2014年8月23日土曜日

【子育て】感想を保留状態にすることは大事だと思う

先日、ひさしぶりに姪っ子(小学4年生)にあっていろいろ話をした。

「『アナと雪の女王』を見た」というので「どうやった?」と聞いたら、

「わかりやすかった」

という答えが返ってきた。


わかりやすかった!


“面白い”とか“ツマらない”とかではなく、“わかりやすかった”ってどういうことだろう。

“わかりにくかった”っていうなら理解できる。

だけど、“わかりやすかった”っていう答えは僕を混乱させた。

だって、何かがわかったんならそれに対して何かしらの感想が想起されてしかるべきではないか?

「話の流れはわかった。で、結局何が言いたいの?」ってことだろうか?




「わかりやすかった」っていうことは、結局「何一つわからなかった」っていうことだろうか?


僕はあれこれ考えた。

『アナと雪の女王』は中身のない空っぽの映画なんだろうか?

姪っ子の(映画に対する)読解力が弱いんだろうか?

姪っ子のコミュニケーション能力の問題だろうか?



しばらく考えた結果、こういう結論に達した。




映画も姪っ子も何の問題はない。


問題があるのはむしろ僕の方だ。


僕の「映画どうやった?」っていう質問がそもそも適切ではなかったんだという思いに至った。



ます、映画はたぶん素晴らしいものなんだろう。(見てないからわからないし、これからも見るつもりはないけど。)


姪っ子は「わかりやすかった」と言っているが、たぶんそれは「ストーリーの流れはわかった」ということだろう。話の前後関係、因果関係は子どもにも理解できたということだろう。
だけど、きっと、彼女はこの物語が「面白かった」とか「感動した」とか「面白くなかった」とか、そういう感想を“保留”している。

にもかかわらず、そのうえで彼女はこの物語が好きなようだ。(それは、映画の中の歌を楽しそうに歌ったりしている様子からわかる)

たぶん、そういう物語は素晴らしい(はず)。


「なんだかよくわからないけど、この物語には何かしら大事なことが込められている」ということを彼女はよくわかっている。それは、単純に「面白い」とか「感動した」とかでは言い表せないものだ。

僕だって「『フラニ―とズーイ』ってどうやった?』って聞かれたら、困ってしまう。


面白いかと言われたら、まあ面白いんだけど、別に大笑いする話でもないし、いらいらする部分もあるし、、、なんと答えたらいい変わらない。「自分で読んでみてよ」って言うしかない。(読んでもらったとしても同じ感想を得られるわけでもないけど)


たぶん、素晴らしい物語はそういう類のものだと思う。言葉で言い表せないけど、直観的に何か大事なことが詰まっている、今はわからないけど、いつかわかるときが来るかもと思わせられる部分がある、そういうもの。

だいたい、もし物語を一言で言い表せるならそもそも物語なんていらない。

そういう意味で、『アナと雪の嬢王』はたぶんいい映画なんだろうと思う。


そして、姪っ子の読解力、コミュニケーション能力にも何の問題もない。むしろ素晴らしいものを持っている。

『アナと雪の女王』には何かしら素晴らしいものが秘められていると直観的に感じている。それだけでたぶん十分だろう。たぶん、これはいくつになっても大事なものだと思う。何でもかんでもわかった気になってしまうと、それ以上深く物語を読み解くことはできない。(姪っ子は「わかりやすかった」といっているけど、まぁ、それは「何もわからなかった」の裏返しなわけで。)

コミュニケーション能力についても、僕が「どうやった?」と聞いたから仕方なく答えただけで、むしろ僕の方に問題がある。それに、単純に「面白かった」とか「つまらなかった」と答えずに、何とか感想を“保留”しようとする試みが見られる。
自分の中でこの映画の位置を固定したくないという抵抗を感じる。
素晴らしい判断だと思う。




それに比べて僕の軽率な言動は何だろう、猛省している。

僕はいったい何を聞きたかったんだろう?

「面白かった」という答えを期待していたんだろうか?

それとも「『アナと雪の女王』はキリスト教とイスラム教を象徴している(適当)」とか言うよくわからない論説を期待していたんだろうか?




いずれにしても、僕の不用意な一言で、彼女の中で『アナと雪の女王』は“わかりやすい物語”という位置付けになってしまった。

それは、とても申し訳ないことだと思う。
だけど、でもたまたま今回は、彼女自身の力で“わかりやすい物語”程度ですんだ。



たぶん、普通なら単純に「面白い物語」とか「アナがかわいい物語」として固定されてしまうところだ。


だけど、さっきも言ったように、物語はそんなに単純じゃない。言葉で表現できないから僕らは物語る。(村上春樹も、「フィクションで真実をおびき出す」みたいなことを言っていた。たぶん、真実を語るには物語りが必要なんだと思う。)

それをお手軽に子どもから引き出そうなんてすることは、たぶん間違っている。

だから、僕らは子どもに語りかけるときは、とても注意を払わないといけない。(払いすぎて緊張するのもだめだけど)


映画に限らず、僕らはつい「どうやった?」と聞いてしまう。

絵本を読んだり、動物園に入ったり、保育園から帰ってきたり、いろんなシーンで。


たぶんそれは、僕らの満足のために聞いている。僕らが提供したサービスがよきものであったことを確認するために聞いている。(あるいは悪かったとき、次より良くするために。)


だけど、子どもたちのために、それらの体験の意味を“保留状態”にしてあげることも大事なんじゃないだろうか。

それは、“自分の感想を的確に表現する”みたいなことよりもっと大事なことなんじゃないだろうか。



※とはいうものの、映画を見たり、動物園に入ったり、特別なことをした後は何かしら語り合いたいもので、じゃあどういう話をするべきかは、僕も模索中です。とても難しい。
例えば動物園にいったなら、「なにを見た」だとか、そういう事実を提供してやって、自然に子どもの方から感想が出てくるのを待ったりしている。それがよい方法かどうかはわからないけど。