋はそのことを、たいへん誇りに思いました。




ある日、部屋にオオカミがやってきました。


オオカミは、部屋の中で思う存分暴れました。


美しい絵や、装飾品は見る影もなく壊れてしまいました。




部屋はとても傷つきました。




部屋はあまりにも悲しかったので、部屋の中を空っぽにしてしました。


もう二度と、大切なものを壊されたくなかったのです。


しばらくして、またオオカミがやってきました。


しかし、何も壊すものがないので、残念そうに帰っていきました。



部屋はホッとしました。




部屋の中はあまりにもがらんとしていて、何もないので、訪れる人はだんだん少なくなっていきました。


やがて、部屋には誰も来なくなりました。






ただひとり、女の子がときどき部屋を訪れました。


女の子は、部屋を訪れるたび、がらんとした部屋をしばらく眺めました。


そして何かのしるしのように花を一本、部屋において帰りました。



女の子は花が枯れるころにまたやってきて、新しい花と交換して帰りました。

女の子は帰るときはいつも、少し寂しそうな顔をしました。

その顔を見るたび、部屋は胸が苦しくなりました。





ある日、部屋は女の子のために、テーブルとイスと花瓶を用意しました。


テーブルの横には、窓をこしらえました。




女の子が部屋にやってきました。



女の子はイスに腰を掛け、花瓶に花を活けました。


そして、しばらくぼんやりと窓の外を眺めました。



女の子は帰るとき、少し、うれしそうな顔をしていました。


その顔を見て、部屋は暖かい気持ちになれました。



それからも女の子はときどき部屋を訪れました。


女の子は部屋訪れるたび、同じように花を替え、イスに座り、窓の外をぼんやり眺めました。

そして、すこしうれしそうに帰っていきました。






ときどき、オオカミがやって来て、テーブルやイスをひっくり返していきました。

その度に部屋は、女の子がいつ来てもいいように、部屋の中を元に戻しました。




部屋には以前のようにたくさんの人が訪れることはありませんでした。


しかし、部屋はとても幸せでした。

2013年7月7日日曜日

Google+の写真管理がすごい

Google+の写真管理がすごい。


例えば、検索ボックスに"flower"って入れてみると、自分か管理している写真の中からちゃんと花の写真が出てくる。


Google+の写真を"flower"で検索した結果
flowerの検索結果





もちろん僕が、自分で写真にタグ付けしたわけではない。

たぶん、Google+が裏で勝手に僕の写真を解析して、タグ付けしているんだと思う。



少し試してみたけど、こんなキーワードが引っかかった。


具体的なもの
  • dog
  • cat
  • animal
  • sea
  • child
  • etc

  • blue
  • red
  • yellow
  • etc


状態
  • sunset
  • lunch
  • wedding
  • christmas
  • etc

すごいなぁ。さすがに"lunch"と"breakfast"の厳密な違いはわからないみたいだけど、それにしてもすごい。


ちなみに、日本語でも検索されるけど、あまり精度はよくない。



もちろん、非公開のものでも検索できます!

(非公開でもしっかり中身は解析している)



Googleの技術ってすごいなぁ。(そして怖い。でも便利。)



(他の写真管理サービス使ってないからあんまり分からんけど、こんなもんなんかな? flickrとか。)




Google+内で日々アップされる膨大な画像に対して、すべて解析してタグ付けしていく技術ってすごいなぁ、と思う。


でも、僕の脳裏にはどうしても、どこか広々とした体育館のようなところに机がずらーっと並べてあって、そこでせっせとPCに向かってタグ付けをしている人々のイメージが沸いてしまうのだけれど。

2013年7月4日木曜日

わらしべ長者のポイント

最近、”わらしべ長者”という文字を見かけた。



ふと、「そもそも、なんで最初に藁なんて持ってたんだっけ?」と思って、Wikipediaで調べた。


Wikipediaには、以下のように紹介されていた。
昔、ある一人の貧乏人がいた。貧乏から何とかして逃れようと観音様に願をかけたところ、「初めに触ったものを、大事に持って旅に出ろ」とのお告げをもらった。男は観音堂から出るやいなや石につまずいて転び、偶然1本の藁しべ(藁)に手が触れた。

僕は、これを知って、『わらしべ長者』について、偉い勘違いをしていたんじゃないかという気がしてきた。


僕は、今まで『わらしべ長者』は、藁みたいなちっぽけなものでも、うまい具合に物々交換していけば、最後には大金持ちになるアメリカンドリーム的な物語だと思っていた。


だけど、本当に大事なのは物語の冒頭、観音様のお告げの部分、「最初に手にしたものを大事に持っていなさい」という部分なんじゃないかという気がしてきた。



観音様の言葉は、いつも有難い。




もし、男が最初に手にしたものが藁だったからといって

「今のなし、もう一回! せめて馬あたりからスタートさせて!」

とか言って、藁を捨ててしまったら男は幸せになれなかっただろう。


ポイントは観音様が言われた、「最初に手にしたものを大事にすること」だと思います。



最初に手にしたものとは、つまり自分が今手にしているものと言い換えてもいいと思います。


スタートラインという意味で。


自分が、今、手にしているものはちっぽけなもののように感じられるものです。


まるで藁のように。


しかも、自分では選びようがない。



だけど、往々にして自分が持っているものの価値は自分ではわからないものだ。



それが億万長者に匹敵する価値があったとしても。







僕らは最初に手にしたもの(今手にしているもの)を大事にしなければならない。





藁を大事にしないものは、ミカンを手にしても、馬を手にしても、億万長者になっても、きっと満足しないだろう。

欲望にはきりがない。

どこにもたどり着かない。




だけど、藁でも、ミカンでも、自分が手にしているものに敬意を示し大切に生きることは、億万長者で幸せに暮らすことと等価値なんだと思います。


『わらしべ長者』は、藁から初めて億万長者に上り詰めるサクセスストーリーではなくて、藁を大事に生きることと億万長者で暮らすことは、「幸せ」という観点でいうと同じ事なんだということです。



この物語は、


「今持っているものを大事にしなさい。それがたとえ藁のように価値がないモノのように見えたとしても。なぜならそれは、他の誰でもなくあなたが手にしているものなんだから。」


と語りかけていると思います。



僕が今手にしているものをもう一度見つめなおそうと思いました。