2014年12月21日日曜日

サンタクロースの不在性

もうすぐクリスマス。息子は「サンタさん捕まえるネン!」と意気込んでおります。

とても可愛らしい目標ですが、彼のささやかなその夢は叶うことはありません。

なぜなら、不在であることがサンタクロースがサンタクロースたる所以だからです。

人と人は、ここにあるものよりも、“ここにないもの”を共有するときに、強く結び付けられる(らしい)。

(たしかに、お互いにとって自明のことに対してコミニケーションをとる必要はなく、目の前にないものをお互いが理解し合うことがコミニケーションの本質かもしれない。違うかもしれないけど。)

戦没者を共有することで国家はつながる。

救世主を待つことで宗教が生まれる。

サンタクロースを共有することで、家族は繋がる。

語らいの中で、子どもが考えるサンタクロース像と、親が考えるサンタクロース像をすり合わせ、その家庭独自のサンタクロース像を作り上げる。

各家庭はオリジナルのサンタクロース像を持ち、同じサンタクロース像を持つのが家族である。

たぶん。

サンタクロースは、その不在性に意義がある。

そして、サンタのプレゼントは、サンタクロースの存在の「しるし」だと思う。

サンタクロースは永遠に不在である。だけど確かに存在している。

なぜなら、親と子供は確かにここにいないのサンタクロースを共有したんだから。

その証として、朝、ツリーの下に(あるいは枕元に)プレゼントが置かれる。

子どもは、プレゼントを通して見たこともないサンタクロースの存在を実感する。

(それが“僕のことを分かってくれているサンタ”なのか“全然分かってないサンタ”なのかはわかりませんが、とにかく実感する。)

誰も見たこともないにもかかわらず、それでもなお、お父さんとお母さんと子どもは同じサンタクロース像を共有している。

それは、すごいことだと僕は思う。奇跡的だと思います。

サンタクロースは偉大です。

大切なのは、家族がサンタクロースという物語を共有することだと思います。

2014年12月9日火曜日

自然のサイクル、人のサイクル

通勤中に電車から、海が見える。

海の表情は毎日違う。

眩しい太陽をぎらぎら反射させている日。

どんより雲が立ち込めている日。

静かに雨が降り注ぐ日。


だけど、100年たっても海は、大体こんな海なんだろうと。



通勤中に、電車から街並みが見える。

人口の町並みは、毎日大体同じ。

晴れていようが、風が吹こうが、雨が降ろうが、ほとんど表情は変わらない。


だけど、100年たったら今ある街並みは、ほとんど跡形もないだろう。



 だからどうだというわけでもないのだけれど。

『負の方程式』/宮部みゆきが提示する、新しい探偵像

宮部みゆき『ソロモンの偽証』文庫版の最後についていた中編、『負の方程式』を読んだ。

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この『負の方程式』では、宮部みゆきの「新しい探偵像」というのもを、かなり意識的に描いていると思う。

シャーロックホームズのようなインテリ探偵でもなく、フィルップ・マーロウのようなハードボイルドでもなく、コナンのように体は子どもでもなく。
(あまり探偵物を読んでないので、ミステリー小説の歴史についての知識は適当だけど)


宮部みゆきが提示する新しい探偵像は、「だっせえ探偵」。

宮部みゆきは、この中編『負の方程式』を“ボーナストラック”的に挿入したといっているけど、その内側には、この新しい探偵像をこれから世界に向けて押し出していこうとする作家としての野心を感じずにはいられない。

楽しみです。

2014年11月24日月曜日

もし君が妖怪をウォッチすることができたなら

もし君が妖怪をウォッチすることができたなら、妖怪はそこにいないということなんだ。

2014年9月11日木曜日

花いちもんめは「システム」に対するワクチンである

先日、小学生が「花いちもんめ」をしているところに出くわした。

改めて見てみると、花いちもんめって面白い。

やっているうちに、だんだん呪術的な趣きが出てくる。


なんというか、右チームと左チームでメンバー自体はどんどん入れ替わっているはずなのに、それぞれのチーム自体が独立した意志(人格)を持ちだしているように見える。

右チームは左チームに勝ちたいと思っているし、左チームは右チームに勝ちたいと思っている。

それは、人が入れ替わっても持続する。



よくできた遊びだなぁと思う。


個人レベルでは、その場その場の勝ち負けに一喜一憂しているんだけど、それとは別に集団としての勝ち負けがある。

しかも、個人の意志は、どの集団に属するかで180度変わってしまう。集団の意志の中に飲み込まれてしまう。

なんというか、人間というものの不思議さを教えられる。


たぶん、この集合的意識みたいなものは、村上春樹が言っている「システム」というものなんだと思う。


その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。(【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)

