スコット フィッツジェラルド
中央公論新社
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前回読んだときは、全く面白くなかった。
というか、全然状況がイメージできてなかった。
その時は、あんまり読書慣れしていなかったのかもしれない。
今回は、とてもすんなり読めた。
頭の中にスーッとイメージが入ってきた。(年を取ったということか。)
読み終わって、まず『グレート・ギャッツビー』という名前について思いをはせました。
なぜギャッツビーは”グレート”なのか。
たしかにギャッツビーはすごい成金で豪華なパーティーばっかりやっててすごい。
そして、それらを、たった一人の女性を愛するというささやかな夢のために、あらゆる手を尽くして実現したという意味では恐ろしいほどの行動力がある。
だけど、その実情は”グレート”からほど遠い。
ナイーブだし、子どものような夢を抱えていたし、怪しげな商売に手を染めていたようだし。
それでも、この小説の語り手であるニックは、彼のことを”グレート”と言わざるを得ない切実さがあったのではないかと思う。
ニックは小説の中で次のように言っている。
ニックは、自分のことを「ギャッツビーのただ一人の理解者」としの自負があり、それを義務だと思い、使命だと思っている。
だからこそ、ニックはギャッツビーのことを「グレート!」と呼ばずにはいられなかったのではないか。
そして、ギャッツビーが抱いていた夢、彼が演じていた”ギャッツビーという幻想”を、ニックはただ一人受け入れようとしたのではないか。
その”グレートなギャッツビー”というイマジネーションを、ギャッツビーと共有したのではないか。
この本のタイトルにはそいう「切実さ」があると思う。
読み終わった後、再びタイトルに目をやって、そういう思いが駆け巡って余計に切なくなりました。
話は飛ぶけど、『グレート・ギャッツビー』は村上春樹の小説と共通点が多いと思う。
”ギャッツビー”は村上春樹のいうところの、キザキであり、直子であり、鼠であり、佐伯さんであり、シロであると思う。
彼らは、子どもの純粋性・完全性・完結性をもっている、あるいは捨てられずにいる。
そして大人になり切れず、社会とうまく関わりが持てず、悲劇に見舞われる。
社会と言う巨大なシステムが彼らを死に追いやる。
(ここで言うシステムは、村上春樹のエルサレムでのスピーチで語られている「システム」のこと)
主人公たちは、愛すべき彼らと決別し、弔い、それでも生きていく。
システムに立ち向かう。
彼らとの決別は、自分自身の子どもの部分(純粋性やら完全性)との決別でもあると思う。
だから、痛い。自分自身が引き裂かれるような思いがする。
しかし、そうすることでしか我々は大人になれない。
そういう気がします。
最後に、訳者あとがきを読んで、ニックがギャッツビーのただ一人の理解者として「グレート!」と言ったように、村上春樹も「『グレート・ギャッツビー』を本当に理解しているのは俺だ!」と言う思いがあるように感じます。
もちろん、それが事実がどうかは別として、本との出会いは多かれ少なかれそういう部分があると思います。
「この本を本当に理解しているのは俺だけだ!」という思いを抱かせてくれるのはいい本です。
なぜギャッツビーは”グレート”なのか。
たしかにギャッツビーはすごい成金で豪華なパーティーばっかりやっててすごい。
そして、それらを、たった一人の女性を愛するというささやかな夢のために、あらゆる手を尽くして実現したという意味では恐ろしいほどの行動力がある。
だけど、その実情は”グレート”からほど遠い。
ナイーブだし、子どものような夢を抱えていたし、怪しげな商売に手を染めていたようだし。
それでも、この小説の語り手であるニックは、彼のことを”グレート”と言わざるを得ない切実さがあったのではないかと思う。
ニックは小説の中で次のように言っている。
"なぜなら彼に少しなりとも関心を抱いている人間は、僕のほかにはいなかったからだ。ここで言う「関心」とは、人はたとえ誰であれ、その人生の末期において誰かから親身な関心を寄せられてしかるべきだという意味合いにおいての関心のことである。明言されておらずとも、それ人たるものの固有の権利ではあるまいか。"
ニックは、自分のことを「ギャッツビーのただ一人の理解者」としの自負があり、それを義務だと思い、使命だと思っている。
だからこそ、ニックはギャッツビーのことを「グレート!」と呼ばずにはいられなかったのではないか。
そして、ギャッツビーが抱いていた夢、彼が演じていた”ギャッツビーという幻想”を、ニックはただ一人受け入れようとしたのではないか。
その”グレートなギャッツビー”というイマジネーションを、ギャッツビーと共有したのではないか。
この本のタイトルにはそいう「切実さ」があると思う。
読み終わった後、再びタイトルに目をやって、そういう思いが駆け巡って余計に切なくなりました。
話は飛ぶけど、『グレート・ギャッツビー』は村上春樹の小説と共通点が多いと思う。
”ギャッツビー”は村上春樹のいうところの、キザキであり、直子であり、鼠であり、佐伯さんであり、シロであると思う。
彼らは、子どもの純粋性・完全性・完結性をもっている、あるいは捨てられずにいる。
そして大人になり切れず、社会とうまく関わりが持てず、悲劇に見舞われる。
社会と言う巨大なシステムが彼らを死に追いやる。
(ここで言うシステムは、村上春樹のエルサレムでのスピーチで語られている「システム」のこと)
主人公たちは、愛すべき彼らと決別し、弔い、それでも生きていく。
システムに立ち向かう。
彼らとの決別は、自分自身の子どもの部分(純粋性やら完全性)との決別でもあると思う。
だから、痛い。自分自身が引き裂かれるような思いがする。
しかし、そうすることでしか我々は大人になれない。
そういう気がします。
最後に、訳者あとがきを読んで、ニックがギャッツビーのただ一人の理解者として「グレート!」と言ったように、村上春樹も「『グレート・ギャッツビー』を本当に理解しているのは俺だ!」と言う思いがあるように感じます。
もちろん、それが事実がどうかは別として、本との出会いは多かれ少なかれそういう部分があると思います。
「この本を本当に理解しているのは俺だけだ!」という思いを抱かせてくれるのはいい本です。