2013年12月15日日曜日

【感想文】『グレート・ギャッツビー』(村上春樹訳)/ギャッツビーのグレートたる所以

『グレート・ギャッツビー』(村上春樹訳)を何年振りかで読んだ。


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前回読んだときは、全く面白くなかった。

というか、全然状況がイメージできてなかった。

その時は、あんまり読書慣れしていなかったのかもしれない。


今回は、とてもすんなり読めた。


頭の中にスーッとイメージが入ってきた。(年を取ったということか。)



読み終わって、まず『グレート・ギャッツビー』という名前について思いをはせました。



なぜギャッツビーは”グレート”なのか。



たしかにギャッツビーはすごい成金で豪華なパーティーばっかりやっててすごい。

そして、それらを、たった一人の女性を愛するというささやかな夢のために、あらゆる手を尽くして実現したという意味では恐ろしいほどの行動力がある。


だけど、その実情は”グレート”からほど遠い。


ナイーブだし、子どものような夢を抱えていたし、怪しげな商売に手を染めていたようだし。


それでも、この小説の語り手であるニックは、彼のことを”グレート”と言わざるを得ない切実さがあったのではないかと思う。


ニックは小説の中で次のように言っている。

"なぜなら彼に少しなりとも関心を抱いている人間は、僕のほかにはいなかったからだ。ここで言う「関心」とは、人はたとえ誰であれ、その人生の末期において誰かから親身な関心を寄せられてしかるべきだという意味合いにおいての関心のことである。明言されておらずとも、それ人たるものの固有の権利ではあるまいか。"

ニックは、自分のことを「ギャッツビーのただ一人の理解者」としの自負があり、それを義務だと思い、使命だと思っている。


だからこそ、ニックはギャッツビーのことを「グレート!」と呼ばずにはいられなかったのではないか。


そして、ギャッツビーが抱いていた夢、彼が演じていた”ギャッツビーという幻想”を、ニックはただ一人受け入れようとしたのではないか。

その”グレートなギャッツビー”というイマジネーションを、ギャッツビーと共有したのではないか。


この本のタイトルにはそいう「切実さ」があると思う。



読み終わった後、再びタイトルに目をやって、そういう思いが駆け巡って余計に切なくなりました。




話は飛ぶけど、『グレート・ギャッツビー』は村上春樹の小説と共通点が多いと思う。



”ギャッツビー”は村上春樹のいうところの、キザキであり、直子であり、鼠であり、佐伯さんであり、シロであると思う。


彼らは、子どもの純粋性・完全性・完結性をもっている、あるいは捨てられずにいる。

そして大人になり切れず、社会とうまく関わりが持てず、悲劇に見舞われる。


社会と言う巨大なシステムが彼らを死に追いやる。


(ここで言うシステムは、村上春樹のエルサレムでのスピーチで語られている「システム」のこと)



主人公たちは、愛すべき彼らと決別し、弔い、それでも生きていく。

システムに立ち向かう。



彼らとの決別は、自分自身の子どもの部分(純粋性やら完全性)との決別でもあると思う。


だから、痛い。自分自身が引き裂かれるような思いがする。


しかし、そうすることでしか我々は大人になれない。


そういう気がします。





最後に、訳者あとがきを読んで、ニックがギャッツビーのただ一人の理解者として「グレート!」と言ったように、村上春樹も「『グレート・ギャッツビー』を本当に理解しているのは俺だ!」と言う思いがあるように感じます。


もちろん、それが事実がどうかは別として、本との出会いは多かれ少なかれそういう部分があると思います。


「この本を本当に理解しているのは俺だけだ!」という思いを抱かせてくれるのはいい本です。

2013年12月14日土曜日

「いってきます」「いってらっしゃい」

今朝

「いってきます」

といったら、次男(2才)が

「いってらっしゃい」

といった。


おや、と思った。


「おはよう」にたいして「おはよう」とか、「おやすみ」に対して「おやすみ」と答えるのは割と簡単だ。


おうむ返しだから。


「いってきます」に対して「いってらっしゃい」とか、「おかえり」「ただいま」は、なかなか高度なコミュニケーションだ。




この間まで、「いってきます」といっても、「いってきます」と返されていたけど、今朝はちゃんと「いってらっしゃい」と言った。

インプットに対して、彼の中で何らかの処理をして別の形でアウトプットしたということだ。


ささやかだけど、大きな一歩だ。


2013年12月10日火曜日

荒野の笛

"閣下がインディアンを見ることができたというのは、本当はインディアンがいないってことです" ―村上春樹 『めくらやなぎと眠る女』より

荒野の向こう側からは、リズミカルな太鼓の音と、男たちのけたたましい叫び声が聞こえる。

彼らは猛禽類の羽を頭にいっぱいにつけている。

ここからではよく見えないが、顔には何か塗料のようなものを付けているらしい。


彼らと我々の間には、ハゲワシが気だるそうに我々と、向こう側の男たちを交互に眺めている。

ときどき思い出したように、足元の死体をついばんでいる。



先日、この場所で我々の偵察隊と蛮族との戦闘が繰り広げられた。


いや、それは戦闘と呼べるものではなかっただろう。


蛮族による一方的な殺戮だった。


如何に我々が銃を手にしていようとも、数十人に対して数百人の人間に一度に襲われればひとたまりもない。



我々の同志は、あっという間に蛮族に取り囲まれ、命を落とした。



それが、数日前の出来事だ。


我々は今、彼らの無念を晴らすため、また、蛮族どもを一掃してこの地を開拓するために召集された。

この荒れ果てた荒野に文明の光を送り込み、世界をより発展させるために我々はここにいる。




向こう側には数千の蛮族がいるだろうか。


我々の側にも似たような数だ。


だが、蛮族どもの武器は所詮は槍や斧だ。


我々の銃火器の前では何の役にも立たないだろう。


今度の戦いは我々の一方的な殺戮になるだろう。


だけどそれは仕方のないことだ。それが文明と言うものなのだ。


これから数年もすれば、彼ら蛮族の生き残りたちも、我々の文明の光を浴び、その恩恵にあずかることだろう。


これまでのような暗くジメジメした洞窟にすむこともなくなるだろう。


病気や飢えに苦しむこともなくなるだろう。

この戦いはそのための通過点なんだ。



私もこの戦いが終わったら、故郷から母親を呼ぼうと思う。


ここの地で牧場を開いて新しい生活を始めよう。


私は母親のことを思い出す。

飼っていた犬のことを思い出す。

近所に住んでいた幼馴染のことを思い出す。


彼女の歌声を思い出す。


どこかで笛の音が聞こえる。


笛?


おかしいな。どうして笛なんだろう。


これまでの人生の中で、笛なんてものが何か重要な要素として登場してきただろうか?


思い出せない。


空耳だろうか?


笛についてひとしきり考えをめぐらしているとき、今度は地響きのようなものが聞こえてきて我に返った。


けたたましい叫び声とともに蛮族がこちらに向かって一斉に走ってきのだ。


私は銃を握り直す。



大丈夫、こちらには銃器がある。


所詮相手の武器は槍や斧だ。


こちらの方が圧倒的に有利だ。


十分にひきつけたから引き金を引くんだ。


焦ってはいけない。


焦って、目標がまだ遠いうちに発射してしまうと、弾を外してしまったり、当たったとしても致命傷にならない。

しかし、頭でわかっていても数千の蛮族が恐ろしい形相でこちらに向かってくるの見ると、恐怖でのどがカラカラになった。

蛮族はもう目の前まで来ている、もうこれ以上は待てないと思ったとき、司令官が「撃て!」と叫んだ。


私は引き金を引いた。


先頭の蛮族たちは数十メートル先で一瞬宙に浮いた。

そしてそのままあおむけに倒れた。


私は急いで2つ目の銃弾を詰め、銃を構えた。


そのとき、ヒュッという音が耳のすぐそばでしたかと思うと、後ろ側でゴンと鈍い音がした。


思わず振り返ると、後ろにいた同志があおむけに転がっていた。


その顔は血だらけでつぶれており、口だけがぽかんと開いていた。


顔の横には真っ赤になったソフトボールぐらいの大きさの石が転がっていた。


私は恐怖のあまり固まってしまった。


動けない。



「前を見ろ!」と誰かが叫んだ。


私は、ハッと蛮族が来る方に向き直ると、目の前に蛮族が斧を振り上げていた。


私は手もとの銃の引き金を夢中で引いた。


蛮族は私の方に倒れこみ、私はそのまま押し倒されるような形であおむけに倒れた。

私は必死に蛮族から逃れ立ち上がった。


蛮族は、そのまま息絶えた。


周りを見渡せば、ところどころで接近戦が繰り広げられている様だった。

最初の目論見とは違い、我々の方にも少なからず犠牲者が出ただろう。

しかし、あらかたの蛮族は我々の陣営の数十メートル先の地点で銃弾に倒れていた。


残りの蛮族を片付けるのも時間の問題だった。



我々は勝利したのだ。



そして私は生き延びた。



****


 
戦闘が終結して数時間がったった。


月明かりにがかつて戦場だった場所を照らす。




そこにひと一人の男がたっていた。



彼は動物の革でできた大きな袋を引きずっている。



彼は、死体の前にしゃがみ込んで、その口の中に手を突っ込む。


その手をもぞもぞと動かしたあと、ゆっくり引き抜くとゴルフボールくらいの大きさの丸く白い塊を取り出す。


そしして、大きな袋の中に入れる。


彼は荒野に転がる死体一つ一つから、同じように白い塊を取り出す。


「これだけたくさんあれば」

と彼は思う。


「これだけたくさんの魂があれば、とても強力な笛が出来上がる」


彼は、魂から笛を作る。


彼が作る笛は、人の心を操る。


彼は人の心を操って、人々に殺し合いをさせる。


そして、その魂を集めてさらに強い力の笛を作る。



彼は、蛮族が荒野を支配する何万年も前から笛を作ってきた。


そしてその笛をつくって魂を集めてまた笛を作った。



そしてこれからも笛を作り続ける。

2013年12月9日月曜日

『ジングルベル』の歌詞について

クリスマスの定番ソングの『ジングルベル』って、改めて歌詞を見てみると「クリスマス」って言葉が全然出てこないんですね。


僕はてっきり


”ジングルベル ジングルベル 鈴が鳴る 今日は楽しいクリスマス HEY!"