我々は「花いちもんめ」というシステムを作った。だけど、いつの間にかシステムのために我々が競い合っている。

もちろん、花いちもんめは楽しい遊びだ。

だけど、たぶんこれは、ある意味で社会の縮図なんだと思う。


僕らはある意味で、巨大で複雑な「花いちもんめ」の中で生きている。

そいつらは、資本主義と言ったり、民族自決と言ったり、まあ、いろいろ。

花いちもんめのように楽しくやっているうちはいい。

だけど、気を付けないと「システム」は僕ら人間に憎しみ合ったり、殺し合いをさせたりする。


だから村上春樹は言っている。

「システム」がわれわれを食い物にすることを許してはいけません。「システム」に自己増殖を許してはなりません。「システム」が私たちをつくったのではなく、私たちが「システム」をつくったのです。(【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)
(なんだか話が大きくなってきた)


だから、「花いちもんめ」って怖いなぁと言っているんじゃなくて、こういう遊びは社会に対する「ワクチン」みたいなもんなんだろなぁ、と思うわけです。



そういうことを遊びの中に取り入れてきた昔の人はすごいと思う。


(今回書いたことは、あくまでも「花いちもんめ」の面白さの一部です。ふと思ったことを備忘録的に書いただけです)



2014年9月6日土曜日

ゴーシャマダー

人もまばらな帰り道。

ようやく駅にたどり着く。

改札くぐるその耳に、

ふと聞こえるその言葉、

「ゴーシャマダー」。


僕は思わず立ち止まり、


心の中で口ずさむ。


「ゴーシャマダー」


夜を横切る電車の中、

何故か頭から離れない。

「ゴーシャマダー、ゴーシャマダー」




優しく響くその言葉。


疲れた心が癒される。



浅くまどろむ闇の中、


僕はふと気が付いた。



あれはたぶん、


「ご乗車ありがとうございまーす」だったんだろう。

2014年8月23日土曜日

【子育て】感想を保留状態にすることは大事だと思う

先日、ひさしぶりに姪っ子(小学4年生)にあっていろいろ話をした。

「『アナと雪の女王』を見た」というので「どうやった?」と聞いたら、

「わかりやすかった」

という答えが返ってきた。


わかりやすかった!


“面白い”とか“ツマらない”とかではなく、“わかりやすかった”ってどういうことだろう。

“わかりにくかった”っていうなら理解できる。

だけど、“わかりやすかった”っていう答えは僕を混乱させた。

だって、何かがわかったんならそれに対して何かしらの感想が想起されてしかるべきではないか?

「話の流れはわかった。で、結局何が言いたいの?」ってことだろうか?




「わかりやすかった」っていうことは、結局「何一つわからなかった」っていうことだろうか?


僕はあれこれ考えた。

『アナと雪の女王』は中身のない空っぽの映画なんだろうか?

姪っ子の(映画に対する)読解力が弱いんだろうか?

姪っ子のコミュニケーション能力の問題だろうか?



しばらく考えた結果、こういう結論に達した。




映画も姪っ子も何の問題はない。


問題があるのはむしろ僕の方だ。


僕の「映画どうやった?」っていう質問がそもそも適切ではなかったんだという思いに至った。



ます、映画はたぶん素晴らしいものなんだろう。(見てないからわからないし、これからも見るつもりはないけど。)


姪っ子は「わかりやすかった」と言っているが、たぶんそれは「ストーリーの流れはわかった」ということだろう。話の前後関係、因果関係は子どもにも理解できたということだろう。
だけど、きっと、彼女はこの物語が「面白かった」とか「感動した」とか「面白くなかった」とか、そういう感想を“保留”している。

にもかかわらず、そのうえで彼女はこの物語が好きなようだ。(それは、映画の中の歌を楽しそうに歌ったりしている様子からわかる)

たぶん、そういう物語は素晴らしい(はず)。


「なんだかよくわからないけど、この物語には何かしら大事なことが込められている」ということを彼女はよくわかっている。それは、単純に「面白い」とか「感動した」とかでは言い表せないものだ。

僕だって「『フラニ―とズーイ』ってどうやった?』って聞かれたら、困ってしまう。


面白いかと言われたら、まあ面白いんだけど、別に大笑いする話でもないし、いらいらする部分もあるし、、、なんと答えたらいい変わらない。「自分で読んでみてよ」って言うしかない。(読んでもらったとしても同じ感想を得られるわけでもないけど)


たぶん、素晴らしい物語はそういう類のものだと思う。言葉で言い表せないけど、直観的に何か大事なことが詰まっている、今はわからないけど、いつかわかるときが来るかもと思わせられる部分がある、そういうもの。

