2013年12月15日日曜日

【感想文】『グレート・ギャッツビー』(村上春樹訳)/ギャッツビーのグレートたる所以

『グレート・ギャッツビー』(村上春樹訳)を何年振りかで読んだ。


グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)
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前回読んだときは、全く面白くなかった。

というか、全然状況がイメージできてなかった。

その時は、あんまり読書慣れしていなかったのかもしれない。


今回は、とてもすんなり読めた。


頭の中にスーッとイメージが入ってきた。(年を取ったということか。)



読み終わって、まず『グレート・ギャッツビー』という名前について思いをはせました。



なぜギャッツビーは”グレート”なのか。



たしかにギャッツビーはすごい成金で豪華なパーティーばっかりやっててすごい。

そして、それらを、たった一人の女性を愛するというささやかな夢のために、あらゆる手を尽くして実現したという意味では恐ろしいほどの行動力がある。


だけど、その実情は”グレート”からほど遠い。


ナイーブだし、子どものような夢を抱えていたし、怪しげな商売に手を染めていたようだし。


それでも、この小説の語り手であるニックは、彼のことを”グレート”と言わざるを得ない切実さがあったのではないかと思う。


ニックは小説の中で次のように言っている。

"なぜなら彼に少しなりとも関心を抱いている人間は、僕のほかにはいなかったからだ。ここで言う「関心」とは、人はたとえ誰であれ、その人生の末期において誰かから親身な関心を寄せられてしかるべきだという意味合いにおいての関心のことである。明言されておらずとも、それ人たるものの固有の権利ではあるまいか。"

ニックは、自分のことを「ギャッツビーのただ一人の理解者」としの自負があり、それを義務だと思い、使命だと思っている。


だからこそ、ニックはギャッツビーのことを「グレート!」と呼ばずにはいられなかったのではないか。


そして、ギャッツビーが抱いていた夢、彼が演じていた”ギャッツビーという幻想”を、ニックはただ一人受け入れようとしたのではないか。

その”グレートなギャッツビー”というイマジネーションを、ギャッツビーと共有したのではないか。


この本のタイトルにはそいう「切実さ」があると思う。



読み終わった後、再びタイトルに目をやって、そういう思いが駆け巡って余計に切なくなりました。




話は飛ぶけど、『グレート・ギャッツビー』は村上春樹の小説と共通点が多いと思う。



”ギャッツビー”は村上春樹のいうところの、キザキであり、直子であり、鼠であり、佐伯さんであり、シロであると思う。


彼らは、子どもの純粋性・完全性・完結性をもっている、あるいは捨てられずにいる。

そして大人になり切れず、社会とうまく関わりが持てず、悲劇に見舞われる。


社会と言う巨大なシステムが彼らを死に追いやる。


(ここで言うシステムは、村上春樹のエルサレムでのスピーチで語られている「システム」のこと)



主人公たちは、愛すべき彼らと決別し、弔い、それでも生きていく。

システムに立ち向かう。



彼らとの決別は、自分自身の子どもの部分(純粋性やら完全性)との決別でもあると思う。


だから、痛い。自分自身が引き裂かれるような思いがする。


しかし、そうすることでしか我々は大人になれない。


そういう気がします。





最後に、訳者あとがきを読んで、ニックがギャッツビーのただ一人の理解者として「グレート!」と言ったように、村上春樹も「『グレート・ギャッツビー』を本当に理解しているのは俺だ!」と言う思いがあるように感じます。


