2014年3月29日土曜日

眉毛

世間には、電車の中で化粧をすることを快く思わないか方々いるようだけど、僕は決してそんなことは思わない。
化粧をすることで、実際的に誰かに迷惑をかけているわけではないのだから。
むしろ、これから向かっていくであろう仕事やデートで、彼女たちがうまくいくように心の中でささやかなエールを送っているくらいだ。(グッドラック!)

ただ、公の場で化粧をする以上、それを見られること対しては許容しなくてはならない。

先日、電車の中で立っていると、僕の前に座っているお姉さんがおもむろに化粧を始めた。僕は本を読んでいたんだけど、本を読んでいる視線の先がちょうどお姉さんを見下ろすような加減だったので、彼女の化粧シーンが視界に入った。


それは、丁度彼女がピンセットを取り出して眉毛を抜き出した時で、彼女はそれを親指の付け根に一本一本丁寧に置いて行った。

僕は別にマジマジと化粧を見ようと思っていたわけではないけれど、なんとなくその「抜かれた眉毛」の行き先が気になってきたので、本を読みながら眉毛抜きの続きを目の端で追いかけた。

数分後、彼女は眉毛の選別を終え、手鏡で残された眉毛の並びを精査し、十分満足いったというわけではないが、これから向かう場所と自分の容姿と電車に乗っている時間を考えると妥協できる範囲だろうという感じで、手鏡とピンセットをポーチの中にしまい込んだ。

僕は「あれ?」と思った。

彼女は、親指の上の眉毛をティッシュにくるむわけでもなく、その辺に払うわけでもなく、最初からその存在がなかったかのように、全く関心を払わなかった。

まるで「私の眉毛はもともとこういう形だったの。だから、“抜かれた眉毛”も存在しないの。」と言わんばかりに。

そんなことをしたら、抜かれた眉毛はその辺に散らばってしまうのではないか? と思った。

あまりに、自然なふるまいに僕は少し混乱してしまった。抜かれた眉毛の存在を否定されてしまうと、それまでにしていた眉毛を抜くという行為そのものの確かさが揺らいできた。

果たして「眉毛を抜いているところを見た」という僕の記憶は確かなものなんだろうか?

最初から誰も眉毛なんて抜いていなかったんじゃないだろうか?

僕はだんだん不安になってきた。(他人の眉毛で僕のアイデンティティが崩壊しかけている!?)

僕は、僕自身の記憶の確かさ、僕自身の確かさをつなぎとめるために、僕は抜かれた眉毛のことを思う。

誰が何と言おうと、僕だけは彼女の眉毛がそこにあったという事実を確認し、記憶にとどめるためにここにその出来事を書いておく。

そうすることで、僕と言う人間をこの現実という皮膚の上に留めておく。

なんだかわけがわからなくなってきた。


それにしてもいったいあの眉毛はどこに行ってしまったのだろうか?

いまでも電車のシートにへばりついているんだろうか?

それとも、いまでは誰かの眉毛に生まれ変わっているんだろうか?



でも、今度生まれ変わるにしても、生えている場所がほんの数ミリずれているだけで、「お前はいてもいい」「お前はダメだ」と容赦なく選別され、抜かれてしまったものは存在自体をなかったことにされてしまう女性の眉毛にはなりたくないと思った。

2014年3月26日水曜日

春雨にずぶ濡れジャンパー、ジャングルジム

春雨にずぶ濡れジャンパー、ジャングルジム(字余り)

今朝は朝から雨だった。久しぶりにしっかりした雨。

ゴミ出しに公園の横を通ると、ジャングルジムに子どものジャンパーが2つかかっていて、ずぶぬれになっていた。

きっと、春休みで公園に遊びに来た子どもたちが、遊んでいるうちに暑くなったんで、ジャングルジムにかけておいたんだろう。

「バイバイ」って、手を振って帰るころには、遊びまわってあったかくて、楽しくて、ジャンパーのことなんかすっかり忘れて、そのまま帰ってしまったんだろう。

朝、また遊びに出かけようとして、「今日も温かいな、でも雨降ってるし上着どうしようかな」なんて考えているときに、ふとジャンパーを忘れたことを思い出して、大慌てして、お母さんに怒られたり、てんやわんやしている光景を思い浮かべて、ちょっとかわいそうだけどなんとなく楽しい気分になった。


カメラを持っていたら、パシャリと撮って、さらっとアップできたんだけど、あいにくカメラを持っていなかったので、「カメラがないなら俳句を詠めばいいじゃない」というマリーアントワネット的精神を発揮してみた。

俳句、ノーマネーでプライスレス。

あと、facebookやらtwitterだと、アーカイブが効きにくいのであえてブログに書いてみた。だけどアーカイブするほど俳句を詠むんだろうか?



こんなにグダグダと捕捉を入れなくてもいいような俳句的センスがほしい。

2014年3月25日火曜日

ネットと本の違い

一人でネットサーフィンなんてしていて、ふと時計を見ると1時間くらい経っていたりする。

そんな時、

「俺は、本当はネットなんてしたくなかったんだ」

ってよく思う。


だけど、本を読んでいて

「俺は、本なんて読みたくなかったんだ。」

とは思わない。


不思議だ。

これは、ネットと本の一般的な違いなんだろうか?

それとも、僕の個人的な傾向なんだろうか?


