2014年2月15日土曜日

【感想文】『舟を編む』/言葉の大切さを伝えたい物語

読んだ。


舟を編む
舟を編む
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三浦 しをん
光文社
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えらい人気のようで、昨年10月に図書館で予約してたら、今年2月になってようやく借りれた。


が、どうやら僕には、三浦しをんは合わないようだ。


以下、ネタバレアリ。



辞書作りの大変さが伝わってこない

この物語では何を重点的に描かれているかと言うと、やっぱり主人公たちの言葉の捉え方だと思う。

彼らが人生の節目節目でどういう言葉を重視しているか。

言葉と言うものをどうとらえているか。

それを描くことで、「言葉って素敵だね」ということを伝えたいんだろうなぁ、と思う。


なので、登場人物たちの節目節目の言葉の捉え方に対して、やりすぎなくらい重点を置いている気がする。

だけど、辞書作りの描写については、ただ表面をなぞっているだけような印象がある。


だから、とってつけたようなトラブルが発生して、なんとなく「頑張り」でクリアしているような印象がある。







会社として辞書作りをどう考えているのかわからない


この物語は辞書作りの部署周辺の行動しか描かれていなくて、会社として辞書作りをどうしようとしているのかあまり見えない。

一応、「辞書作りは一旦できあがると利益が出る。また出版社として名誉である。だけど、時間とコストがかかるので乗り気でない勢力による妨害もある」という説明はある。

だけど、物語の中で会社内の勢力争いみたいなのが出てこない。

最初の方にちょっとした「辞書作り妨害」があるけど、いつの間にか消えてなくなっている。

別に『半沢直樹』みたいなドロドロしたやつを期待しているわけではないけど、あまりにもその辺の描写がないので、辞書作りに対するリアリティに疑問を感じてしまう。

もちろん、ただたんにその辺は描いていないだけで、実際は裏で会社がいろいろ動いているかもしれないけど。

ただ、僕の想像力ではその辺は補間できない。




言葉の大切さを伝えたい物語


この小説は、「言葉の大切さを伝えたい」というのはすごくよくわかる。

ただ、それが先走りすぎて物語がそれに引っ張られすぎている感じがする。

登場人物たちに、「言葉の解釈」について、いろいろ語らせるために、辞書作りという設定を持ってきたんだろうなぁ、という印象がどうしてもしてしまう。


それだったら、別に小説じゃなくて、エッセイでもいいじゃないかなぁと思ってしまう。

そういう風に思うと、物語に入っていけずに、なんとなく白けてしまう。


雰囲気は悪くない

ただ、雰囲気は悪くない。

なんとなく好感を持てる。嫌味な感じは全然しない。

ヒロインが宮崎あおいだったらドキドキするだろうなと思う。


だから、好きな人が多いのもよくわかる。

ただ、僕には少し合わないんだろうなと思う。

2014年2月11日火曜日

【感想文】『ペテロの葬列』/僕はこの結末に爽快感を覚える

『ペテロの葬列』読んだ。


ペテロの葬列
ペテロの葬列
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宮部 みゆき
集英社
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いつか、僕は「宮部みゆきの小説はあまり大きな事件が起こらない」的なことを描いたことがあるけど、あれは嘘です。

今回は(というか、前作『名もなき毒』も)割と大きな事件が起こっている。

よく考えれば、(小説は読んだことないけど)『模倣犯』とか結構大事件だった気がする。(映画は見た)



それでも、宮部みゆきの小説は、事件そのものよりも、その事件が起こった背景の闇の部分をより重要視しているような気がする。


その事件が起こったという事実は、氷山の一角でその背後にはとてつもなく恐ろしい闇が広がっているということを意識せずにはいられない。



まぁ、そんなところです。




ここからネタバレ注意です。











この『ペテロの葬列』は、Amazonやらブクログやらのレビューを見ていたら、割とネガティブな感想が多いようでした。

どうやら、最後の最後のどんでん返しが、衝撃的だったわけで、残念に思った人が多かったようです。


僕も、最初読んだとき、衝撃の結末にガツーンと凹まされた。

だけど、そのあと、エピローグを読むと、何故か爽やかな気分になった。

不思議です。

(レビューサイトを見る限り爽快感を覚えた読者は少数派のようですが)