だいたい、もし物語を一言で言い表せるならそもそも物語なんていらない。

そういう意味で、『アナと雪の嬢王』はたぶんいい映画なんだろうと思う。


そして、姪っ子の読解力、コミュニケーション能力にも何の問題もない。むしろ素晴らしいものを持っている。

『アナと雪の女王』には何かしら素晴らしいものが秘められていると直観的に感じている。それだけでたぶん十分だろう。たぶん、これはいくつになっても大事なものだと思う。何でもかんでもわかった気になってしまうと、それ以上深く物語を読み解くことはできない。(姪っ子は「わかりやすかった」といっているけど、まぁ、それは「何もわからなかった」の裏返しなわけで。)

コミュニケーション能力についても、僕が「どうやった?」と聞いたから仕方なく答えただけで、むしろ僕の方に問題がある。それに、単純に「面白かった」とか「つまらなかった」と答えずに、何とか感想を“保留”しようとする試みが見られる。
自分の中でこの映画の位置を固定したくないという抵抗を感じる。
素晴らしい判断だと思う。




それに比べて僕の軽率な言動は何だろう、猛省している。

僕はいったい何を聞きたかったんだろう?

「面白かった」という答えを期待していたんだろうか?

それとも「『アナと雪の女王』はキリスト教とイスラム教を象徴している(適当)」とか言うよくわからない論説を期待していたんだろうか?




いずれにしても、僕の不用意な一言で、彼女の中で『アナと雪の女王』は“わかりやすい物語”という位置付けになってしまった。

それは、とても申し訳ないことだと思う。
だけど、でもたまたま今回は、彼女自身の力で“わかりやすい物語”程度ですんだ。



たぶん、普通なら単純に「面白い物語」とか「アナがかわいい物語」として固定されてしまうところだ。


だけど、さっきも言ったように、物語はそんなに単純じゃない。言葉で表現できないから僕らは物語る。(村上春樹も、「フィクションで真実をおびき出す」みたいなことを言っていた。たぶん、真実を語るには物語りが必要なんだと思う。)

それをお手軽に子どもから引き出そうなんてすることは、たぶん間違っている。

だから、僕らは子どもに語りかけるときは、とても注意を払わないといけない。(払いすぎて緊張するのもだめだけど)


映画に限らず、僕らはつい「どうやった?」と聞いてしまう。

絵本を読んだり、動物園に入ったり、保育園から帰ってきたり、いろんなシーンで。


たぶんそれは、僕らの満足のために聞いている。僕らが提供したサービスがよきものであったことを確認するために聞いている。(あるいは悪かったとき、次より良くするために。)


だけど、子どもたちのために、それらの体験の意味を“保留状態”にしてあげることも大事なんじゃないだろうか。

それは、“自分の感想を的確に表現する”みたいなことよりもっと大事なことなんじゃないだろうか。



※とはいうものの、映画を見たり、動物園に入ったり、特別なことをした後は何かしら語り合いたいもので、じゃあどういう話をするべきかは、僕も模索中です。とても難しい。
例えば動物園にいったなら、「なにを見た」だとか、そういう事実を提供してやって、自然に子どもの方から感想が出てくるのを待ったりしている。それがよい方法かどうかはわからないけど。

2014年7月25日金曜日

問題提起という怪物

世の中には、あえて社会のタブー(あるいは限りなく黒に近いグレーゾーン)に踏み込むことで、問題提起をするタイプのアートがある。


作った本人は、その問題がなくなる、あるいは縮小されることを望んで作る。もちろん。


だけど、作られた作品自体は、作者の意志とは別に、提起された問題がより大きくなることを望む。

問題が大きければ大きいほど、その作品の価値が高くなる。

まるで意志を持った怪物のように自己主張を始める。

「俺は大問題だ! おれは大問題だ!」


そして作者は思う。

「これは大問題だ。やっぱり私の考えに間違いはなかった。」


問題提起型のアートには、こういう自己矛盾が付きまとうと思う。



もちろん、中には何が問題かわかりにくい場合もあって、そういう時にはアバンギャルドで直接的な表現で問題を表に出すというのもありなんだと思う。


ただ、少なくとも作者は自分が作ろうとするものの怪物性を理解するべきだと思う。


自分は怪物を世界に解き放とうとしているということを理解するべきだと思う。



僕はどちらかと言うと、アートっていうものは、もっと遠回りな表現の方が好きです。


村上春樹は言っていた。

だからこそ、私たちは真実を隠れた場所からおびき出し、架空の場所へと運び、小説の形に置き換えるのです。しかしながら、これを成功させるには、私たちの中のどこに真実が存在するのかを明確にしなければなりません。このことは、よい嘘をでっち上げるのに必要な資質なのです。(【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)