だと思っていたんですけど、この歌詞はどこから出てきたんでしょうか?

2013年12月6日金曜日

【感想文】『おまえさん』/人間の二面性

宮部みゆきの『おまえさん』読んだ。


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江戸の同心、井筒平四郎を主人公にしたシリーズ。『ぼんくら』『日暮し』に続く第三弾。

宮部みゆきはやっぱり面白い。

僕はあんまりサスペンスとか、ミステリーが好きなほうではないけど、宮部みゆきは好きだ。



宮部みゆきの小説は、一応サスペンス的な物語なんだけど、なんというか、トリックとか、種明かしとかそういうところに重心を置いてないのがいい。




なんというか、あくまでも事件は氷山の一角で、その下に潜んでいる社会問題とか人間関係とか、人間の心理だとか、そういうものをしっかり描いているような気がする。




僕の中で本当に面白い小説(映画も可)の定義は次のようなものだ。


”本当に面白い小説(映画)は、オチがわかっていても面白い”


宮部みゆきのサスペンスは、人間を描くための方便みたいなものだから、たとえ犯人がわかっていても、読んで面白い。

むしろ、変なハラハラドキドキ感がない分、二回目の方が描かれている人間についてじっくり考えながら読めるかもしれない。




で、今回読んだ『おまえさん』について。

この物語では、人物の二面性(あるいは多面性)と言うものが、重要なテーマであると思う。


最初、とてもいいやつだと思っていた人が、あるときとても嫌なやつに見えたりする。

逆に、嫌なやつだと思っていた人が、あるタイミングではとてもかっこよかったりする。


とくに、人物が「変貌」するわけでもないのに、ちょっとした見方の違いで、がらりとその人物の印象が変わってしまう。

そういう描写がとても面白い。


考えさせられる。


強さと弱さ、優しさと卑劣さ、正義と悪、そういったものがちょっとした拍子にがらりと入れ替わってしまう。

いや、おなじ現象を別の角度から見ると、まったく逆に見えてしまう。


だから、僕らはモノを見るときにはとても注意しないといけない。

また、ちょっとした拍子に自分でも気づかないうちにまったく正反対の方向へ転げ落ちてしまうかもしれない。

そうならないように、気を付けないといけない。


そういうことだと思います。たぶん。




『ぼんくら』シリーズはキャラクターがとてもいい。どのキャラクターもイキイキ描かれていて、とても楽しい。


まだ、続編出るかな?


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2013年12月4日水曜日

【感想文】『吾輩は猫である』/漱石の万華鏡世界

久しぶりに、『吾輩は猫である』を読んだ。

何年か前に読んだ時とは違う印象だったので、その辺を書いておく。


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だいぶ前に読んだときは、猫の(つまり漱石の)社会を見る目ってすごいなぁと思った。

世界を鋭く見る目と言うか、そういうところにすごく感心してしまった。



で、このたび、久々に『吾輩は猫である』を読んだ。


やっぱり、漱石の批評眼には相変わらず驚かされるし、今にも通じる社会問題を当時から鋭く見抜いていたのは感服のいたりです。



だけど、今回は、前には気付かなかったことの気付いた。



この物語は、確かに社会を風刺している物語であるけど、漱石が一番批判しているのは”漱石自身”である、という点だと思う。


苦沙弥先生は漱石がモデルだ。だから、苦沙弥先生を批判することは漱石を批判することになる。

これはすぐにわかる。


僕が今回気付いたのは、その先。



この小説で、猫はその主人の性格を反映している。

いわば猫は飼い主の分身だ。一心同体と言ってもいいかもしれない。


車屋の黒は車屋の、三毛子はお師匠さんの性格を反映している。


だから、苦沙弥先生の猫(名前がないから猫としか言えない)は苦沙弥先生の性格を反映している。


猫が苦沙弥先生に言葉を投げる。しかし、その言葉はブーメランのようにそのまま猫に帰ってくる。


なぜなら、苦沙弥先生は猫の分身でもあるから。



そして、苦沙弥先生は漱石がモデルである。

さらに、語り手である猫は書き手である漱石の代弁者である。


だから、漱石が猫に投げさせた言葉のブーメランは、苦沙弥先生を引き裂き、戻ってきて猫も切り裂き、漱石自身に突き刺さる。

たぶん、漱石はそれを結構意識的にしていると思う。

猫がウダウダいっているところを人前にさらすことで、自分がウダウダいう性格であることを自虐しているんだと思う。

ドMである。



漱石の真にすごいところは、自分を批判的に見るところだ。


これだけ自分のことがわかっていながら、なぜ苦沙弥先生はダメダメなのか不思議に思うくらいだ。


自身をモデルにしている『草枕』の主人公も、奥さんに偉いひどいこと言う。こんだけ自分のことわかっているならもっと優しくなればいいのに、、、と思う。



でも、たぶん、そういう自虐的なところが面白い。愛嬌がある。


苦沙弥先生が内輪では偉そうにウダウダ言いながら、行動に出るといつも失敗する。


同じように猫もうだうだ頭で考えながら行動に出るとやっぱり失敗する。


そういうところに、愛嬌がある。


猫があまりにも立派なことを言うので、ついつい「ふんふん、猫すげえなぁ」と思ってしまうけど、本当は「うだうだ言ってんじゃねえよw」とくすくす笑いながら読むものなんだと思う。


たぶん。。。。




こんなこと考えていたら、ふと頭に万華鏡が思い浮かんだ。


世界は万華鏡だと思う。


漱石と、猫と、苦沙弥先生。


この2人と1匹が鏡になり三角形を作る。


そのなかに、迷亭君や寒月君やらいろんな人が転がり込んで、にぎやかで多彩な万華鏡世界が生まれる。

実に楽しい。

それと同時に、一人の人間の視野の限界も感じる。


所詮、人間は「観測者」としての肉体を離れるわけにはいかない。自分が見ることができるのは自分の万華鏡の中身だけなのかもしれない。


だけど、自分が今見ているのが「万華鏡の中なんだ」と意識できるかできないかは大きな違いだと思う。




たぶん。(まとまらない)

2013年11月25日月曜日

【絵本】『りんごかもしれない』/世界がブワwって広がる

"あるひ がっこうから かえってくると・・・・・ テーブルの上にリンゴが置いてあった。・・・・・でも・・・・もしかしたら これは リンゴじゃないかもしれない"

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ブロンズ新社から最近出た絵本。facebookで宣伝していた。


やばい。ktkr。


おもしろい。


何気ない日常が、一気にブワーって広がる。


大人が見て面白い。


イラストもいい。


僕は図書館で借りたけど、ちょっと買いたくなった。



内容的には、うちの子(4歳児)にはちょっと早いかなwっと思っていた。

この絵本は、漫画的というか、1ページが複数のコマに分かれている。

1ページに複数コマがわかれていると、読み聞かせるとき、「今この部分を読んでいるよw」っ指さしながら読まないといけない。

たぶんこの本は、小学生以上を対象にしているんじゃないかな?


だから、まだ早いかなと思っていたんだけど、気が付いたら子どもが一人でじーっとイラストを見つめていた。


やっぱり、イラストがいいんだろうな。


そして、なんか不思議で面白いんだろうな。




よかった。

ほしい。

2013年11月21日木曜日

『街場のメディア論』/わけのわからないものに魅力を感じること

久々のブログ。

いつも、何か書こう書こうと思っていざ書きだすと、あれもこれも盛り込んで、結局収拾がつかなくなって、中途半端で投げ出すというのが続いていた。
(下書きだけ書いて、投稿しなかったものが100個以上ある・・・)

これではいかんと思って、これからは、もっとさらっとブログを書こうと思う。

んで、読書感想文。


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内田 樹
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また、内田樹。



