予定していたカヌーに乗れませんでした。
キャンプが中止になるのが悲しくて、雨の中無理やり親に車を出してもらいましたが、雨がひどすぎて途中で引き返しました。
6月なのに台風なんて、自分の雨男ぶりを申し訳なく思いました。
パンツを履かない男の子がいると現れる。
手がカニのようなハサミになっていて、男の子の大事大事を”ちょっきん”と切り取ってしまう。
身長は30cmから50cmくらいで、手を伸ばすと、子供の腰に届くくらいの大きさ。
複数で行動することが多く、油断すると囲まれる。
動きは速く、子供の背後に素早く回り込むので、子供はその姿を見ることが難しい。
パンツを履いていない子供がいる場所を嗅ぎつける。
僅かな隙間でも部屋に入ってくるので、侵入を防ぐことはできない。
パンツを履いていれば、手出しはできないので、大事大事を切られたくなければ、”ちょっきん”される前にパンツを履くしかない。
なんか、こんな記事が目に飛び込んできて、とでも悲しい。
再生JALの心意気/さかもと未明(漫画家) (PHP Biz Online 衆知(Voice)) - Yahoo!ニュース
人間は誰でも、好きなときに好きなところに行く権利があると思う。
それは、子供であろうが、子持ちの親であろうが、爺さん婆さん、厨二病であろうが、誰でもです。
通勤ラッシュであろうが、飛行機でしか行けないところであろうが、関係ない。
好きなときに、好きなところに行けばいい。
快適だとか、迷惑とか、そういう次元の問題じゃない。
これは尊厳の問題だ。
子供の尊厳を守ることは、自分の尊厳を守ることだ。
子供の尊厳を守れない社会は、いつか自分の尊厳を奪うだろう。
だから、僕らは寛容にならないといけない。
たかだか、子供の泣き声くらい笑ってやり過ごしてやらなければならないと思う。
人生はお茶だ。
食後のお茶だ。
今日は茶柱が立つかもしれない、と期待しながらお茶を入れる。
ああ、今日も茶柱は立たなかったなと思いながら、しみじみお茶を飲む。
ほっと、一息つく。
ああ、茶柱は立たなくても、お茶は美味しいなぁ、と思う。
そして、僕は明日もお茶を入れる。
茶柱が立つことを期待して。
むかしむかし、あるところに非寛容な王国がありました。
非寛容な王国には、非寛容な王様がおりました。
非寛容な王様は、大臣を非寛容に扱いました。
大臣は、家来を非寛容に扱いました。
家来は、市民を非寛容に扱いました。
市民は奴隷を非寛容に扱いました。
奴隷は、作物を非寛容に扱いました。
そうして、非寛容な王国では、非寛容なパンを食べて暮らしていました。
おしまい。
世界は巨大なブラックボックスでできている。
僕が世界に向けてインプットしたものが、世界がどう処理をしてアウトプットしてくるのか、だれにもわからない。
わかるのは、「原因」と「結果」だけ。
だから、僕は注意深く誰かの入出力を観察する。
誰かのインプットをコピーして、世界に入力する。
そして誰かと同じアウトプットを得られると、僕は心から安心する。
「ああ、よかった。間違ってなかった」と。
だけど、僕は恐ろしい。
コピーしているつもりが、実は少し間違っているんじゃないか?
手順が違っているんじゃないか?
条件が違うんじゃないか?
バージョンは?
世界はブラックボックスだ。
些細な違いが命取りになる。
世界は僕がしくじるのを、じっと待っている。
僕がミスをすると、世界は僕をその真っ黒なブラックボックスに引きずり込んでしまうだろう。
暗く冷たい世界に閉じ込められ、永遠に出てこれなくだろう。
僕は、ますます用心深くなる。
世界へのインプットが減っていく。
世界からのアウトプットが減っていく。
そして僕はますます孤独になっていく。