これは、小説に限らず、アート全般に言えるんじゃないだろうか。

自分自身が問題の一部になったり、問題を作り出したりするよりも、問題の方を隠れた場所からおびき出す方が、アートとして高度だと思います。

そして、平和的だと思います。



アートに平和を求めないなら別にいいですが。

2014年7月23日水曜日

【感想文】『銃・病原菌・鉄』/多様性を尊重すること

『銃・病原菌・鉄』を読んでいる。

難しいかと思ったら、意外と読みやすい。

人類史をざっくり把握するための導入編として良いと思う。

(西洋的文明が必ずしも良いという立場ではなく、できるだけ客観的になろうとしている点に共感を持てる。できるだけ客観的になろうとしつつも、「西洋的思考」から抜け出せないジレンマを抱えているところにも共感を持てる。)



まだ途中だけど、本筋とは別のところで面白いと思ったところをメモ。


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「人と農作物の関連のところで、どのように農業がはじまったか?」についてのところに、とても興味をひかれた。



植物は普通、種子をばらまく仕掛けを持っている。ばらまく仕掛けを持っているものは、人が採集する前に落ちてしまうので、農業に適さない。人が栽培できるようになったのは、穂が実っても落ちない「突然変異」したものである。

また、自然界では、植物はリスクを分散させるために、種子が落ちても何年か芽が出ない。毎年、目が出てしまうと、異常気象なんかで一気にやられてしまうから。だけど、農業的には、種をまいて何年か待つというのは、非効率だ。だから、農業化された植物は、種をまけばその年に芽が出る、これも「突然変異」したものが選別されている。



とまぁ、農業化には他にもいろんな要因があったみたいだけど、僕が面白いと思ったのは、「自然界ではマイナス面でしかなかった要素が、農業化にとって不可欠な要素であり、結果として植物として繁栄した」という点です。


どんなに劣って見えようとも、何がきっかけでマイナス面がプラスに転じるかわからない。


たとえば、呪いのビデオが出回って、目が見える人がみんな死んでしまったとしても、目が見えないというハンディキャップを持った人が人類という種を存続させてくれるかもしれない。


たとえがあんまりよくないかもしれないけど、たぶん、世界は予測もつかない変化で僕らに挑んでくる。


だから、僕らは真の意味で多様性を尊重しなければならない。


既存のものさしで善し悪しを測ってはいけない。


いつか来るかもしれない世界の転換に備えて、なんとしても生き続けること(あるいは生かし続けること)が大事なんだと、劣等感を抱えるネクラ父さんは勇気づけられました。

2014年6月10日火曜日

【感想文】『女のいない男たち』/とりあえずドライブ・マイ・カー』の感想

読んだ。すべての話について感想を書くのは大変なので、とりあえず『ドライブ・マイ・カー』だけメモ。



ネタバレアリ。

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『ドライブマイカー』

みさきとは何ものか

主人公家福は、女性には2種類いると考えている。
“いささか乱暴すぎるか、いささか慎重すぎるか、どちらかだ”
しかし、物語の中で出会う“みさき”は、このどちらかにも当てはまらない。
物語での冒頭に出てくる、家福の“女性論”に当てはまらないというこの事実は、とても重要な意味を持つと思う。

単純に異性として意識しない存在と言うだけではないと思う。

彼女は、家福にとって理解を超えた存在であり、人知を超えた存在であるといえる。


家福は処世術として、世の中をかなり偏見に満ちた目で眺めているように見える。

禍福は目の前のものをとりあえず便宜的に「こういうものだ」と仮定する。

もちろん家福自身も、100%その仮定が正しいと思っていないけど、そういう風に仮定して不都合は特にないし、その方が世界がわかりやすくなるからそうしている。


たとえば、“女性には2種類いる”とか、“〇〇村ではみんなポイ捨てをする”とか。


みさきの登場は、そんな家福を揺さぶる。そして物語が動きだす。


物語の中でみさきは、鶴の恩返しの鶴みたいな、人知を超えたものを与えるためにやってきたんだと思う。


盲点について

この物語は“盲点”が一つのテーマだと思う。


家福は、生きやすいように偏見を抱えて生きている。あまりにもそれに慣れすぎて、それが“盲点”となって、彼を苦しめている。

なぜ、彼の奥さんは“大したことのない”高槻と浮気をしなければならなかったのか。

物語の中で、家福は高槻のことをかなりけちょんけちょんに言っている。

家福は高槻のように愚かな振る舞いはしないかもしれない、だけど、家福は高槻のように正直な気のいい振る舞いもできない。

うまく言えないけど、心の奥底家福は高槻のことを羨ましく感じているように見える。


あんなふうに、正直に素直に生きていけたらいいのにと。

だけど、家福の生き方ではそれに気づくことができない。すでに家福は“高槻は愚かだ”という偏見を持っているため、“高槻の生き方が羨ましい”という気持ちは盲点となって見えない。