全体としては、わかるような気がする。


ただ、そうはいっても、人はおまんま食べていかないといけないわけで、なかなか内田先生みたいにデーンと構えていられないところはあると思う。


僕が面白いと思ったのは、最後の方にあった、人間の「わけのわからないものを自分への贈り物だと勘違いする能力」のところ。

うん。

これはよくわかる。



うちの子どもも、保育園の帰り道に毎日のように木の棒やらどんぐりやら松ぼっくりやらを拾って帰ってくる。


おかげで、車の中がものすごく汚くなる。


あと、ちょっと暖かくなったら、どんぐりから変な虫が出てきて気持ち悪い。


「お父さんこれ持っといて」といって、ポケットの中にどんぐりとか石とか入れてきて、そのまま忘れてしまう(リスか?)。

そして僕も忘れてそのまま洗濯してしまう。


まぁ、それはいいや。


この、「勘違い能力」は本能的なものなんだろう。

そして、子どもはその能力が高い。

大人になると、衰えるのかもしれない。

だから「子どもの時にだけ、あなたに訪れる不思議な出会い」なんだろう。




大人になっても、この能力が高いのはきっと、どぶろっく。

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おわり。

2013年9月20日金曜日

『だいくとおにろく』/鬼とは大工自身ではないだろうか

図書館で『だいくとおにろく』を借りた。

大好きな絵本の一つ。

北欧の民話が元ネタだとか。

よい物語は示唆に富んでいる(何回もいっているけど)。

『だいくとおにろく』も、読むたびに(と言うのは少し大げさだけど)新しい発見がある。

今回読んで、感じたことを備忘録的に記録しておく。


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この物語に出てくる「鬼」は「川の化身」と思っていた。


だけど、ふと思った。



「鬼」とは、大工自身ではないだろうか。


人間の中にある、未知の領域。


自分でも制御できない潜在意識。



荒々しい川にも耐える橋を創るようなすごい力を持つ一方で、鬼のように恐ろしい部分。


そういうものを具現化した存在ではないだろうか。


橋を創る力は、もともと大工に備わっていたんじゃないだろうか。


大工自身がそれに気づいていないだけで。





そして、鬼は大工自身が抱える恐怖でもあると思う。


自分の中にありながら、コントロールできない未知の力に対する恐怖。


人が恐怖に退治した時、二つの選択を迫られる。


ひとつは、恐ろしいものから目をそらすこと。すなわち目玉を差し出すこと。

若しくは、恐怖の正体を見極めること。すなわち鬼の名前を言い当てること。



人間はわけのわからないものが一番恐ろしい。

正体がわかれば、もう怖くない。



そして、恐怖の正体は暗い森の中でしか知ることができない。

たぶん、大工が入っていった森の中は、深層心理の一番深いところなんだと思う。

そして、そこは死の世界の一歩手前なんだと思う。

それくらい、ギリギリのところでしか、鬼の名前を聞くことができない。たぶん。



昔の人は、自分自身の一部を、鬼とか精霊とか、そういうものに切り分けて考えることが上手だったんだと思う。

今の僕らは、「自我」とか「自意識」とかが強すぎて、自分自身は自分自身であると信じすぎてるんじゃないかと思う。

自分自身の中に、自分でもコントロールできないものが存在していることを忘れているんじゃないだろうか。

そういうものに対する、敬意や畏怖の念みたいなものが足りないんじゃないだろうか。


そして、知らず知らずのうちに、鬼に目玉を差し出して、いろんなものを見つめる機会を失っているんじゃないだろうか。


『だいくとおにろく』を久しぶりに見て、そんなことを考えた。



とにかく、『だいくとおにろく』は面白い。

2013年9月18日水曜日

牛河を描いてみた

『1Q84』、『ねじまき鳥クロニクル』に出てくる「牛河」を描いてみた。



小説の登場人物を視覚化するのは野暮だと思いつつも、描いてみたい欲望を抑えられなかった。

とにかく嫌なやつなんだけど、なんとなく憎めない。

とても魅力的な登場人物。



実際、絵にしてみたら、80%位は頭の中のイメージを表現できたかなと思う。

残りの20%くらいはうまく表現できなかった。


せっかく描いたので、ここにUPする。


※イメージを固定化したくない人は見ないでください。




牛河利治
牛河

どうでしょうか。



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2013年9月1日日曜日

ハードカバーのたった一つのいいところ

ハードカバーの本ってあまり好きじゃない。

重いし、かさばる。


でも、本を閉じたときの「パタン」っていう音、あれは好きだ。


読んでるって感じがする。


それだけで、すべてのマイナス面を補って余りある。


文庫本でも、電子書籍でも、あの感覚は味わえない。

2013年8月28日水曜日

おじいさんの鬼退治

むかし、むかし

あるところに、おじいさんと おばあさんが おりました。


ある日、おじいさんは山へ芝刈りに行きました。

おばあさんは川へ洗濯へ行きました。


おじいさんが山で芝刈りをしていると、突然思いました。


「ええい! やってられるか! わしがやりたいのはこんな事じゃない!


わしには やるべきことがあるんじゃ!」


おじいさんは、その夜 おばあさんにいいました。



「ばあさんや、わしは鬼退治に鬼が島へ行ってくる。

出発はあしたじゃ。

握り飯をたあんと用意してくれ!」


おばあさんは、いいました。

「はいはい、わかりました、おじいさん。

どうか気を付けてくださいね。」




次の日、おばあさんは早起きをしてたくさんの握り飯を作りました。


おじいさんは、旅の支度をしました。

鬼退治のために棒も持ちました。


そして、おばあさんの握り飯をもっていいました。


「それではいってくる」

「ええ、ええ、どうか気を付けて。

決して無理をなさらぬよう。

晩御飯の前に帰ってきてくださいな。」






おじいさんが、鬼退治に行く途中、一匹の犬に会いました。



「これこれ、犬や、犬さんや」

おじいさんは言いました。


「なんだい、おじいさん。」

犬は言いました。


「わしと一緒に鬼退治にいかんかね?」


「ええ! めっそうもない。そんな恐ろしいことはできません」


犬はこわごわと去っていきました。





しばら行くと、おじいさんは猿に会いました。


「これこれ、猿や、猿さんや。わしと一緒に鬼退治に行かんかね?」

とおじいさんは言いました。

「いいけど、何かくれるのかい?」

猿は言いました。


「握り飯なら たくさんあるぞ」


「握り飯ぐらいじゃ いけないな」


猿は去ってしまいました。



さらに進むと、おじいさんは雉にであいました。


「これこれ、雉や、雉さんや。わしと一緒に鬼退治にいかんかね?」


とおじいさんは言いました。


「はっはっは。何おおっしゃる、おじいさん。


よぼよぼのあなたが鬼退治なんてできるわけがないじゃありませんか。

みんな大笑いしていますよ。

はっはっは」


雉は笑いながらいってしまいました。








それでもおじいさんは鬼退治に鬼が島へ向かいました。








鬼が島についたおじいさんは、鬼に向かって言いました。



「やぁやぁやぁ。鬼ども。退治に来たぞ! 覚悟せい!」



鬼たちはその声にびっくりしました。

ところが声の主がたった一人のおじいさんだったので、みんな大笑いしました。



「じいさん、じいさん、わかったから怪我しないうちにおかえりよ」



おじいさんは、持っていた棒で鬼に襲い掛かりました。



「わあ、危ないじいさんだ」


鬼たちは、おじいさんから棒を取り上げました。


そしておじいさんを持ち上げて投げとばしました。

ドスン。

おじいさんは、投げられた拍子にケガをしてしまいました。



これでは鬼退治はできません。


おじいさんは、あきらめてばあさんが待っているおうちに帰りました。





その夜、おばあさんはおじいさんの手当てをしながらいいました。



「ご苦労様でした。この程度のケガで済んでよかったですね」



「あいたたた。。。くやしいのぉ。あと少しだったんだがのぅ。。。くやしいのぅ」



とおじいさんは言いました。



「ケガが治ったらまた行けばいいじゃないですか。鬼退治。


大丈夫。あなたならきっとできますよ。」


そういっておばあさんは優しく微笑みました。


おしまい。

2013年8月21日水曜日

cafe space barvaに行ってきた

先日、大学の同級生が開いた『cafe space barva』というカフェにお邪魔した。


なんというか、素敵カフェでした。


コーヒーもおいしいし。
(コーヒーがおいしいという情報はいろんなブログですでに紹介されている)



【cafe space barvaのHP】http://www.v-dank.com/pg14.html


※これは、カフェに行った感想あるいは日記であって、お店レビューとか紹介とかいう類のものではないです。



僕がこのカフェで感じたのは『親密感』でした。


「ああ、僕はここにいていいんだ」と思える感じです。



いつ、僕が来ても受け入れてもらえるような感覚。


いつでも、僕のことを待っていてくれる(ような気がする)場所。


cafe space barvaは、僕にとってそういう場所でした。



自宅以外に、そいう空間があるということはとても幸せです。

(自宅でさえ、たまに「俺、外したほうがいい?」って思うことはある。)



そういう場所って、なかなか得難いものです。


そういう場所を見つけられた僕はすごくラッキーでした。


また行きたいです。

2013年8月20日火曜日

『半沢直樹』はアルコールみたいなもんだ

久しぶりにドラマ見てる。

『半沢直樹』。

視聴率もいいみたい。



面白い。

スカッとする。

もっとやれ、もっとやっつけろ!

倍返しだ! 10倍返しだ!




そして、見終わった後、むなしくなる。


自分は半沢ではないことにがっかりする。



倍返しどころか、フラストレーションを抱え込み、そいつらが利子のように増殖する自分に戻る。





このドラマはアルコールみたいだ。


飲んでいるときは気持ちいい。


だけど、飲み終わると後悔だけが残る。



そして、後悔することがわかっていても、飲まずにはいられない。

2013年7月18日木曜日

蟬の抜け殻と蝉の亡骸

蝉の抜け殻があると、子どもの服に付けてやる。


だけど、蝉の亡骸を、子どもの服に付けてやることはない。



蝉の抜け殻と、蝉の亡骸の間には、いったい何が違っているんだろうか?




蝉の抜け殻はただの「物質」だから、服に付けても気にならないんだろうか?
(もちろん、抜け殻だろうと嫌な人は嫌だろうけど)


それなら、蝉の亡骸だってただの「物質」ではないんだろうか?


亡骸には、何かしら穢れみたいなものがあるのだろうか?



無意識に死の気配を恐れてしまうのだろうか?



それは、文化的なものなんだろうか?


習慣的なものなんだろうか?



文化が違えばまた違ってくるんだろうか?





混乱してきたので、この辺でやめる。

2013年7月16日火曜日

蝶と芋虫

昔々、蝶と芋虫は別の生き物でした。

そして、蝶は蝶の国で暮らし、芋虫は芋虫の国で暮らしていました。


美しい蝶は醜い芋虫が大嫌いでした。

地道に生きている芋虫は、ひらひら飛んでいる蝶が大嫌いでした。


蝶と芋虫は互いにいがみ合い、いつも戦争ばかりしていました。


蝶と芋虫は、何百年、何千年もの間戦争をつづけていたので、やがてどちらの国もあと少しで滅びてしまうというところまで来てしまいました。


このままでは、大変なことになると思った蝶の国と芋虫の国は、それぞれ神様のもとへ遣いを出しました。


蝶の国の遣いと芋虫の国の遣いに、神様は言いました。


「それでは、お前たちを一つの生き物にしよう。
芋虫はその生涯を終えるとき、さなぎとなり蝶になりなさい。そして蝶は芋虫の卵を産みなさい。
芋虫は、より立派な蝶となるためにたくさんの葉っぱを食べなさい。蝶は遠くまで行くことができない芋虫のためより遠くにたくさんの卵を産みなさい。
そうすることで、お前たちはこれから素晴らしい繁栄を遂げることになるだろう」