まぁ、本って飽きたり疲れたりしたら、どうしたってそれ以上読み進められなくなってしまうってだけかもしれませんが。

2014年3月5日水曜日

【感想文】『わたしの絵本体験』/絵本との向き合い方

『昔話とこころの自立』に引き続き、松居友の『わたしの絵本体験』を読んだ。

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絵本の選び方、というか絵本との向き合い方、心構えについて、とても勉強になった。
そして、これまでの絵本の選び方や読み方について、大いに反省させられた。


僕は、上の子がもう4歳だけど、もっと早くにこの本に出合っていたら、もっと上手に絵本を選んだり、読んであげれたりしたんだろうなと思う。

反面、ある程度子どもと付き合ってきたから、この本が言わんとすることがスッと入ってきたのかもしれない、とも思う。

いずれにしても、小さいお子さんがいる方、これから子どもができるかもしれない方にはぜひ読んでほしい一冊。



ただ、後半は割と哲学的と言うか、思想的な話が主体になってくる。


戦争やら物質主義やらに対する嫌悪感がかなり強く、自然や土着文化に対するあこがれがかなり強い気がする。


たぶん、この本が書かれた当時は、地下鉄サリン事件のようなカルトが関わる大きな事件は起こってなかったし、僕らが持っているような宗教アレルギーみたいなものはあまりなかったんだろう。

そういう自然回顧主義的な、文明否定的な発想は結構自然に出てきたもので、それなりにトレンドだったんだと思う。(だからこそ、のちに問題になったんだろうけど)



なので、その辺はある程度眉に唾を付けながら話半分で読んだ方がいいかもしれない。


それでも、絵本の見方やアイヌの神話の話はとても面白いし、勉強になった。





※最近思うんだけど、子育ての世界と疑似科学やカルトの世界って結構接近してるんだよなぁ。子どもに対してあんまり無関心なのも考え物だけど、あんまり頑張りすぎるとすぐにそっちの世界に入り込んでしまう怖さがある。片足は突っ込んでいると思ったほうがいい。疑似科学やカルトって全然他人事じゃないんだよな。見極めが難しい。

2014年3月3日月曜日

消防救急車の魅力

子どもがはたらく車好きなので、僕もはたらく車についてちょっと詳くなった。

そんな僕が、数あるはたらくくるまの中でも最近魅力を感じているのが「消防救急車(消救車)」だ。

消防救急車(wikipediaより)

はたらくくるまの代表格、消防車と救急車の両方の機能を持つ。まさにはたらく車界の「ベジット」だ。



そんな一見最強とも思える消防救急車だけど、彼はどうしようもないジレンマを抱えている。


それは、「もし、火事場にけが人がいたらどうすればよいのか?」という問題だ。


火事を消すべきか? けが人を病院に運ぶべきか?





けがに苦しむ人を横目に火事を消さなければならない罪悪感、あるいは燃え盛る炎を背にけが人を運び去る後ろめたさ。


どちらを選んでも残る後悔。


自分に与えられた能力がたった一つなら、迷うことなんてなかった。


異なる二つの能力を持つが故に、迫られる究極の選択。


極限状態で判断を迫られる宿命を背負った消防救急車。


そういう人間臭さが好きです。




※もちろん、「何を優先させるか」という基準は消防署でちゃんときめられているんだと思うし、他の消防車や救急車との連携やら導入コストやら、いろいろちゃんと考えられているだろうから、こんな心配はいらないと思うけどね。

2014年3月2日日曜日

【合気道】相手と協力して何かを成し遂げるという感覚

合気道を始めて一か月くらいが立ちました。


ここら辺で今の気持ちを書き留めておく。


(まだ一か月なので、もしかしたら見当違いなことを言っているかもしれません)



合気道を始める前は、合気道は「相手の力を利用して相手を投げ飛ばす」と言うイメージを持っていた。

もちろんそれはそれで間違っていないとは思うけど、実際にやってみると、どちらかと言うと「相手と協力して何かを成し遂げる」という感覚の方が近い気がする。


これは、八百長しているとか、そういう意味ではない。
(もちろん稽古では練習のため「上手に投げられてやる」ということはするけれど)



合気道に限らず、どんな武道でも(というかすべての人間関係において)相手がいないことには始まらない。(稽古は別)

敵がいなければ、武道は必要ない。敵がいないとということは、自分は無敵であり世界は平和である。(たぶん)


それはそれで素晴らしいことなんだけど、敵(他者)がいなければそこには何も生じない。

無だ。


敵(他者)がいることで初めて「技」が生まれる。


合気道では、基本的に攻撃する方(投げられる方)の力が強ければ強いほど、技も効いてくる。


うまい人に思いっきり攻撃を仕掛けていくと、あれよあれよと言う間にぶん投げられてしまう。


思いっきりかかっていって投げられるのは、結構気持ちがいい。


投げられているんだけど、なんというか、導かれている感じがする。


自分がその技の一部になっている感覚。


なかなかいいものです。




たぶん、達人の域に達すると、たとえ悪意や敵意がある人から攻撃されたとしても、その攻撃を勝手に「技」に変えてしまうんだと思う。
達人にとっては、それが協力的か、非協力的かということには関係がなく、「その関わりがどの程度の強さなのか?」のみが問われる。(たぶん)

いってみれば、すべての人を“協力者”に変えてしまう。

もしそうだとしたら、達人の域に達することができればどんな人間に対しても感謝できるかもしれない。どんなに悪意を持っている人間でも愛せるかもしれない。「協力者」として。


そういうのが本当に強い人の「器」なんだと思う。


これは、合気道とか武道とかだけに限らず、人間関係全般に言えると思う。


単に弱ければ、悪意にやられてしまう。

技術がなければ、悪意に対して悪意で返してしまい、お互いに傷つけあう。

でも、本当の強さと技術があれば、悪意をしかるべき方向に導き、何かしら生産的な「技」に変えられるかもしれない。






そんなことを思いました。


まぁ、やってるときは、そんなうだうだ考えずに、単純に体を動かすのが気持ちいいと思いながら気楽にやっています。


合気道、楽しいです。