なんでこんなに爽やかな気分になるんだろうと考えてみた。





僕が思うに、なんとなく菜穂子の行動は、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』のクミコと重なる部分がある。



ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)
村上 春樹
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菜穂子は、『ねじまき鳥』のクミコのように必死に何かを訴えかけようとしていたと考えるべきじゃないだろうか。と思う。



つまり、菜穂子はこのような形でしか、二人の関係を前に進めることができなかったんじゃないだろうか。(『ねじまき鳥』のクミコのように)

もちろん、褒められたやり方じゃないし、もっとうまいやり方があったとは思うけど、結果的に人生を一歩進めることができたのは、菜穂子の行動だったことは否定できない。

(いや、他の人ならもっとうまいやり方があったかもしれないけど、菜穂子に限って言えば「他の手段」はありえなかったという気もする。これが菜穂子がとれる「唯一の手段」であったとみるべきか。)

それに、こんな結末になったのは、結局、自分自身で人生を一歩進めることができなかった杉村自身の責任でもある。

ある意味では、そういう汚い役を菜穂子に押し付けてしまったともいえる。いや、あえて菜穂子が汚れ役を買って出たといってもいいかもしれない。

だけど、そういう風に菜穂子変えた(いい意味でも悪い意味でも)のは杉村だし、二人が結婚したことは大きな意味があった。(それはエピローグでも語られている。)

もともと、杉村も菜穂子も問題を抱えていた。二人とも器用じゃない。不器用だけど、もがきながら、誰かを傷つけながら、ようやく物語を一歩前に推し進めることができた。

そういう達成感がある。

だから清々しい。


僕はそう思います。

これは、ネガティブな物語ではなく、かなりポジティブな物語と捉えるべきだと思う。


ただし、今回は(と言うより今回も)杉村はあくまでも受け身でした。

主体はあくまで菜穂子でした。


次のステップがあるとすれば、今度は杉村自身が自らの意志で菜穂子を迎えに行く、そういう物語だと思います。



僕はその物語を楽しみにしています。

2014年2月10日月曜日

『ドライブ・マイ・カー』と中頓別町の問題について、いちハルキストとして思うこと

先日、村上春樹が話題になっていた。




いちハルキストとして、これについて一言書かずにはいられなかったので書きます。

件の『ドライブ・マイ・カー』は文芸春秋2013年12月号に掲載された短編小説です。

文藝春秋 2013年 12月号 [雑誌]

文藝春秋 (2013-11-09)

あんまり文芸雑誌って読まなかったんだけど、これを機に図書館で借りて読んでみた。


話題になっている箇所は、中頓別町出身の女性ドライバーがたばこをポイ捨てしているところを、主人公が見て”たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう”と思うシーン。

なるほど、これだけ読んだら、中頓別町のそれなりの人は、立場上怒らないといけないのもわかる気がする。

きっと、

A「先生! 村上春樹の小説に我々の町が載ってます!」

B「なに! 村上春樹はなんて言っている?」

A「わが町では、ポイ捨てをすることが普通だといっています!」

B「なんだとw けしからん! 抗議だ!」


とまぁ、多少大げさだけど、こんな感じで小説全体ではなく「ポイ捨てをしている」という部分だけで、判断されてしまったんだろう。


もちろん、町議会の方もお忙しいだろうから、小説を全部読むなんてことをいちいちしないだろう。しょうがない。

村上春樹は世界的に有名な小説家だとしても、一般的にはただの小説家の一人にすぎない。


それに誰だって、自分の町のことを悪く言われたら腹も立つ。



ただ、ちゃんと全文読んでみると、村上春樹は別に侮辱とか悪くいっているわけではないというのは(普通の読者なら)わかるはずだ。


この物語の主人公は、よく言えば物事を判断する自分なりの基準というものをしっかり持っている。悪く言えば偏見に満ちている。


冒頭に、主人公の女性に対する考え方が描かれているんだけど、そこからもよくわかる。

これまで女性が運転する車に何度も乗ったが、家福の目からすれば、彼女たちの運転ぶりはおおむね二種類に分けられた。いささか乱暴すぎるか、いささか慎重すぎるか、どちらかだ。
そんなわけない。だけど、主人公はそういう男だ。決めつける。