そうして、蝶と芋虫はひとつの生き物となりました。

2013年7月13日土曜日

列車はココからどこかへ行くためのもの

木のレールのおもちゃっていいですね。


プラレールみたいに自動で動くおもちゃもいいですが、ある程度小さいときは、自走しないものがいいと思います。



保育園の先生の受け売りですが、子どもがレールをつなぎ合わせて行くとき、子どもなりに「物語」を作っているそうです。


きっと、ココにはこんな人が住んでいて、どんな生活をしていて、とか。

ココには、こんな山があってこんな花が咲く、とか。

列車はその人々や、モノを眺めながら進んでゆく。


ということだと思います。




なるほど。わかります。





そう考えると、そもそも列車ってココからどこかへ行くためのもんだなぁ、と思う。


一周ぐるっと回る列車って、現実世界では、実は少数派なんじゃないだろうか。



山手線とか、大阪環状線とか、東京の地下鉄とかって、どちらかというと割と”特殊”な部類に入るんだと思う。



列車の根本的なものって、「A地点からB地点へ何かを運ぶ」っていうものなんじゃないだろうか。


それは、人間が「どこかへ行きたい」っていう根源的な欲求から生み出されたものなんじゃないだろうか。






だから、レールのおもちゃも、「別に一周回らなくてもいいじゃん」と思う。


(プラレールみたいな自走するおもちゃは、「一周することが前提」になってしまう)


むしろ「ココから出発して、どんどんつなげていって、どこかにたどり着く。その方が物語としては自然じゃん。」と思う。





というわけで、子どもの四歳の誕生日は奮発して木のレールのおもちゃにしました。












プラレールは、もう少し大きくなって、メカと親しめるようになってから。。。


セブンカフェのデザインはまっとうなデザインだと思う

はてぶで以下のリンクがにぎわっておりました。



おや、全国のセブンカフェのようすが・・・



リンク先のように、佐藤可士和によるセブンカフェのデザインが盛り上がっているようです。


「シンプルすぎてわかりにくい」

「使いにくいので結局テプラを張られてしまっている」

とか。



これらの批判は、ネタとしてはとてもとても面白い。




けど、僕はこのデザインは、かなりまっとうで妥当なデザインだと思う。


別に、佐藤可士和が大好きなわけでも何でもないけど。


以下、その考察。




シンプルすぎるデザインについて


シンプルすぎてわかりにくいという批判もあるようだけど、結果的にはテプラを張ればわかりやすいデザインになっている。


シンプルなために、テプラを張るのに十分なスペースがある。


しかも、張ったテプラがしっかり目立っている。


そして田舎のコンビニは、テプラを張ることでちゃんと田舎っぽくなっている。




デザイナーとしては、テプラを張られることを想定していたかどうかはわからない。


せっかくかっこいいデザインが台無しにされたことに腹を立てるかもしれない。


だけど、張ったテプラが目立つのは、このシンプルなデザインのおかげだ。



世の中には、テプラを張る余地さえないゴチャゴチャしたデザインがあふれている。


そういう意味では、テプラを張って、店舗ごとにカスタマイズできるのは「拡張性の高いデザイン」と言えるのかもしれない。






R(Regular)L(Large)表記について


コーヒーのサイズについて、R(Regular)とL(Large)という表記がわかりにくい批判されているようだ。

この点について、以下のように問題を分けられると思う。


  • なぜ英語なのか
  • なぜM(Medium)、L(Large)ではないのか
  • なぜピクトグラムではないのか


なぜ英語なのか


英語表記がわかりにくいという批判もあるようだ。


「日本語の方がわかりやすい」と。



もちろん、日本人向けだけだと日本語の方がわかりやすいと思う。


だけど、たぶんセブンイレブンは日本に来る外国人や、海外店舗に置くことを想定しているんだと思う。

グローバルな企業にとっては当然の考え方だと思う。


グローバルに展開する場合、言語として採用するには(好き嫌いはあるとしても、今のところ)英語が妥当なところだと思う。


”国内にも、海外にも同じものを置く”ことの是非はともかくとして(そしてそれは僕の勝手な推測だけど)、デザイナーはその戦略に見合うものをデザインしたんだと思う。


なぜM(Medium)、L(Large)ではないのか




「Regularという表記がわかりにくい」

「MLの方がしっくりくる」

という批判もあるようだ。


だけど、Mっていうのは「Medium」のことだから、S(SmallあるいはShort)が存在しないのにMとLだけ存在するというのは原理的におかしい。

MとLだけしか存在しないのではあればそれはMではなくSだ。


じゃあなぜ、「SL」にしないのかという問題も生じてくる。


「大小」の概念は比較でしかない。


まず基準になるものがあって、それより「大きいか」「小さいか」となる。

だから、基準としてのRegular(標準)があって、それより分量が多いLargeとするのは、自然な流れだと思う。




別にSLでもいいと思う。

でも2種類しかないのにわざわざ「小さい」と言ってしまうと、客を損した気分にさせる。

お店は少しでも商品をよく見せたいものだ。






なぜピクトグラムではないのか




言語に関係なくわかりやすくするには、ホントはピクトグラムの方がいいのかもしれない。


だけど、「大きさ」と言う概念を、万人に誤解なくピクトグラムにするのはとても難しいと思う。


ちなみに、僕がコーヒーのサイズ(大、小)のピクトグラムを考えると、下のようになった。



レギュラーサイズ(左)とラージサイズ(右)をピクトグラムにしてみた
レギュラーサイズ(左)とラージサイズ(右)をピクトグラムにしてみた


なんだこれは。。。

大きいのと、小さいのとはわかるけど、これがレギュラーサイズとラージサイズを表しているとは到底思えない。

レギュラーサイズのピクトグラムは、ラージサイズのピクトグラムを見ないとそれが「より小さい」ことがわからない。

レギュラーサイズのピクトグラムは独立してその意味性を持たない。。。


これでは、絶対トラブル続出だ。


店舗側も、こんなデザインの機械を置かれたら迷惑千万だと思う。



もちろん、僕はデザイナーではないので、かなりひどいデザインだ。


だけど、万国共通で誤解を生まないピクトグラムを作るのはとても難しいと思う。



特に、売買というシビアな場所で、下手なピクトグラムを使ってしまって誤解が生じると、それはかなり面倒だ。


店舗側もそんなリスクをしょいたくないと思うし、経営側もそんなコストをかけたくないだろう。


だから、デザインとしては最低限、分量についてのトラブルが起こってしまった場合に

「ここにちゃんとRegularって書いてあるでしょ」

と言えるものが必要だった。


だから、確実な「文字」を使う方を選んだんだと思う。




デフォルトで使えるもの


人によっては使いづらさがあるものの、『セブンカフェ』はデフォルトの状態で使えるようになっている。


これは大きなポイントだと思う。


地域差、客層の差があることは初めから分かっているからといって、例えばデフォルトはのっぺらぼうの状態で、各店舗で説明書きを加えないと使い始められないというのでは、コストもかかる。


機械が店舗に来て、カウンターに置けばとりあえず使えるというのは大事だと思う。

(もちろん、電源とか水道とか諸々の設定は必要だろうけど)




まとめ



というわけで、僕はこのデザインは至極まっとうで妥当なものだと思いました。


(セブンカフェとか使ったことないけどね! それはともかくとして。)


なんというか、万人に使いやすいデザインって、本当に難しいんだろうなぁと思う。

こうやって考えてみると、デザインって奇抜でかっこいいモノと言うよりは、お店側か経営側とか客とかいろんな人の思惑の妥協点を探っていく、結構地道で泥臭いもんだなと思う。


(そもそも、セルフサービスじゃなくて、店員がコーヒー入れてくれたらこんなデザインいらないわけで。でも店員の教育やらなんやらのコストを考えるとセルフにした方がコスト安いし、その分コーヒー自体も安くなるし。だからデザインが必要になってくるわけで・・・)



そして、出来上がったモノを見ると、「妥当だなぁ」と思ったりするけど、”無”の状態からその”妥当”なところに落ち着かせるというのは、とても難しいんだろうなぁと思う。


デザイナーってすごい。

2013年7月8日月曜日

空っぽの部屋

あるところに、部屋がひとつありました。


部屋の中は、美しい絵や、高価な飾りでいっぱいでした。


その部屋にはたくさんの人が訪れました。

そして、部屋の美しさに感心して帰っていきました。


部屋はそのことを、たいへん誇りに思いました。




ある日、部屋にオオカミがやってきました。


オオカミは、部屋の中で思う存分暴れました。


美しい絵や、装飾品は見る影もなく壊れてしまいました。




部屋はとても傷つきました。




部屋はあまりにも悲しかったので、部屋の中を空っぽにしてしました。


もう二度と、大切なものを壊されたくなかったのです。


しばらくして、またオオカミがやってきました。


しかし、何も壊すものがないので、残念そうに帰っていきました。



部屋はホッとしました。




部屋の中はあまりにもがらんとしていて、何もないので、訪れる人はだんだん少なくなっていきました。


やがて、部屋には誰も来なくなりました。






ただひとり、女の子がときどき部屋を訪れました。


女の子は、部屋を訪れるたび、がらんとした部屋をしばらく眺めました。


そして何かのしるしのように花を一本、部屋において帰りました。



女の子は花が枯れるころにまたやってきて、新しい花と交換して帰りました。

女の子は帰るときはいつも、少し寂しそうな顔をしました。

その顔を見るたび、部屋は胸が苦しくなりました。





ある日、部屋は女の子のために、テーブルとイスと花瓶を用意しました。


テーブルの横には、窓をこしらえました。




女の子が部屋にやってきました。



女の子はイスに腰を掛け、花瓶に花を活けました。


そして、しばらくぼんやりと窓の外を眺めました。



女の子は帰るとき、少し、うれしそうな顔をしていました。


その顔を見て、部屋は暖かい気持ちになれました。



それからも女の子はときどき部屋を訪れました。


女の子は部屋訪れるたび、同じように花を替え、イスに座り、窓の外をぼんやり眺めました。

そして、すこしうれしそうに帰っていきました。






ときどき、オオカミがやって来て、テーブルやイスをひっくり返していきました。

その度に部屋は、女の子がいつ来てもいいように、部屋の中を元に戻しました。




部屋には以前のようにたくさんの人が訪れることはありませんでした。


しかし、部屋はとても幸せでした。

2013年7月7日日曜日

Google+の写真管理がすごい

Google+の写真管理がすごい。


例えば、検索ボックスに"flower"って入れてみると、自分か管理している写真の中からちゃんと花の写真が出てくる。


Google+の写真を"flower"で検索した結果
flowerの検索結果





もちろん僕が、自分で写真にタグ付けしたわけではない。

たぶん、Google+が裏で勝手に僕の写真を解析して、タグ付けしているんだと思う。



少し試してみたけど、こんなキーワードが引っかかった。


具体的なもの
  • dog
  • cat
  • animal
  • sea
  • child
  • etc

  • blue
  • red
  • yellow
  • etc


状態
  • sunset
  • lunch
  • wedding
  • christmas
  • etc

すごいなぁ。さすがに"lunch"と"breakfast"の厳密な違いはわからないみたいだけど、それにしてもすごい。


ちなみに、日本語でも検索されるけど、あまり精度はよくない。



もちろん、非公開のものでも検索できます!