もちろん、それが事実がどうかは別として、本との出会いは多かれ少なかれそういう部分があると思います。


「この本を本当に理解しているのは俺だけだ!」という思いを抱かせてくれるのはいい本です。

2013年12月14日土曜日

「いってきます」「いってらっしゃい」

今朝

「いってきます」

といったら、次男(2才)が

「いってらっしゃい」

といった。


おや、と思った。


「おはよう」にたいして「おはよう」とか、「おやすみ」に対して「おやすみ」と答えるのは割と簡単だ。


おうむ返しだから。


「いってきます」に対して「いってらっしゃい」とか、「おかえり」「ただいま」は、なかなか高度なコミュニケーションだ。




この間まで、「いってきます」といっても、「いってきます」と返されていたけど、今朝はちゃんと「いってらっしゃい」と言った。

インプットに対して、彼の中で何らかの処理をして別の形でアウトプットしたということだ。


ささやかだけど、大きな一歩だ。


2013年12月10日火曜日

荒野の笛

"閣下がインディアンを見ることができたというのは、本当はインディアンがいないってことです" ―村上春樹 『めくらやなぎと眠る女』より

荒野の向こう側からは、リズミカルな太鼓の音と、男たちのけたたましい叫び声が聞こえる。

彼らは猛禽類の羽を頭にいっぱいにつけている。

ここからではよく見えないが、顔には何か塗料のようなものを付けているらしい。


彼らと我々の間には、ハゲワシが気だるそうに我々と、向こう側の男たちを交互に眺めている。

ときどき思い出したように、足元の死体をついばんでいる。



先日、この場所で我々の偵察隊と蛮族との戦闘が繰り広げられた。


いや、それは戦闘と呼べるものではなかっただろう。


蛮族による一方的な殺戮だった。


如何に我々が銃を手にしていようとも、数十人に対して数百人の人間に一度に襲われればひとたまりもない。



我々の同志は、あっという間に蛮族に取り囲まれ、命を落とした。



それが、数日前の出来事だ。


我々は今、彼らの無念を晴らすため、また、蛮族どもを一掃してこの地を開拓するために召集された。

この荒れ果てた荒野に文明の光を送り込み、世界をより発展させるために我々はここにいる。




向こう側には数千の蛮族がいるだろうか。


我々の側にも似たような数だ。


だが、蛮族どもの武器は所詮は槍や斧だ。


我々の銃火器の前では何の役にも立たないだろう。


今度の戦いは我々の一方的な殺戮になるだろう。


だけどそれは仕方のないことだ。それが文明と言うものなのだ。


これから数年もすれば、彼ら蛮族の生き残りたちも、我々の文明の光を浴び、その恩恵にあずかることだろう。


これまでのような暗くジメジメした洞窟にすむこともなくなるだろう。


病気や飢えに苦しむこともなくなるだろう。

この戦いはそのための通過点なんだ。



私もこの戦いが終わったら、故郷から母親を呼ぼうと思う。


ここの地で牧場を開いて新しい生活を始めよう。


私は母親のことを思い出す。

飼っていた犬のことを思い出す。

近所に住んでいた幼馴染のことを思い出す。


彼女の歌声を思い出す。


どこかで笛の音が聞こえる。


笛?


おかしいな。どうして笛なんだろう。


これまでの人生の中で、笛なんてものが何か重要な要素として登場してきただろうか?


思い出せない。


空耳だろうか?