そういう盲点が、“妻の浮気”という別の形を持って具現化したんじゃないだろうか。

ある意味で、妻の浮気は“高槻のような(素直な)生き方を望んでいる家福自身”を気付かせるためのメタファーなんじゃないだろうか。

そんな気がする。



実在の土地、架空の土地

単行本化にあたって、『ドライブ・マイ・カー』に出てくる北海道の地名が、実在のものから架空のものに変えられた。

まえがきで
“テクニカルな処理によって問題がまずは円満に解決できてよかった”
とある。

テクニカルな処理によって何とかなる程度で使われてたんだと思うのも、なんだかアレだけど、実在の地名が使われた雑誌を読んだ時と、架空の地名になった単行本を読んだ時と、やっぱり少し印象が違ったので、その辺をメモ。



実在の地名の場合、それは揺るぎようもなく「この町だ」というものが存在する。もちろん、「そんな町聞いたことない」って言う場合もあるし、その場合はそれが実在するのか架空のものなのかすら判断できない。だけど、「実在するのに実在するかどうかわからないような町」という微妙な表現が成り立つ。

架空の地名の場合、その地名がいったいどういう町なのか、どれくらいの規模で、どの辺にあるのか、すべて想像の世界になる。もちろん文脈から判断することはできるけど、すべて読者(あるいは作者)の頭の中にだけ存在する町になる。「実在するかどうかもわからないような架空の町」を表現するのって結構難しいと思う。


と、まあ、かなり細かいニュアンスの違いはあると思うけど、「だだっ広いだけのパッとしない町」という意味においては確かに“テクニカルに処理できる程度の問題”だと思う。


と言うような話をしたら、雑誌掲載時に使われた実在する町に住んでいる人たちは怒るかもしれないけど、3分の2が森林と言われる日本において、「パッとしない」ことのない町がいったいどれだけあるだろうか。星の数ほどある「パッとしない町」の中から作者がそこを選んだのには、「みんな知らないけど、僕だけは知っている」という思い入れはやっぱりあるんじゃないだろうか。

そんな気がします。

2014年6月1日日曜日

蜂蜜採り体験に行ってきたでござる

蜂蜜採り体験に行ってきた。

なかなか貴重体験だったので、記憶が新しいうちにメモ。

※以下は、単に僕の記憶をメモしたもので、記憶違いや考え方の相違やら、云々かんぬんで、事実と異なることがあっても僕は一切責任持ちません。あと、蜂に刺されたり、挙句の果てになんたらショックが起こったり、なんやかんやしても自己責任でお願いします。

イベントの趣旨

  • うちの実家の地域をテリトリーにするJA主催のイベント。
  • JAが地元ブランドとして最近売り出した有機農法、無農薬の米のPRとして催された。

米と蜂蜜

  • この米は化学肥料を使わない代わりに、「ヘアリーベッチ」と呼ばれる植物を肥料にしている。
  • ヘアリーベッチは、根っこに「根粒菌」と呼ばれるバクテリアを形成する。
  • 根粒菌は空気中の窒素を肥料に変える。
  • 田植えの前に、ヘアリーベッチごと田んぼを鋤(す)くと化学肥料を使わない土壌の出来上がり。
  • ヘアリーベッチは、マメ科の植物で、紫色の花を咲かせる。"ベッチ"とは、肥料になるマメ科の植物のことで、茎に産毛のような毛が生えているため、このように呼ばれる。花の色と形が"藤"に似ていることから、日本ではクサフジとも呼ばれる。
  • 肥料になる植物には、レンゲソウなどもあるが、ヘアリーベッチは、寒さに強く丈夫なので、最近はヘアリーベッチを利用するところが増えてきた。
  • ヘアリーベッチからはよい蜂蜜を採ることができることから、JAと養蜂家がコラボしている。
  • ヘアリーベッチの蜂蜜は透明度が高い。(透明度の高さと味の関係はよくわからない)