この主人公は基本的に偏見だらけだし、それは「盲点」という言葉でも示されているように、この物語の重要なキーワードにもなっている。



だから、まさに主人公は中頓別町に対して偏見と誤解を持っている。

「たばこをポイ捨てするのが普通」というのは偏見であり、誤解だ。


偏見で誤解であることに対して、「偏見で誤解だ!」と抗議されたら、「おっしゃる通り偏見で誤解でございます」としか言いようがない。


だけど、村上春樹はそんな大人気のないことを言わずに、大好きな北海道の方々に不快な思いをさせないことを優先させた。大人の対応だ。と同時にちょっとしたあきらめの気持ちもあるような気がする。そこまで頑張ってわかりあおうとはしないというあきらめ。




今回の問題は、村上春樹のコメントにあるように、とても「残念」な結果だと思う。


中頓別町の方も、自分の町を愛するからこそ、こういう抗議に発展したわけで。


もし、町議会の方が小説が好きで、ゆっくり小説を読む時間があれば、きっとわかりあえたと思う。
(でも万人が小説好きなわけじゃないし、ひまじゃない。)


ちゃんとかみ合えば、もっと違った形になったんじゃないかなあと思うと「残念」です。



でも考えてみたら、抗議があるのは中頓別町だけだったということで良しとするべきなのかもしれない。
物語の中には他にも突っ込みどころ(飲酒運転や女性に対する偏見etc etc...)がたくさんあるんだから。




それにしても、この件にたいする村上春樹のコメントが、素敵だ。

僕は北海道という土地が好きで、これまでに何度も訪れています。小説の舞台としても何度か使わせていただきましたし、サロマ湖ウルトラ・マラソンも走りました。ですから僕としてはあくまで親近感をもって今回の小説を書いたつもりなのですが、その結果として、そこに住んでおられる人々を不快な気持ちにさせたとしたら、それは僕にとってまことに心苦しいことであり、残念なことです。中頓別町という名前の響きが昔から好きで、今回小説の中で使わせていただいたのですが、これ以上の御迷惑をかけないよう、単行本にするときには別の名前に変えたいと思っています


この手のコメントは、けんか腰になったり、堅苦しい形式だけの謝罪だったりすることが多いけど、村上春樹のコメントは、出だしから「いまからエッセイでも始まるのかな?」と思ってしまうくらい自然な文章だ。

「僕は敵じゃないよ」「喧嘩するつもりはないよ」っていうような親しみを感じる。

さすがは小説家だなぁと思う。

(こういう気障な感じが嫌だという人もいるだろうけど)





とまぁ、こんな風に書いては見たものの、結局は僕がハルキストだから、村上春樹側を擁護してしまうけど、これがあんまり好きでない作家のものだったら、一緒になって叩いてしまいそうな気がする。
自分の嫌いな作品にも公平さを持ちたい。

2014年2月6日木曜日

クラシックにハマりました

クラシックにハマりました。

年末に、友人に九州まで車で連れてってもらったんですが、道中、カーステレオで聞かせてもらったクラシックがなんかよかった。


いままで、なんかの待合室とかで、BGM程度にしか聞いたことがなかった。

しかも、小さなボリュームで。

でも、クラシックって、結構しっかりしたボリュームで聞くべきなんですね。

そして、なんかしながらBGM程度に聞くより、しっかり腰を据えて聞いた方がよいみたいです。


なんか、グッときました。



最近、歌詞がある音楽を聞くに疲れてしまう、と思っていた。

年を取ったせいでしょうか?