笛についてひとしきり考えをめぐらしているとき、今度は地響きのようなものが聞こえてきて我に返った。


けたたましい叫び声とともに蛮族がこちらに向かって一斉に走ってきのだ。


私は銃を握り直す。



大丈夫、こちらには銃器がある。


所詮相手の武器は槍や斧だ。


こちらの方が圧倒的に有利だ。


十分にひきつけたから引き金を引くんだ。


焦ってはいけない。


焦って、目標がまだ遠いうちに発射してしまうと、弾を外してしまったり、当たったとしても致命傷にならない。

しかし、頭でわかっていても数千の蛮族が恐ろしい形相でこちらに向かってくるの見ると、恐怖でのどがカラカラになった。

蛮族はもう目の前まで来ている、もうこれ以上は待てないと思ったとき、司令官が「撃て!」と叫んだ。


私は引き金を引いた。


先頭の蛮族たちは数十メートル先で一瞬宙に浮いた。

そしてそのままあおむけに倒れた。


私は急いで2つ目の銃弾を詰め、銃を構えた。


そのとき、ヒュッという音が耳のすぐそばでしたかと思うと、後ろ側でゴンと鈍い音がした。


思わず振り返ると、後ろにいた同志があおむけに転がっていた。


その顔は血だらけでつぶれており、口だけがぽかんと開いていた。


顔の横には真っ赤になったソフトボールぐらいの大きさの石が転がっていた。


私は恐怖のあまり固まってしまった。


動けない。



「前を見ろ!」と誰かが叫んだ。


私は、ハッと蛮族が来る方に向き直ると、目の前に蛮族が斧を振り上げていた。


私は手もとの銃の引き金を夢中で引いた。


蛮族は私の方に倒れこみ、私はそのまま押し倒されるような形であおむけに倒れた。

私は必死に蛮族から逃れ立ち上がった。


蛮族は、そのまま息絶えた。


周りを見渡せば、ところどころで接近戦が繰り広げられている様だった。

最初の目論見とは違い、我々の方にも少なからず犠牲者が出ただろう。

しかし、あらかたの蛮族は我々の陣営の数十メートル先の地点で銃弾に倒れていた。


残りの蛮族を片付けるのも時間の問題だった。



我々は勝利したのだ。



そして私は生き延びた。



****


 
戦闘が終結して数時間がったった。


月明かりにがかつて戦場だった場所を照らす。




そこにひと一人の男がたっていた。



彼は動物の革でできた大きな袋を引きずっている。



彼は、死体の前にしゃがみ込んで、その口の中に手を突っ込む。


その手をもぞもぞと動かしたあと、ゆっくり引き抜くとゴルフボールくらいの大きさの丸く白い塊を取り出す。


そしして、大きな袋の中に入れる。


彼は荒野に転がる死体一つ一つから、同じように白い塊を取り出す。


「これだけたくさんあれば」

と彼は思う。


「これだけたくさんの魂があれば、とても強力な笛が出来上がる」


彼は、魂から笛を作る。


彼が作る笛は、人の心を操る。


彼は人の心を操って、人々に殺し合いをさせる。


そして、その魂を集めてさらに強い力の笛を作る。



彼は、蛮族が荒野を支配する何万年も前から笛を作ってきた。


そしてその笛をつくって魂を集めてまた笛を作った。



そしてこれからも笛を作り続ける。

2013年12月9日月曜日

『ジングルベル』の歌詞について

クリスマスの定番ソングの『ジングルベル』って、改めて歌詞を見てみると「クリスマス」って言葉が全然出てこないんですね。


僕はてっきり


”ジングルベル ジングルベル 鈴が鳴る 今日は楽しいクリスマス HEY!"


だと思っていたんですけど、この歌詞はどこから出てきたんでしょうか?

2013年12月6日金曜日

【感想文】『おまえさん』/人間の二面性

宮部みゆきの『おまえさん』読んだ。


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江戸の同心、井筒平四郎を主人公にしたシリーズ。『ぼんくら』『日暮し』に続く第三弾。

宮部みゆきはやっぱり面白い。

僕はあんまりサスペンスとか、ミステリーが好きなほうではないけど、宮部みゆきは好きだ。



宮部みゆきの小説は、一応サスペンス的な物語なんだけど、なんというか、トリックとか、種明かしとかそういうところに重心を置いてないのがいい。




なんというか、あくまでも事件は氷山の一角で、その下に潜んでいる社会問題とか人間関係とか、人間の心理だとか、そういうものをしっかり描いているような気がする。




僕の中で本当に面白い小説(映画も可)の定義は次のようなものだ。


”本当に面白い小説(映画)は、オチがわかっていても面白い”


宮部みゆきのサスペンスは、人間を描くための方便みたいなものだから、たとえ犯人がわかっていても、読んで面白い。

むしろ、変なハラハラドキドキ感がない分、二回目の方が描かれている人間についてじっくり考えながら読めるかもしれない。




で、今回読んだ『おまえさん』について。

この物語では、人物の二面性(あるいは多面性)と言うものが、重要なテーマであると思う。


最初、とてもいいやつだと思っていた人が、あるときとても嫌なやつに見えたりする。

逆に、嫌なやつだと思っていた人が、あるタイミングではとてもかっこよかったりする。


とくに、人物が「変貌」するわけでもないのに、ちょっとした見方の違いで、がらりとその人物の印象が変わってしまう。

そういう描写がとても面白い。


考えさせられる。


強さと弱さ、優しさと卑劣さ、正義と悪、そういったものがちょっとした拍子にがらりと入れ替わってしまう。

いや、おなじ現象を別の角度から見ると、まったく逆に見えてしまう。


だから、僕らはモノを見るときにはとても注意しないといけない。

また、ちょっとした拍子に自分でも気づかないうちにまったく正反対の方向へ転げ落ちてしまうかもしれない。

そうならないように、気を付けないといけない。


そういうことだと思います。たぶん。




『ぼんくら』シリーズはキャラクターがとてもいい。どのキャラクターもイキイキ描かれていて、とても楽しい。


まだ、続編出るかな?