ミツバチ

  • 今回のミツバチは西洋ミツバチ。
  • 蜂は黒いものを攻撃する傾向がある。山に入るときや蜂蜜を採るときなどは黒いものを身に着けない。
  • ミツバチは、針を刺すと死んでしまう(針に返しが付いていて、針が抜けてしまう)。なのでよっぽどなこと(集団として危険であると判断するようなことなど)がない限りは刺さない。
  • ミツバチには偵察隊がいる(ぶんぶん飛び回っているやつ)。こいつを手で振り払ったりすると、集団で襲ってくることもある。目障りでも無視すること。
  • ハチの巣に近づくときは、肌を露出させない。頭から網をかぶる。ただし、軍手はNG。ミツバチは、足が絡まって飛び立てなくなると、最後の手段として針を刺すかもしれない。ゴム手袋のようなツルツルしたものが○。
  • オスは働かない。生殖のためだけに生きる。働かないので、花の季節が終わると巣から追い出され、文字通りのたれ死ぬ。あわれ。
  • 働き蜂の寿命は蜜を集める時期で6週間ぐらい。それ以外だと2~3か月くらい。
  • 働き蜂は一生のうちにスプーン1杯くらいの蜜を集める。
  • 働き蜂は、最初のうちは巣の中で働く。年老いてから外にみつを集めに行く。
  • 働き蜂の活動範囲は2から3キロ。ただし、巣の周辺に花がいっぱいあるなら、そんなに遠くに行かない。
  • 蜂の巣の六角形の部分は、蝋(蜜蝋)でできている。蜜を一旦体内に取り入れ、何らかの化学変化?を経て蝋になる。
  • 蜜蝋は普通に蝋燭として使える。今は石油由来のものが一般的だが、昔はこれを使って蝋燭を作っていた。ヨーロッパの教会では、蜜よりも蝋を取るために蜂を飼っているところもある。
  • 六角形の一つ一つに蜜を入れる。一つの六角形が蜜でいっぱいになると、蝋でふたをする。
  • ミツバチは巣の中が蜜でいっぱいになってしまうと、別の巣を作りに出て言ってしまう。人が適当に蜂蜜を採ってやると、同じ巣箱に蜜をため続けてくれる。
  • 蜜蝋はおいしくない。

蜂蜜の取り方

  • 巣箱ひと箱には約三万匹のミツバチがいる。
  • 巣箱に煙を吹きかけ、蜂を追い払う。蜂にとっては山火事のイメージ。
  • 箱から板状の巣を取り出し、刷毛で残った蜂を追い払う。
  • ふたをされてしまった六角形の部分は、包丁でふたを採る。
  • 遠心分離器みたいな器具にに板をセットし、ぐるぐる回すと、蜜が採れる。
  • 網で蜜蝋の部分を取り除く。

その他

  • この農法で作られた米にスプーン何倍かのこの蜂蜜を入れて炊いた米を頂いた。うまかった。ただ、このうまさが、米そのもののうまさなのか、蜂蜜によるものなのか、青空の下で食べたせいなのか、炊き立てだからか、味音痴の僕にはわかりません。

感想

  • 蜂蜜採りなんて、なかなかできない体験をさせてもらって、楽しい一日でした。
  • 少子高齢化やらTPPやら、大変な情勢の中、あの手この手で頑張っている農家の方や、JAの方に頭が下がります。
  • 頑張ってほしいし、そういう人たちが生み出すものを手にしていきたいと思いました。
※なかなか暑い一日でした。描き切れていないところもあるかもしれないけど、とりあえず今日はこの辺で終わりにする。




ミツバチ 巣箱
巣箱 これくらいの大きさ
ミツバチ 煙
ポット状のものから煙が出る。煙でミツバチを追い出す

ミツバチ 巣箱の中
巣箱の中


ミツバチ 女王蜂
女王蜂には印が付けられている。



巣のフタ部分を取り除く
巣のフタ部分を取り除く


蜂蜜用遠心分離器
遠心分離器でぐるぐる



ハチミツをこす
ハチミツをこす

採れたハチミツ
採れた蜂蜜


ヘアリーベッチ
ヘアリーベッチ



ヘアリーベッチの根っこ
ヘアリーベッチの根っこ。瘤状の根粒菌をうまく撮影できず。

2014年4月13日日曜日

天国の場所

子どもが図書館で借りてきた乗り物の図鑑に、次のような説明があった。

小惑星探査機『はやぶさ』
・・・役目を終えた『はやぶさ』は、流れ星になりました。

随分、詩的な図鑑です。

これを聞いて、息子(四歳)が

「”流れ星になった”てどういうこと?」

と質問してきたので、少し考えて

「天国に行ったんじゃないかな?」

と答えた。

すると息子は、

「天国って宇宙より上にあるの?」

と聞いてきた。

天国ってどこにあるんだろう?

宇宙の上?

それとも天国は宇宙に含まれる?