(非公開でもしっかり中身は解析している)



Googleの技術ってすごいなぁ。(そして怖い。でも便利。)



(他の写真管理サービス使ってないからあんまり分からんけど、こんなもんなんかな? flickrとか。)




Google+内で日々アップされる膨大な画像に対して、すべて解析してタグ付けしていく技術ってすごいなぁ、と思う。


でも、僕の脳裏にはどうしても、どこか広々とした体育館のようなところに机がずらーっと並べてあって、そこでせっせとPCに向かってタグ付けをしている人々のイメージが沸いてしまうのだけれど。

2013年7月4日木曜日

わらしべ長者のポイント

最近、”わらしべ長者”という文字を見かけた。



ふと、「そもそも、なんで最初に藁なんて持ってたんだっけ?」と思って、Wikipediaで調べた。


Wikipediaには、以下のように紹介されていた。
昔、ある一人の貧乏人がいた。貧乏から何とかして逃れようと観音様に願をかけたところ、「初めに触ったものを、大事に持って旅に出ろ」とのお告げをもらった。男は観音堂から出るやいなや石につまずいて転び、偶然1本の藁しべ(藁)に手が触れた。

僕は、これを知って、『わらしべ長者』について、偉い勘違いをしていたんじゃないかという気がしてきた。


僕は、今まで『わらしべ長者』は、藁みたいなちっぽけなものでも、うまい具合に物々交換していけば、最後には大金持ちになるアメリカンドリーム的な物語だと思っていた。


だけど、本当に大事なのは物語の冒頭、観音様のお告げの部分、「最初に手にしたものを大事に持っていなさい」という部分なんじゃないかという気がしてきた。



観音様の言葉は、いつも有難い。




もし、男が最初に手にしたものが藁だったからといって

「今のなし、もう一回! せめて馬あたりからスタートさせて!」

とか言って、藁を捨ててしまったら男は幸せになれなかっただろう。


ポイントは観音様が言われた、「最初に手にしたものを大事にすること」だと思います。



最初に手にしたものとは、つまり自分が今手にしているものと言い換えてもいいと思います。


スタートラインという意味で。


自分が、今、手にしているものはちっぽけなもののように感じられるものです。


まるで藁のように。


しかも、自分では選びようがない。



だけど、往々にして自分が持っているものの価値は自分ではわからないものだ。



それが億万長者に匹敵する価値があったとしても。







僕らは最初に手にしたもの(今手にしているもの)を大事にしなければならない。





藁を大事にしないものは、ミカンを手にしても、馬を手にしても、億万長者になっても、きっと満足しないだろう。

欲望にはきりがない。

どこにもたどり着かない。




だけど、藁でも、ミカンでも、自分が手にしているものに敬意を示し大切に生きることは、億万長者で幸せに暮らすことと等価値なんだと思います。


『わらしべ長者』は、藁から初めて億万長者に上り詰めるサクセスストーリーではなくて、藁を大事に生きることと億万長者で暮らすことは、「幸せ」という観点でいうと同じ事なんだということです。



この物語は、


「今持っているものを大事にしなさい。それがたとえ藁のように価値がないモノのように見えたとしても。なぜならそれは、他の誰でもなくあなたが手にしているものなんだから。」


と語りかけていると思います。



僕が今手にしているものをもう一度見つめなおそうと思いました。

2013年6月27日木曜日

【感想文】永遠の0/こんな戦争なら悪くない

最近、本のランキングで『永遠の0』が割と上位のようです。


amazonやブクログのレビューでなかなかの高評価です。



僕も大分前に読んだので、感想を書いておきます。


たぶんネタバレはないです。


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この本は、とても面白い。


ハラハラ、ドキドキ。


臨場感あふれる戦闘の描写。


かっこいいヒーロー像。


感動のエンターテイメント。





物語として、とても面白いと思います。




これだけ書くには、相当、当時のことを調べ上げたと思います。


空戦の描写なんて手に汗握ってしまいます。


全体のストーリーも練りに練られていると思います。




だけど。と僕は思います。




この物語を読んだ後、




「戦争ってそんなに悪くないじゃん」



と思ってしまうのです。



なんでだろう?


戦争の悲惨さとか、理不尽さとか描かれているはずなのに、なんでそんな風に感じてしまうんだろう?

たぶん、この物語は、「僕らがみたい戦争像」だからだと思うのです。

「こうであってほしかった戦争」だからだと思うんです。


だから、この物語はとても面白い。


そんなわけで、僕は「うん、戦争もそんなに悪くない」と思ってしまうのです。



だけど、僕はそんな風に思いたくないんです。



「戦争ってロクなもんじゃねぇ」


って思っていたいんです。




なので、「戦争って悪くないかも」と思わせるこの物語があまり好きになれません。



でもこの本は、とても、とても面白いです。




面白いのに好きじゃない。不思議です。

2013年6月16日日曜日

ネズミ色のゾウ

”ネズミ色のゾウ”

とか

”オレンジ色のミカン”

とか。

そういう表現を聞くと、「それはゾウに失礼やろう」「ミカンがかわいそうやろう」と思ってしまう。

だけど、

”ゾウ色のゾウ”

とか

”ミカン色のミカン”

とか言ってしまうと、それはもはや情報として何の意味も持たない。

言葉って難しい。

2013年6月12日水曜日

喜びと悲しみについて

喜びと悲しみについて。



喜びがあるから、悲しみがある。


悲しみがあるから、喜びがある。


月並みだけど。






子どもにプリンを与える。


子どもは喜ぶ。



プリンを食べ終わる。



「もっとほしい」と、子どもが言う。


「もうない」と、僕は言う。



子どもは絶望する。



さっきプリンを食べた喜びが一変、悲しみに変わる。




最初からプリンを食べなかったら、食べ終わってしまう悲しみを知ることはなかった。



喜びと悲しみは表裏一体。




親が人生に対する喜びを教えるとき、同時にわが子が悲しみの底に沈む可能性を覚悟しなければならない。



わが子の人生から悲しみを排除するには、人生の喜びを教えることをあきらめなければならない。



子どもに、喜びを教えるということは、相応の覚悟がいる。


いいところだけを教えることはできない。



たぶん。

2013年6月5日水曜日

それでも村上春樹は僕らの抱える普遍的な孤独を描いていると思う

また、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に関すること。


ネタバレ注意





少し前に話題になったレビューを読んだ。

(このブログはいつもワンテンポ話題が遅い)


一万人を超える人がこのレビューに共感し、話題になっている。


Amazonレビューでも読めるし、以下のブログ記事に同様の内容が書かれていた。


埋没地蔵の館/「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」はなぜイラっとするのか。



とても面白い。

おもわず「あるあるw」とうなずいてしまいます。


この記事を書いたドリーさんという方は、作家志望らしい。

どおりで、面白いわけだ。




このレビューを楽しみながら読みましたが、それはそれとして、僕の思うところを書いておこうと思います。


感想文の感想文。



上記のレビューに書かれているように、村上春樹の小説に出てくる人は、孤独を抱えている割にはなぜか女にモテる。


だから、「これは僕の孤独とは違う」という感想はよくわかります。


「そんなにモテてるのに贅沢言ってんじゃねーよ」と思います。



だけど、それでも村上春樹の描く「孤独」は普遍的だと思います。


僕らが思春期だったっころ、モテずに苦しかったあの孤独とも通じるものがあると思います。




『多崎つくる』に関していえば、彼の孤独は「誰かを激しく求めないこと」が引き起こしたものです。


だから、いくら特定の彼女がいようと、おしゃれであろうと、「誰かを激しく求める」ことができない彼は孤独です。


だけど、彼は「巡礼」を通して「誰かを激しく求めること」を再開することを決めます。


たとえそれによって、激しく傷ついても。

求めたものが手に入らず、それによって死ぬほどつらい目にあうことになろうとも。

そうすることでやっと、多崎つくるは孤独から解放される。

それが彼にとっての救済です。

多崎つくるにとっての問題は、「彼女と結婚する」ことではなく、「彼女を激しく求めること」が何よりも重要だった。


だから、最終的にはプロポーズがうまくいくかどうかはこの物語ではある意味では問題でないし、物語の中でも描かれていない。


「彼女を激しく求めること」ができるようになった時点で、多崎つくるは救われた。




そして、僕が思春期で、モテなくて、孤独で、つらかったときのことを思い出してみる。


そのころ僕は、「誰かを激しく求める」なんてことをしたことがなかった。

思春期なんて、往々にして

「とにかくモテたい」

「誰でもいいから愛されたい」


としか考えていなかった。


そりゃモテないし、救いようがない。


モテだろうが、非モテだろうが、誰かを激しく求めない限り、僕らは孤独なんだということだと思う。

2013年6月4日火曜日

お父さんにオススメの子守唄

ウチだけかもしれませんが、かなりの高確率で子どもが寝てくれる子守唄を紹介します。


斉藤和義の『ワッフルワンダフル』

ワッフル ワンダフル
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原曲よりも、2倍ぐらい遅く、ゆっくりと歌います。