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2013年12月4日水曜日

【感想文】『吾輩は猫である』/漱石の万華鏡世界

久しぶりに、『吾輩は猫である』を読んだ。

何年か前に読んだ時とは違う印象だったので、その辺を書いておく。


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だいぶ前に読んだときは、猫の(つまり漱石の)社会を見る目ってすごいなぁと思った。

世界を鋭く見る目と言うか、そういうところにすごく感心してしまった。



で、このたび、久々に『吾輩は猫である』を読んだ。


やっぱり、漱石の批評眼には相変わらず驚かされるし、今にも通じる社会問題を当時から鋭く見抜いていたのは感服のいたりです。



だけど、今回は、前には気付かなかったことの気付いた。



この物語は、確かに社会を風刺している物語であるけど、漱石が一番批判しているのは”漱石自身”である、という点だと思う。


苦沙弥先生は漱石がモデルだ。だから、苦沙弥先生を批判することは漱石を批判することになる。

これはすぐにわかる。


僕が今回気付いたのは、その先。



この小説で、猫はその主人の性格を反映している。

いわば猫は飼い主の分身だ。一心同体と言ってもいいかもしれない。


車屋の黒は車屋の、三毛子はお師匠さんの性格を反映している。


だから、苦沙弥先生の猫(名前がないから猫としか言えない)は苦沙弥先生の性格を反映している。


猫が苦沙弥先生に言葉を投げる。しかし、その言葉はブーメランのようにそのまま猫に帰ってくる。


なぜなら、苦沙弥先生は猫の分身でもあるから。



そして、苦沙弥先生は漱石がモデルである。

さらに、語り手である猫は書き手である漱石の代弁者である。


だから、漱石が猫に投げさせた言葉のブーメランは、苦沙弥先生を引き裂き、戻ってきて猫も切り裂き、漱石自身に突き刺さる。

たぶん、漱石はそれを結構意識的にしていると思う。

猫がウダウダいっているところを人前にさらすことで、自分がウダウダいう性格であることを自虐しているんだと思う。

ドMである。



漱石の真にすごいところは、自分を批判的に見るところだ。


これだけ自分のことがわかっていながら、なぜ苦沙弥先生はダメダメなのか不思議に思うくらいだ。


自身をモデルにしている『草枕』の主人公も、奥さんに偉いひどいこと言う。こんだけ自分のことわかっているならもっと優しくなればいいのに、、、と思う。



でも、たぶん、そういう自虐的なところが面白い。愛嬌がある。


苦沙弥先生が内輪では偉そうにウダウダ言いながら、行動に出るといつも失敗する。


同じように猫もうだうだ頭で考えながら行動に出るとやっぱり失敗する。


そういうところに、愛嬌がある。


猫があまりにも立派なことを言うので、ついつい「ふんふん、猫すげえなぁ」と思ってしまうけど、本当は「うだうだ言ってんじゃねえよw」とくすくす笑いながら読むものなんだと思う。


たぶん。。。。




こんなこと考えていたら、ふと頭に万華鏡が思い浮かんだ。


世界は万華鏡だと思う。


漱石と、猫と、苦沙弥先生。


この2人と1匹が鏡になり三角形を作る。


そのなかに、迷亭君や寒月君やらいろんな人が転がり込んで、にぎやかで多彩な万華鏡世界が生まれる。

実に楽しい。

それと同時に、一人の人間の視野の限界も感じる。


所詮、人間は「観測者」としての肉体を離れるわけにはいかない。自分が見ることができるのは自分の万華鏡の中身だけなのかもしれない。


だけど、自分が今見ているのが「万華鏡の中なんだ」と意識できるかできないかは大きな違いだと思う。




たぶん。(まとまらない)