難しい問題です。

2014年4月7日月曜日

【感想文】『フラニ―とズーイ』/中二病に効く薬

図書館で借りた。

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涙がぽろぽろあふれてきた。

物語に感動したわけでもなく、登場人物に感情移入したわけでもない。

ズーイの言葉に僕自身が救われた。


何のために祈るのか。

何のために働くのか。

何のために生きるのか。


(それが全てではないにしても)一つの答えを提示してくれる。


村上春樹はエッセイの中で次のように言っている。

『キャッチャー』のホールデン・コールフィールドが叫んだ社会への痛切な「ノー」は、『ズーイ』のズーイ・グラスが最後に魂から搾り出した「イエス」へと高められ、その昇華された転換は多くの読者の心を打った。<村上春樹 特別エッセイ 「こんなに面白い話だったんだ!」より>

まさにその通りだと思う。

ホールデンもフラニ―もズーイも世界を批判的に見る若者の象徴だと思う。
その中で代表格のズーイが、それでもなお世界に対して「イエス」と叫ぶことに心が震えた。



世界がどうしようもなくつまらなく見えたり、生きることの意味が分からなくなって自分の殻に閉じこもってしまったり、そんな時に読むといいと思う。


中二病に効く薬だと思う。

2014年3月29日土曜日

眉毛

世間には、電車の中で化粧をすることを快く思わないか方々いるようだけど、僕は決してそんなことは思わない。
化粧をすることで、実際的に誰かに迷惑をかけているわけではないのだから。
むしろ、これから向かっていくであろう仕事やデートで、彼女たちがうまくいくように心の中でささやかなエールを送っているくらいだ。(グッドラック!)

ただ、公の場で化粧をする以上、それを見られること対しては許容しなくてはならない。

先日、電車の中で立っていると、僕の前に座っているお姉さんがおもむろに化粧を始めた。僕は本を読んでいたんだけど、本を読んでいる視線の先がちょうどお姉さんを見下ろすような加減だったので、彼女の化粧シーンが視界に入った。


それは、丁度彼女がピンセットを取り出して眉毛を抜き出した時で、彼女はそれを親指の付け根に一本一本丁寧に置いて行った。

僕は別にマジマジと化粧を見ようと思っていたわけではないけれど、なんとなくその「抜かれた眉毛」の行き先が気になってきたので、本を読みながら眉毛抜きの続きを目の端で追いかけた。

数分後、彼女は眉毛の選別を終え、手鏡で残された眉毛の並びを精査し、十分満足いったというわけではないが、これから向かう場所と自分の容姿と電車に乗っている時間を考えると妥協できる範囲だろうという感じで、手鏡とピンセットをポーチの中にしまい込んだ。

僕は「あれ?」と思った。

彼女は、親指の上の眉毛をティッシュにくるむわけでもなく、その辺に払うわけでもなく、最初からその存在がなかったかのように、全く関心を払わなかった。

まるで「私の眉毛はもともとこういう形だったの。だから、“抜かれた眉毛”も存在しないの。」と言わんばかりに。

そんなことをしたら、抜かれた眉毛はその辺に散らばってしまうのではないか? と思った。

あまりに、自然なふるまいに僕は少し混乱してしまった。抜かれた眉毛の存在を否定されてしまうと、それまでにしていた眉毛を抜くという行為そのものの確かさが揺らいできた。

果たして「眉毛を抜いているところを見た」という僕の記憶は確かなものなんだろうか?

最初から誰も眉毛なんて抜いていなかったんじゃないだろうか?

僕はだんだん不安になってきた。(他人の眉毛で僕のアイデンティティが崩壊しかけている!?)

僕は、僕自身の記憶の確かさ、僕自身の確かさをつなぎとめるために、僕は抜かれた眉毛のことを思う。

誰が何と言おうと、僕だけは彼女の眉毛がそこにあったという事実を確認し、記憶にとどめるためにここにその出来事を書いておく。

そうすることで、僕と言う人間をこの現実という皮膚の上に留めておく。

なんだかわけがわからなくなってきた。


それにしてもいったいあの眉毛はどこに行ってしまったのだろうか?

いまでも電車のシートにへばりついているんだろうか?

それとも、いまでは誰かの眉毛に生まれ変わっているんだろうか?



でも、今度生まれ変わるにしても、生えている場所がほんの数ミリずれているだけで、「お前はいてもいい」「お前はダメだ」と容赦なく選別され、抜かれてしまったものは存在自体をなかったことにされてしまう女性の眉毛にはなりたくないと思った。

2014年3月26日水曜日

春雨にずぶ濡れジャンパー、ジャングルジム

春雨にずぶ濡れジャンパー、ジャングルジム(字余り)

今朝は朝から雨だった。久しぶりにしっかりした雨。

ゴミ出しに公園の横を通ると、ジャングルジムに子どものジャンパーが2つかかっていて、ずぶぬれになっていた。

きっと、春休みで公園に遊びに来た子どもたちが、遊んでいるうちに暑くなったんで、ジャングルジムにかけておいたんだろう。

「バイバイ」って、手を振って帰るころには、遊びまわってあったかくて、楽しくて、ジャンパーのことなんかすっかり忘れて、そのまま帰ってしまったんだろう。

朝、また遊びに出かけようとして、「今日も温かいな、でも雨降ってるし上着どうしようかな」なんて考えているときに、ふとジャンパーを忘れたことを思い出して、大慌てして、お母さんに怒られたり、てんやわんやしている光景を思い浮かべて、ちょっとかわいそうだけどなんとなく楽しい気分になった。