声はしっかり出して、気持ち大きすぎる位の声で歌った方がよいです。



抱っこしながら、子どもの頭を胸につけると、男の人の低音が安心感を与えるみたいです。



ウチは男の子が二人ですが、どちらも新生児の時からこれを使ってます。


よっぽどダメなときはダメですが、2かいくらい歌うと、大概寝ていきます。




子どもの寝かしつけにお困りのお父様は一度試してみてはいかがでしょうか。


効果は保証しません。

2013年6月1日土曜日

EXILEの記号的カッコよさについて

EXILEってかっこいい。

EXILEのかっこよさには、記号的なものがある。




『スプートニクの恋人』という小説の中で、記号と象徴の違いが説明されている。



「天皇は日本国の象徴だ。しかしそれは天皇と日本国とが等価であることを意味するのではない。わかる?」
「わからない」
「いいかい、つまり矢印は一方通行なんだ。天皇は日本国の象徴であるけれど、日本国は天皇の象徴ではない。それはわかるね」
「わかると思う」
「しかし、たとえばこれが、<天皇は日本国の記号である>と書いてあったとすれば、その二つは等価であるということになる。つまり我々が日本国というとき、それはすなわち天皇を意味するし、我々が天皇というとき、それはすなわち日本国を意味するんだ。さらに言えば、両者は交換可能ということになる。a=bであるというのは、b=aであるというのと同じなんだ。簡単にいえば、それが記号の意味だ」
天皇は日本国の象徴だ。しかしそれは天皇と日本国とが等価であることを意味するのではない。わかる?」
「わからない」
「いいかい、つまり矢印は一方通行なんだ。天皇は日本国の象徴であるけれど、日本国は天皇の象徴ではない。それはわかるね」


話を元に戻すと、EXILEのかっこよさは記号的だ。


EXILEはかっこいい。

かっこいいのはEXILEのことだ。

「EXILE」と「かっこいい」は等価で、交換可能だ。



テレビでEXILEが出てくると、僕らはそれをかっこよさの記号として捉える。

僕らは、それを「かっこいいもの」と捉える必要がある。

記号だから。


もし、そこで「EXILE? かっこよくねえよ」なんて考えだしたら、テレビ上での文脈が成立しなくなる。

だから、そこには異論も疑問も認められない。

テレビでEXILEを見たら、それは「かっこいい」のだ。




この記号的にかっこいいEXILEを眺めていると、だんだん不思議な感覚に陥る。


いわゆるゲシュタルト崩壊が起き始める。

脳ミソの中で

EXILE→かっこいい→EXILE→かっこいい・・・

を繰り返していると、ある時点で、


「あれ? ”かっこいい”ってなんだっけ?」



ってなる。




そういう感覚に陥ったとき、その記号的カッコよさがある種のおかしみを帯びてくる。


オースティンパワーズのようなコメディを見ているような感覚に陥る。


かっこいいってなんだろう?





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2013年5月27日月曜日

Don't you know? 阿波の土柱の、半端なさ!

四国旅行に行ってきました。

いろいろ、回ったんですが、何気なくぷらっと寄った「阿波の土柱」というところが、意外にすごくて感動したので、その感動の余韻が温かいうちに、ブログに書いとこうと思いました。



徳島に「阿波の土柱」というものがあって、なんと「世界三大土柱」の一つらしい。

Wikipedia/土柱



世界三大に数えられる割には、あまり知られていない気がする(観光本には載ってなかった。)

そもそも、「土柱」なんて言葉自体あまり聞いたことがない。


土が雨風に削られて柱のように残ったものが「土柱」らしい。



今回、たまたま泊まったところが、その「土柱」の近くだったので、ついでに見に行きました。


実際行ってみると、周辺はあまり観光地としてにぎわっている感じではなさそうでした。
(たまたま僕が行った時期が悪かっただけ?)


だけど、実際に土柱を目の前にすると、意外とすごかった。


『ナルト』で誰かが「土遁、阿波の土柱!」とか言ってそうな趣きを感じました。

阿波の土柱の内、「波濤嶽」という場所





地球の鼓動を感じることができる、すごい天然記念物だと思います。

迫力満点、一見の価値あり。


もう少し注目されていいスポットだと思います。

2013年5月12日日曜日

非合理なお願い@鈴虫寺

今年のGWは、京都の「鈴虫寺」というところに行ってきました。

鈴虫寺
鈴虫寺の入り口


鈴虫寺HP

本当は「華厳寺」と言うそうです。


「願い事をひとつ、必ず叶えてくれる」有難いお寺だそうです。

(結構有名らしく、寺ガール(?)たちで長蛇の列ができてました)


必ず叶えてくれるなんて言われると、とても悩みました。


いったいどんな願いをすればいいんだろう!


せっかくなので、無い知恵を働かせて考えてみました。


そして、次のようなルールを決めました。

制約と誓約。

縛りがある方が、お願いごとの強度も増すと思ったのです。

ルール1 普段できない(思いつかない)お願いをする


せっかく遠いところまできてたので、普段できないようなお願いをしようと思いました。

「家族の健康」とか、「お金がほしい」とかは、いつでも思いつく。

いつでも思いつくようなお願いは、近場の神社とかですればいいなと思いました。

そうではなくて、普段絶対思いつかないような願い事をしたいと思いました。



ルール2 自分からできるだけ遠いことをお願いの対象にする


最近マイブームの内田樹先生の影響もあり、「一番合理的なことは、一見もっとも非合理な方法でなされなければならない」というのを思い出しました。

(詳しくはコレに書いてある。)

下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)
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ということで、願い事をするにあたって、非合理なお願いをすることにした。


つまり、「自分のためにならないお願い」が、実は「自分にとって最もためになるお願い」になる、という法則です。

「自分のためにならない」ことを「自分以外の誰かのためになる」としました。


そして、「できるだけ自分から遠いもの」、あるいは「自分とは対極にあるもの」に対してお願い事をしようと思いました。

「情けは人の為ならず」。


廻り巡って自分のためになるような、そんな願い事がになればいいと思いました。




結論。僕のお願い。


結論として、次のようなお願いをしてきました。



これから僕が出会う「僕が嫌いな人」を幸せにしてください。

「ちょっと嫌な人」にはささやかな幸せを。

「こんな奴死んでもいい」と思う人には目一杯の幸せを。


これなら、普段思いつきません。

特に、実際嫌な人を目の前にしてしまったら、絶対思いつかない。

京都の山奥で、頭が冷静だから思いつくことだ。

そして、「嫌いな人」は自分からもっとも対極にある存在だ。


条件にぴったり合う。


このお願いをしてみてから、我ながらなかなかイイお願いをしたような気がします。



効果1 世界が少し平和になるかも


僕が嫌な思いをするだけで、世界が少し平和になるなら、それはそれでいいことじゃないか。


効果2 人を嫌いにならずに済むかもしれない


僕が嫌いになることで、そいつが幸せになるなら、いっそのこと「そいつを嫌いになってやらん!」と思えるかもしれない。

そうすれば、世の中から僕が嫌いな人が一人減るかもしれない。

それは、僕の精神衛生面で、ひとつ健康になるかもしれない。


効果3 好きな人のために日々祈ろうと思う


僕がこんなことを願ったおかげで、「こいつに嫌われれば幸せになれる!」とか考えて、僕から嫌われようとする人が出てくるかもしれない。

それはちょっと嫌だ。(まぁ、実際にそこまでする人はいないと思うけど)

だから僕は、僕の好きな人の幸せを、ちょくちょくお願いしようと思う。

近所の神社なりなんなり。

ことあるごとに。

それで、僕に嫌がらせをしようとする人が出ないようにしようと思う。


自分の好きな人のためにお祈りすることは、悪いことじゃなかろう。たぶん。


(だから、僕に嫌がらせをするのは、よしてください)




自分の好きな人のことはある程度自分で何とかできる。

好きな人の為に祈ることも割とできる。

だけど、僕は聖人君子じゃないので、自分の嫌いな人のことは、なかなか自分自身で解決できない。

だから、この負の感情を神様なり仏様なりの力を少し借りて、ちょっとでも心の平穏を保てればいいと思います。





合理的な効果を求めるには、まず非合理な方法を考えるのもなかなかいいものだと思いました。


(まだ、効果測定中だけど。ていうか、効果測れん気がする。)

2013年5月10日金曜日

見たいものを見るために全力を尽くす人々

先日、fbのタイムラインにこんなネタが舞い込んできた。


【怖すぎ】ヤフー知恵袋に投稿された、ママ友イジメについての相談の結末が衝撃的wwwwww : はちま起稿


怖い。

なんか怖い。


だけど、なんとなく、わかるような、気も、しないではない。


これは、情報社会に住む現代の人々の傾向なんじゃないだろうか。



僕が好きな『ローマ人の物語』(塩野七生)の中で、次のような言葉が出てくる。


人間ならば誰にでもすべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない。

カエサルの言葉らしい。

ローマで偉大な為政者たちは、自分が見たくない現実をしっかり見ていた。

また、人々が見たいと思った現実を巧みに見せることで、ローマ帝国を統治した。




今の僕らはどうだろうか。




インターネットで情報があふれ、あらゆる情報が飛び交っている。


「現実」なら星の数ほどある。


だけど、あまりにも現実が多すぎて、見たいと思う現実がなかなか見つかりにくいのではないか。


ただ情報を眺めているだけでは、見たい現実になかなか巡り合えない。


だから、僕たちは以前よりもより能動的に見たいものを採りに行くようになった。


その顕著な例が、冒頭のリンクのA女史のような方ではないだろうか。


自分の見たいものを見るために、全力を尽くす。


より能動的に、より主体的に、より積極的に。





そして、情報社会はもう一つ我々に変化をもたらした。


それは、「見たいものを見られれば、それ以外のものは全くどうでもいい」という傾向だ。


それは、昔みたいに単純に「見えない(認識できない)」わけじゃなく、これまた能動的に無視するようになった。
(能動的に無視するってなんか変だ。でも、うまく言えない)


みんな、もう、「現実」は星の数ほどあることを知っている。


その中には、もちろん自分が見たくない現実も含まれていることを知っている。


だから、我々はこう思う。


「見たくない現実があったって一向にかまわない。だって、見たい現実が確かにあることを確認できたんだから」


情報社会は、僕らにこんな変化をもたらした(と思う)。


たぶん。きっと。


ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)
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2013年5月8日水曜日

【子どもから学ぶ】「はたらく」とは/あるいはキッザニアのお土産

みなさん、GWはいかが過ごされましたか?