言葉の意味と、それを音楽に乗せる意味とを考えてしまって、「なぜこの人は、この音楽にこの言葉を乗せているんだ?」みたいなことを考えてしまって疲れる。



なので、最近は歌詞がほとんど(というか全く)わからない洋楽とか、JAZZを聞くことが多くなっていました。(なんか、おしゃれっぽいから)

でも、クラシックはなんとなく敬遠してました。(難しそうで退屈そうだから)




ところが、年末のドライブで「これはいい!」と思った次第です。

「言葉ではなく心で理解できた!」と思ったわけです。



これから、少しずつクラシックを聞いて行こうと思います。


そして、クラシックのイイところとか、気に入った曲とかを紹介していければいいと思います。


※初心者におすすめの曲があれば教えてください。

2014年2月5日水曜日

成長をやめることができない子供たち

先日、子どもの自立と昔話の関係について書いた。


【感想】『昔話とこころの自立』/自立する子どもと、親の振る舞い方


そして、ふと「現代の物語はどうだろうか?」と思った。

現代の、子どもの成長の物語と言えば、まず思いついたのは『ワンピース』だ。(他にもいっぱいあるだろうけど、とりあえず)

昔話と、少年漫画を比較するのは、全然ジャンルが違うし、一方の論理で他方を論じるのはフェアじゃないけど、まぁ、ひとつの見方としてとりあえず書いてみる。


昔話では、子どもは3つのステップを踏んで自立するようだ。(前のエントリーを参考)

幼少期から少年期、少年期から青年期、青年期から大人。

自立した大人は、やがて親となる。つまり、子どもにとっての保護者であると同時に自立を阻む存在となる。

そして、自らの子どもにやられることで、解放され、穏やかに死に向かう。

これが、昔話の人生観だ。


異論はあるかもしれないけど、とりあえずこれが「正しい」とする。


顧みて、『ワンピース』に代表する少年漫画はどうだろうか。


これは僕の印象だけど、彼らは成長する。どこまでも成長する。

終わりというものが見えない。


もちろん「”ワンピース”を手にすることがゴール」という設定はある。

にもかかわらず、一向に終わりと言うものが見えてこない。



これは、おそらく少年漫画を取り巻く環境によるものだと思う。


つまり、「連載」を軸とした経済活動だ。



『ワンピース』は面白い。


面白いから売れる。


売れるならできるだけ売り続けたい。


だから物語は続く。


ただ続くだけでは面白くない。


彼の成長する姿こそ面白い。


だから周りは、ルフィに成長を期待する。


そして更に試練を与える。


彼は乗り越える。


そして、成長をつづける。




これは本人(ルフィ)にとっては結構キツイことなんじゃないだろうか。
(モチロン物語の中ではそんなそぶりは一切見せないけど)

『ワンピース』を取り巻く環境(読者、作り手含む)は、自分の子どもに対して過度に期待する教育ママを連想させる。

成長をつづける主人公は、増殖をコントロールできなくなった癌細胞を連想させる。



昔話の時間の流れが人間一生を規準に作られているのに対して、少年漫画は経済学の論理が時間の流れを支配しているといえる。


人間の時間を無視して、経済のロジックで人間を語ってしまうとどっかで歪みが出てしまわないだろうか。


例えば、成長し続けなければならない人生に疲れてしまう。
上手に次の世代にバトンタッチができなくなる。
上手に死に向かっていけなくなる。etc...


少年漫画自身にも、歪みは生まれる。

「力のインフレ」と言われる現象がそれだ。


僕らは、無意識に「成長し続けることが正しい」と思いこんでいないだろうか。

「成長し続けることが正しい」を表現する漫画が、我々にその考えを強化する。

「成長し続けることが正しい」という我々が、そういう漫画を作り出す。

お互いが相互に影響しあって、「成長し続けることが正しい」という考えがどんどん強固になっていく。

それが正しいうちはいいけど、仮に間違っていたらと思うと、ちょっと怖い。


『ワンピース』は面白い。

だけど、僕らは、そろそろルフィに成長をやめることを許してやるべきじゃないだろうか。

子どもの成長を見ているのが楽しいからと言って、いつまでも手元に置いておくことができないように。


そんな風に思う。



もちろん、物語はいろんな見方ができるわけだから、こんな一方的な考えで『ワンピース』がダメだとか、現代の漫画がダメだとか言ってるわけじゃない。

ただ、こういう風に考えられるなぁと思っただけだ。

昔の人だって、『南総里見八犬伝』に「いつ終わるんだよ、なげーな。終わりが見えねー」って言ってたかもしれないし。(『八犬伝』読んだことないからイメージだけど。)

