2015年2月14日土曜日

『ももたろう』の“誕生観”が好きだ

『ももたろう』の“誕生観”が好きだ。

ももたろう (日本傑作絵本シリーズ)
まつい ただし
福音館書店
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『ももたろう』では、桃(子ども)はあちら側からやってくる。

昔話の世界では、子どもの誕生に関して、人は常に受け身である。

決して、子どもを手に入れるために能動的に行動しない。

桃(子ども)がやってくるのは、山へ芝刈りに、川へ洗濯へ行っているときである。

日々の生活を真面目に送っているときに、子どもは向こうからやってくる。



子どもを手に入れるために行動を起こすのは、山姥や魔女、鬼や天狗の役割である。



僕らは科学が発達し、物事の因果関係がわかったつもりでいる。

子どもは親がつくるものだと考えがちだ。

親がつくるから、子どものことは親が責任を取るものと思う。

親が責任を取らねばならないから、子どもは親が管理するものと思う。

子どもを管理しようとすると、余計なことをさせないようにする。大人の枠にはめようとする。過保護になる。

そんな時、親は鬼になる。天狗になる。山姥になる。魔女になる。

鬼になるのはつらい。

親もつらいし、子どももつらい。


自分の中の鬼が出てきそうになったとき、僕は『ももたろう』を思い出す。



子どもは、親が作ったものではない。


子どもは、“あちら側”から“こちら側”へ「どんぶらこっこ どんぶらこっこ」とやってきたものだ。

たまたまなのか、何かの導きなのかはわからない。

とにかく、僕のところめがけてやってきた。

他の誰のところでもなく、僕を選んでやってきてくれた。

だから、管理だとか、責任だとか、 そういうことは抜きにして、僕のところにやってきてくれたことを感謝して、ただただ大事に育てるのみである。


子どもが鬼退治に出かけるその日まで。