このGWで甥っ子、姪っ子たちが、あこがれの「キッザニア」に行ってきました。



「キッザニア」では子どもが様々な「労働体験」ができます。


そして、労働をした暁には賃金をもらいます。通貨単位は「キッゾ」。キッザニア内の高島屋で使えます。


一番上の姪っ子(小3)は、キッザニアでの労働で70キッゾもらいました。

彼女は、その70キッゾで、僕の息子(3歳児)にミニカーを買ってくれました。

自分のおもちゃではなく!

アミューズメント施設とはいえ、初めて自分で稼いだお金で、誰かにプレゼントしてくれるなんて!

なんて素敵な子でしょう。

そのミニカーは70キッゾだったかもしれませんが、僕の中ではプライスレスです!

プレゼントのミニカー@キッザニア
プレゼントのミニカー、プライスレス



僕は、彼女の何気ない個の行動に胸を打たれました。


キッザニアで用意されたプログラムに沿って「体験」することだけが「労働」ではない。


誰かのために、何かをしてやる。それこそが「労働」の本質だ。


そういうふるまいを自然にできるのは、なんと素晴らしいことだろう。




自分のリソースを使って、価値を生み出し、それを交換すること。



これこそ、「はたらく」という意味なんだと。



そして、大人は便宜上、価値の交換に「お金」を使う。




僕はよっぽど、ミニカーの対価として、お金をやろうかなと考えた。

だけど、やっぱりやめた。


僕には子どもにうまく「お金」を説明できるほど知識がない。


そんな僕がお金をあげることで、彼女の金銭感覚を歪めてしまうかもしれない。

それはとても怖い。


だから、価値の交換という意味で、お金以外の何かを、彼女にしてやれればいいなと思う。


そして、価値を生み出し、それを交換することこそ、労働の基本なんだということがわかってくれればいいと思う。



さて、僕は彼女に何ができるだろうか。


こういうところから、価値の創造、つまり「仕事」が生まれるんだろう。


うまく価値あるものが生まれるかどうかは別として。。。

2013年4月29日月曜日

【ネタバレ注意】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』について、じわじわ思ったこと

時間をおいて、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の「あれって、こういうことなんじゃないの?」みたいなのが、2、3思い浮かんだ。



思いつきなので、論理的に「穴」はたくさんあると思うけど、備忘録的に書く。


ネタバレ注意。


名前の中の色彩について



色彩は何を意味するのか。



この物語には、名前に色を持つ人物と、持たない人物がいる。


名前に色を持つのは7人。

多崎つくると、高校時代にグループを形成した4人。

  • ミスター・レッド
  • ミスター・ブルー
  • ミス・ホワイト
  • ミス・ブラック


大学時代の友人とその父親。

  • ミスター・グレー
  • ミスター・グレー(父)


ミスター・グレーの話に登場する人物。

  • ミスター・グリーン。



彼らはなぜ色を持つのか。


「個性的だから」、という理由だけなら多崎つくるの現在の恋人、会社の後輩たちに「色」がない理由の説明が付かない。



彼らが色彩を持つ理由を考えてみた。


名前に色彩を持つ人物たちは、「多崎つくる」にとって「過去の人」なんじゃないだろうか。

過去の思い出。

思い出の中にだけ存在する色彩。

思い出を彩る色彩。


逆に言えば、名前に色彩を持つ人物は、多崎つくるのもとから去って行く。

彼らは二度と多崎つくるの前に姿を現さないだろう。



ただ、「ミス・ブラック」は、自分と「ミス・ホワイト」のことを「シロ」「クロ」と呼ばないでくれといった。

色ではなく名前で呼んでくれと言った。


自分たちの存在を「過去」とひとくくりにされることを拒んでいるように感じられた。


二度と会えなくても、多崎つくると同じ時間を生きている、それを彼にわかっていてほしいという強い思いが感じられた。


生身の人間に立ち返ることを求めているように見えた。


人間が持つ「色」が見える能力について

ミスター・グリーンは、近い将来の「死」と引き換えに、人間が持つ「色」を見る能力を手に入れる。

その知覚は、一旦経験してしまうと、今までの生きてきた世界が”おそろしく平べったく見えてしまう”ほどのものだ。

それほど、魅力的な能力。


ミスター・グレーがなぜこのような不思議な寓話を多崎つくるにしたのか。

そこは、物語の上で重要なんだと思う。


ミスター・グレーが語るこの寓話は、多崎つくるの高校時代を暗示するものではないだろうか?




多崎つくるは、「赤」「青」「白」「黒」の色を持つ人間と”乱れなく調和する共同体”を作り上げた。


この、「名前に色を持つ人々との共同体」=「人間が持つ色を見る能力」なんじゃないだろうか?


そして、その共同体に比べれば、周りの世界が”おそろしく平べったく見える”くらいに完璧な共同体。


それと引き換えに、彼は実際に”死”に直面する。


それは、ある意味では本当の死だった。

肉体ががらりと変わり、内面はほとんど入れ替わってしまうほどのものだった。


また、ある意味では、”乱れなく調和する共同体”からの追放(能力の喪失)によって生き返ったともいえる。

ミスター・グレーの寓話は、「”乱れなく調和する共同体”を手に入れた多崎つくるが死に直面した」ということを暗示しているのではないか。



じゃあ、ミスター・グレーが能力の喪失後に現れた理由は何だ? という問題が残るので、まだ穴はあるけど、人間の色を見る能力は、多崎つくるの高校時代の比喩だという仮説は、割といい線いってるんじゃないだろうか?





駅を作ることについて



多崎つくるは、駅を作っている。

駅と聞いて、『ダンス・ダンス・ダンス』を思い出した。

二つのドアを持つ、空っぽの部屋。

互換性のない、入り口と出口。

誰かが入り口から入ってきて、出口へ出ていく。


駅も、誰かが入ってきて、誰かが出ていく。

ただ、自分はそこにいて、眺めていくだけだ。


最初、多崎つくるも、『ダンス・ダンス・ダンス』でいうところの、「ドアが二つある部屋」にいるような気がした。


だけど、読み進めていくうちに、どちらかというと、『羊男の部屋』を思い浮かべた。


何かと何かをつなぐための部屋。


駅は、どちらかというと、「つなぐための機能」だ。


多崎つくるは、駅を作ることで、何かと何かをつなげている。

羊男が「僕」のために何かをつなげるように。



多崎つくるは、羊男が何かをつなげる代わりに駅を作る。

、『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」が文化的雪かきをするように、駅を作る。

そして、「僕」がダンスステップを踏むように、「巡礼」をする。

”つながっている”
と僕は思った。


関連エントリー

自由意志について/色彩を持たない多崎つくると、LIGとAKB


【感想文】色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/示唆に富みすぎて考えがまとまりません




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2013年4月27日土曜日

スマートな結婚について

先日、結婚斡旋会社の広告で

「いまどき結婚はスマートに」

みたいな広告を見かけた。


僕はこの広告を見て、ものすごく違和感を覚えた。

「スマートな結婚式」だったらなんとなく理解できたかもしれないけど、「スマートな結婚」という部分に引っかかってしまった。



そして、その違和感の正体を探ってみた。


※ここでは「結婚」について書いています。「結婚式」のことではないです。あしからず。


先日、内田樹先生の『下流志向』という本を読んだ。



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その感想→【感想文】下流志向/先人へのリスペクトは大事


その中で、リスクヘッジについて書かれていた。

要約するとこんな感じだった。

---

現代社会は、空前のリスク社会である。

我々は、様々なリスクにさらされている。

それは、しきりにアナウンスされている。

しかし、だれも”リスクヘッジ”については教えてくれない。


さらに、個人はコミュニティから切り離され、バラバラに分断されている。

我々は、個人でこのリスクに対面している。


しかし、”リスクヘッジ”は個人では成立しない。

”リスクヘッジ”とは、「誰かがつまずいたときに、他の誰かが支える」ことで成り立つ。

だから、”リスクヘッジ”には最低二人以上の関係が必要だ。


しかも、それは、”利益最大化”の関係ではうまくいかない。

”利益最大化”では、「誰かがつまずいたとき、そいつを切り捨てること」が合理的な判断となるからだ。


”リスクヘッジ”は「その関係を結ぶことで誰も得をしない(むしろみんなが損をするような)方法」でしか成立しない。
---

※この辺りは、僕が説明するといまいちピンと来ないかもしれないので、ぜひ『下流志向』を読んでみてください。




「結婚」は、個人における最強の”リスクヘッジ”だと思う。

まさに


”健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くす”

ためにある。



また、個人と個人だけでなく、親族を含めた強力な”リスクヘッジ”となる。


それをより強固なものにするには、より泥臭く、よりしがらみが強くなる方法で、結婚する方がよい。

制約と誓約。

”しがらみ”が強いほうが、”リスクヘッジ”は強力になる。


だから、結婚はスマートたりえない。



「結婚式」をスマートにするのはありだと思う。

バブルのころみたいに無駄に派手にする必要はない。

ただ、「結婚自体」には親族、友人を巻き込んだ方が”リスクヘッジ”という面でいいと思います。


そして、式はそのための手段の一つだと思う。


昔みたいに、親族たくさん呼んで、めんどくさい感じにした方が、実は”リスクヘッジ”としてより強力になる。


昔の人は偉い。





まぁ、自分の結婚の時は、そんなことを考える余裕はなかった。

めんどくさい「しがらみ」はすっ飛ばしてしまいたかったというのが正直なところです。

だけど、今は、しがらみというか、つながりみたいなのをもう少し大事にしたいと思う。

そして、そのめんどくささを少し楽しめるようになってきた。




結婚を”リスクヘッジ”としてばかり考えるのも、それはそれでつまらないと思いますが、ひとつの視点として。

2013年4月26日金曜日

スピッツ『ロビンソン』/自転車に乗っているのは誰?

春ですね。暖かくなってきました。

新しい季節はなぜか切ない日々ですね。


先日、とあるお店で、スピッツの『ロビンソン』が流れていました。



懐かしいですね。


僕は、『ロビンソン』は大好きですが、歌の始めの方を聞くといつも戸惑ってしまいます。


”河原の道を自転車で走る君を追いかけた”

さて、問題です。


自転車に乗っているのは誰でしょうか?