あと、今の漫画の中にも、明確な終わりが初めから設定されてあって、それに向かって突っ走る物語もある。(浦沢直樹の漫画とか、そいうのが多い)


それに、『ワンピース』も最近、ルフィにあこがれる海賊が出てきたり、少しではあるけど、立ち位置が変わってきたきがする。(つまり、次の世代を匂わせている)


そもそも、僕のこんな考え方は全く間違っていて、やっぱり人間は成長し続けないといけないのかもしれない。


よくわからなくなってきた。

とにかく、昔話の「子どもの自立」論をもとに、今の話を見てみたらどうなるかなと、考えてみただけです。





いろいろ書いてみたけど、『ワンピース』は面白いのは間違いないと思ってる。

2014年2月3日月曜日

【感想】『昔話とこころの自立』/自立する子どもと、親の振る舞い方

最近、絵本に興味がある。

せっかくなので、絵本に関する本を読んでみようと思い、この読んでみた。



昔話とこころの自立
昔話とこころの自立
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松居 友
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僕が好きな『だいくとおにろく』が表紙に使われていたので、何気なく手に取ってみた。

読み進めていると、次のように書かれていて仰天した。

”松居直は私の実父ですから”

ん? 実父?


なんと、この本の作者、松居友さんは、『だいくとおにろく』の作者(正確には“再話”だけど)の松居直さんの息子さんのようだ。

 Wikipediaで調べてみたら、松居一家は生粋の絵本一家ということがわかった。


お父さんは、自ら絵本を手掛けながら福音館書店の編集長、社長してたみたいだ。
妹さんは”わにわにシリーズ”の小風さちだし。



すごい。



松居友さん自身は、児童文学者だそうで、なるほど、この『昔話と心の自立』はとても面白かった。


内容もとても面白かったし、その語り口調も子どもに言い聞かせるような、とても心地がよくてわかりやすかった。




で、その内容。



タイトル通りで、昔話には子どもが自立するためのエッセンスがたくさん盛り込まれている。


「子どもが自立するためにはどうすればいいか?」という問いは「人間が生きるためにどうすればいいか?」に等しい。




この本に取り上げられているのは、『だいくとおにろく』、『三枚のおふだ』、『三匹のこぶた』、『三匹のやぎのがらがらどん』など。


これらは鬼や、山姥やらが象徴する負の存在から逃れる、あるいはやっつける話だ。


曰く、鬼やら山姥やらは、子どもの自立を阻むものである。

鬼、天狗、トロルといったものは、主に父親を指している。(あるいは父親の背景にある社会を指す)

簡単に言えば「お前なんか社会に通用するか!」という抑圧のエネルギー。


山姥や、魔女は母親を指している。

こちらは「いつまでもアタシのところにいるんだよ」という束縛のエネルギー。

(それだけではないけど、そんな感じ)



そして、それに対して、子どもたちは何とか対抗する。

そのヒントが、物語の中に示されている。


多くの物語で共通していることは、子どもの自立へのステップは3段階あるらしい。

ステップ1:幼少期→少年期
ステップ2:少年期→青年期
ステップ3:青年期→大人


『三枚のお札』、『三匹のこぶた』、『さんびきのやぎのがらがらどん』etc...

たとえば『三匹のこぶた』の場合

1番目の豚:
家を作った。でも家が藁。稚拙。すぐやられる。
これは、幼少期→少年期を表す。

2番目の豚:
木で家を作る。ちょっとまし。でもやられる。
これは少年期→青年期。

3番目の豚:
家が煉瓦。やられない。幸せに暮らす。
青年期→大人。自立。

みたいな感じだ。



なるほど。と思った。

絵本(というか、昔話)奥が深い。

なかなか、興味深い内容なので、ぜひ子どものいる親には読んでほしいと思うわけです。

まぁ、この解釈が全てだと思ってしまったらそれはそれでつまらないので、あくまでも考え方の一つとして。




で、ここまでは要約。



ここからが思ったこと。



昔話には、子どもの自立のヒントが描かれている。

それと同時に、そのあとの人間の振る舞い方のヒントも描かれていると思う。



つまり、自立した後、どうするか?


われわれ親側はどうするべきか? にも触れられていると思う。



ぼくはこう思う。


彼らは大人になり、やがて子どもを授かるだろう。

そして、今度は子どもたちが自立に向かって育っていく。

すると、かつて桃太郎だった者は、今度は自らが鬼になる。

がらがらどんだった者は、トロルになる。

こぶたはオオカミになる。

白雪姫は魔女になる。


これは避けられない。


なぜなら、親は子どもの成長を助けるものであると同時に必ず阻害するものだから。

それはしょうがない。

優しくすればするだけ山姥になるし、厳しくすればしたで鬼になる。

いつかは、子どもは親から自立するし、しなければならない。

子どもが自立を試みたタイミングで、どうしたって親は鬼であり、山姥である。



そこから目をそらすと、余計に自らの鬼や山姥を肥大させる。


親ができることは、内なる鬼や内なる山姥を自覚することだけである。



大工が鬼六の名前を当てて、その力をそぎ落とすことに成功したように、僕ら親は自らの鬼を自覚することで、かろうじてそいつらを抑えることができる。


だけど、それだけじゃ十分じゃない。

それだけだと、まだ抑えているだけだ。


親は、自分の子どもたちに「やっつけられること」で自分の内なる鬼や山姥から解放される。

内なる鬼や山姥から解放されて、初めて高砂のおじいさんとおばあさんに象徴されるような理想の老年期を迎えることができるんだと思います。

たぶん。


われわれは、心のどこかで、子どもたちにやっつけられるのを待っている。

その時に、うまくやっつけられないといけない。



これは手加減するという意味ではなくて、引き際が大事ということです。

子どもと親が共倒れにならないように。

やられることを恐れない、子どもに去られる極端に恐れないというか。

(うまく言えない。僕はまだそういう境地に立っていない)



そうやって、親から子、子から孫へとつながっていくことが大事なんだと思います。




そう考えると、親が子どもに昔話を聞かせるのは皮肉なことです。


親は子どもに「自分が滅ぼされる物語」を語っているわけだから。



いつか、僕は子どもにやっつけられるのを楽しみにしようと思います。



そう簡単にやっつけられないぞと意気込みながら。



※追記(2014/02/05)
この本の、『てんぐのこま』という昔話について書かれている章は読み飛ばしたまま、このエントリーを書いてました。僕が『てんぐのこま』を読んだことがなかったからです。
図書館で『てんぐのこま』借りて読んでから、改めてその章を読みました。
すると、僕が書いていた”親はあとくされなく負けなければならない”と言うような内容が、ちゃんと書いてありました。
僕の感想は、とくに目新しいモノでも何でもなく、少しがっかりしたと同時に、同じような考えをしている人(作者)がいてうれしいという気持ちです。

2014年2月2日日曜日

子どもに「自分のことは自分でしなさい」と言い続けてきた結果

親ばかな言い方かもしれないけど、うちの子はすこぶる優秀なようだ。


うちでは、子どもが何でも一人でできるように、「自分のことは自分でしなさい」「自分でしたことは自分で後始末しなさい」と言い続けてきました。


すると、この頃、うちの子は「これはお父さんのせいやろ! お父さんしろ!」とか、「これは僕がやったんじゃない!」とか言って、何でも人にやらせたり、人のせいにするようになってきた。


親の姿をよく観察し、親のやることを同じようにやって見せる。

そういう意味で、学習能力は非常に高い。




子どもは、親の期待通りには育たない。

子どもは、親と同じように育っていく。



子育て難しい。