A:自転車に乗っているのは「君」
B:自転車に乗っているのは「僕」



A:自転車に乗っているのは「君」 B:自転車に乗っているのは「僕」
”河原の道を自転車で走る君を追いかけた”の図




僕はいつも悩んでしまいます。


ただ、『ロビンソン』を聞くたびに、違う情景を同時にイメージすることも難しいので、とりあえずの仮の答えとして”A”を思い浮かべるようにしています。

僕がAを選んだ理由としては、


1.冒頭で”新しい季節はなぜか切ない日々”と言っている。自転車を走って追いかけると、なかなか追いつかない。つまり、「切ない」。


2.僕が自転車で追いかけたらすぐに追いついてしまう。そんな易々と達成してしまうような、あたりまえのことを歌にするだろうか(いやしない。[反語])

3.追いついてしまうなら、「河原を一緒に走った」とか「追い越した」とかの方が、「僕」にとっては印象に残るのではないか。そちらを歌詞にするほうが自然じゃないか。

4.もし、走っている人を自転車で追い続けるなら、それはほとんどストーカーだろ。



というところです。




ちなみに、この話を嫁にすると、嫁の意見は違いました。(僕と嫁はしばしば意見が合わない)


嫁はBに近いけど、「”君”は走っていない、歩いている」といいます。

”河原の道を自転車で走る。/君を追いかけた。”
らしいです。”/(スラッシュ)”のところでいったん区切るらしいです。

C:河原の道を自転車で走る。/君を追いかけた。
”河原の道を自転車で走る。/君を追いかけた。”の図

C:自転車に乗っているのは「僕」。かつ、「君」は歩いている。

(その発想はなかったわw[棒])


嫁の言い分は、

1.自転車で走る君を、僕が走って追いかけると、追いつくわけがない。そんな無意味なことは普通しない。

2.自転車をこいでると、河原で歩いてる「君」を見かけたので、追いかけた。(青春!)

3.「君」が河原を走っている理由がわからない。ジョギング? なんか変だ。

だそうです。




あなたはどう思いますか?

2013年4月22日月曜日

自由意志について/色彩を持たない多崎つくると、LIGとAKB

最近、僕の中で引っかかる話題があった。

なぜ、それが引っかかるのか、少し考えてみた。


※あんまりまとまってません。しかも長文。



引っかかる話題はこの二つ

結婚のご報告。30年彼女がいなかった僕が、秒速で結婚できた理由。

伊集院光が語る AKB48峯岸みなみ坊主謝罪事件と秋元康のスゴさ



この二つの出来事を見て、人間の「自由意志」ってなんだろうと思いました。


(※これは、上記の個別の事例について批判するものではありません。センセーショナルなこれらの事例を見てみて、一般論に落とし込めればなぁと考えただけです。)


この二つの出来事の共通点は、「センセーショナルだけど、それを選択したのは本人の意思だ」という点です。

どうして、こんなセンセーショナルでトリッキーな選択肢を彼らは自らの意志で選んだろうか。





これらは、非常に斬新なようでありながら、落ち着く先は「結婚」や「ケジメ」といった至って古風な帰着点です。


自由な選択の結果でありながら、「結婚」や「ケジメ」という、法や社会の規定という枠組み(しがらみ)へ自ら飛び込んでいるようでもあります。


「結婚」や「丸坊主」っていう結果自体は非合理なようで、それらは彼らの合理的な選択の連続の結果です。



個人の自由な選択の結果のようでありながら、彼らには他の選択の余地はなかったようにも見えます。


なんで、こんな矛盾した二つのことが同時に起こるんだろうか?

なんで、こんな不可解なことが起こるんだろうかと、非常に興味がわきました。


特に、本人の「自由意志」による選択のようでありながら、他の何物かの意志によってその選択をせざるを得なかったように”見える”という点に興味があります。

(もちろん僕の偏見です)


そして、自分なりに考えてみました。



この二つの出来事は、どちらも本人の「自由意志」によって選択された行動です。


インターネットが広まり、多くの人がSNSを利用し、個人が台頭する時代になりました。


多様性が尊重され、個人の自由が尊重されるようになりました。



人々はより幅広い選択肢の中から、より自由に人生を選択することができるようになりました。


様々な選択肢が提示され、人々は自分の好みに合わせて、合理的に効率よく、最善と思えるものを手に入れることができる。


自由礼賛。


個人万歳。


・・・


本当だろうか?




僕の心にはこの二つの出来事が引っかかっています。




彼らの前には、あらゆる選択肢が提示されていた。

そして、その中から、”合理的”に”最善”と思われる選択をした。



だけど、ある面から見れば、あらゆる選択肢がありながら”それ”を選択する以外になかったんじゃないだろうか。


考えれば考えるほど、彼らがそうすることは自然だったように思えてくる。


そこには、彼らの「自由意志」なんてものは、本当に脆弱に感じられる。


”自分以外の何か大きな圧力”によってそうすることを仕向けられたように見える。


それは、LIGのプロモーション戦略だとか、秋元康のマネージメントだとか、そんな生易しいモノじゃない。

人間社会が持つ空気圧とか、運命とか、そういう類のものだ。



彼らがもがけばもがくほど、こうなる「運命」が加速していく。


そんな気がする。(結果論でしかないけど)




人間は、”自由”に”合理的”に動こうとすればするほど、その行動は限定されたものになるんじゃないだろうか。

しかもそれを自分「自由意志」によるものだと考える。

だから、後悔もしない。幸せだと感じる。

(これは、別に彼らの結婚やケジメが不幸だといっているわけではないです。あくまでもメカニズムの問題です)



だけど、僕は、その「自由意志」の背景に、何か得体のしれない「圧力」のようなものを感じる。

それは一体なんなんだろうと考えていた。


そして、それは意外と僕の身近なところにヒントがあった。


僕が好きな村上春樹の小説の中にしばしば表現されているものだ。



僕が感じた得体のしれない「圧力」は、例えば『1Q84』の中では「リトルピープル」として描かれている(たぶん)。

また、小説ではないけど、エルサレム章のスピーチの中では「システム」と呼ばれる。(きっと)

【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)/タンポポライオンのブログ


僕らが「自由意志」により選択したと信じているものには常に「リトルピープル」や「システム」が介在している。

しかも、個人主義、自由主義が発展すればするほどそれらは力を持ち、そしてより見えにくくなっていっているような気がする。


完全なる「自由意志」なんていうものは存在しないんじゃないだろうか。



でも、だから、僕らは彼ら(リトルピープルなるもの)と戦っていかなくてはならない。

そういうことなんじゃないだろうか。


そして、『色彩を持たない多崎つくると、その巡礼の年』でも、「自由意志」について描かれている。



※以下、ネタバレアリ。ご注意を・・・




『色彩を持たない…』の登場人物が、「自由」についてのたとえ話をする部分がある。大雑把に言うと以下のようなものです。


「悪いニュースがあります。今から君の爪をペンチで剥がします。これはもう決まっていることです。でもいいニュースもあります。剥がされる爪は”手の爪”か”足の爪”か選ぶことができます。10秒以内に決めなさい。10秒を過ぎると両方の爪を剥がします」

印象的な部分ですが、僕はこれが何を意味するのか、はっきりとわかっていませんでした。

なんとなく、単純に「どちらの爪を剥がされるのも嫌だと叫ぶこと」「爪を剥がそうとするものと戦うこと」が大事なんだと考えていました。



だけど、僕は、前段の二つの事例(「結婚の話」と「丸坊主の話」)をよくよく考えてみて、僕らの前には本当に「爪を剥がされる選択肢」しかないんじゃないかと思うようになった。


僕らの目の前にある選択肢というものは、「爪を剥がされる」ような理不尽で暴力的なものしか存在しないんじゃないだろうか。


「あらゆる選択肢の中から、最善のものを選択する」というのは、幻想でしかないんじゃないだろうか。


僕らは常に「限られた選択肢の中から、よりマシなものを選ぶ」ことしかできないんじゃないだろうか。




別の言い方をしてみる。




宇宙には、あらゆる可能性が広がっている。

そこには美しいものもあれば、心地よいものもある。


だけど、僕らが見ることができるのは、理不尽で暴力的な「選択肢」だけないんじゃないだろうか。


人間の目に映るのは可視光線の範囲だけであって、紫外線や赤外線は見ることができないように。




いや、もしかしたら、それも違うかもしれない。



どんなに美しく、心地よい可能性があったとしても、それが僕らの目の前に提示された時点で、理不尽で暴力的なものに変質してしまっている。

量子力学において、観察自体が観察されるものに影響してしまうように。

選択肢を見てしまったら、それは理不尽なものに変貌する。


という表現の方が近いのかもしれない。


それが僕らの生きている世界なんじゃないだろうか。



『色彩を持たない…』では、多崎つくるは最初に生死の狭間をさまよっている。


たぶんそれは、彼が宇宙に広がる無限の可能性から、「最善の選択」を求めていたからじゃないだろうか。

しかも、「同時」に「複数の」選択肢を求めていた。


しかし、彼は生死の狭間で、「大切なものが2つあり、そのどちらかしか手に入らない状況」を知る。


そして激しい「嫉妬」の感情を知る。


そこから、彼は再生を始める。



限定された、理不尽な選択肢の中でしか人間は生きていけない。

それを受け入れることで、多崎つくるの巡礼が始まる。



そういうことじゃないだろうか。



そして、そんな理不尽な世界で生きていくには、2通りの方法があると思う。



ひとつは、どんなに理不尽で、暴力的でも、それを自分の「自由意志」で選択したからにはそれを「善し」とし、嬉々として「手の爪」なり「足の爪」なりを差し出す。



もう一つは、たとえどの爪を剥がされようと、「リトルピープル」なるもの「システム」なるものに目を離さず、嫉妬の感情を抱え込みながら、目の前の現実を一歩ずつしっかりと歩んでいく。
それは「ダンスステップ」を踏み続けることであり、「雪かき仕事」をつづけることであり、「駅」を作り続けるということかもしれない。
(あかん、抽象的すぎる。うまく言えない。)



あまりまとまりませんが、僕らは「自由意志」なるものを有難がりすぎると、リトルピープルたちにまんまとやられてしまうという話です。



尻切れトンボになってしまったけど、最近の話題の出来事と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を絡めて考えてみました。









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