カメラを持っていたら、パシャリと撮って、さらっとアップできたんだけど、あいにくカメラを持っていなかったので、「カメラがないなら俳句を詠めばいいじゃない」というマリーアントワネット的精神を発揮してみた。

俳句、ノーマネーでプライスレス。

あと、facebookやらtwitterだと、アーカイブが効きにくいのであえてブログに書いてみた。だけどアーカイブするほど俳句を詠むんだろうか?



こんなにグダグダと捕捉を入れなくてもいいような俳句的センスがほしい。

2014年3月25日火曜日

ネットと本の違い

一人でネットサーフィンなんてしていて、ふと時計を見ると1時間くらい経っていたりする。

そんな時、

「俺は、本当はネットなんてしたくなかったんだ」

ってよく思う。


だけど、本を読んでいて

「俺は、本なんて読みたくなかったんだ。」

とは思わない。


不思議だ。

これは、ネットと本の一般的な違いなんだろうか?

それとも、僕の個人的な傾向なんだろうか?


まぁ、本って飽きたり疲れたりしたら、どうしたってそれ以上読み進められなくなってしまうってだけかもしれませんが。

2014年3月5日水曜日

【感想文】『わたしの絵本体験』/絵本との向き合い方

『昔話とこころの自立』に引き続き、松居友の『わたしの絵本体験』を読んだ。

わたしの絵本体験
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松居 友
教文館
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絵本の選び方、というか絵本との向き合い方、心構えについて、とても勉強になった。
そして、これまでの絵本の選び方や読み方について、大いに反省させられた。


僕は、上の子がもう4歳だけど、もっと早くにこの本に出合っていたら、もっと上手に絵本を選んだり、読んであげれたりしたんだろうなと思う。

反面、ある程度子どもと付き合ってきたから、この本が言わんとすることがスッと入ってきたのかもしれない、とも思う。

いずれにしても、小さいお子さんがいる方、これから子どもができるかもしれない方にはぜひ読んでほしい一冊。



ただ、後半は割と哲学的と言うか、思想的な話が主体になってくる。


戦争やら物質主義やらに対する嫌悪感がかなり強く、自然や土着文化に対するあこがれがかなり強い気がする。


たぶん、この本が書かれた当時は、地下鉄サリン事件のようなカルトが関わる大きな事件は起こってなかったし、僕らが持っているような宗教アレルギーみたいなものはあまりなかったんだろう。

そういう自然回顧主義的な、文明否定的な発想は結構自然に出てきたもので、それなりにトレンドだったんだと思う。(だからこそ、のちに問題になったんだろうけど)



なので、その辺はある程度眉に唾を付けながら話半分で読んだ方がいいかもしれない。


それでも、絵本の見方やアイヌの神話の話はとても面白いし、勉強になった。





※最近思うんだけど、子育ての世界と疑似科学やカルトの世界って結構接近してるんだよなぁ。子どもに対してあんまり無関心なのも考え物だけど、あんまり頑張りすぎるとすぐにそっちの世界に入り込んでしまう怖さがある。片足は突っ込んでいると思ったほうがいい。疑似科学やカルトって全然他人事じゃないんだよな。見極めが難しい。

2014年3月3日月曜日

消防救急車の魅力

子どもがはたらく車好きなので、僕もはたらく車についてちょっと詳くなった。

そんな僕が、数あるはたらくくるまの中でも最近魅力を感じているのが「消防救急車(消救車)」だ。

消防救急車(wikipediaより)

はたらくくるまの代表格、消防車と救急車の両方の機能を持つ。まさにはたらく車界の「ベジット」だ。



そんな一見最強とも思える消防救急車だけど、彼はどうしようもないジレンマを抱えている。


それは、「もし、火事場にけが人がいたらどうすればよいのか?」という問題だ。


火事を消すべきか? けが人を病院に運ぶべきか?





けがに苦しむ人を横目に火事を消さなければならない罪悪感、あるいは燃え盛る炎を背にけが人を運び去る後ろめたさ。


どちらを選んでも残る後悔。


自分に与えられた能力がたった一つなら、迷うことなんてなかった。


異なる二つの能力を持つが故に、迫られる究極の選択。


極限状態で判断を迫られる宿命を背負った消防救急車。


そういう人間臭さが好きです。




※もちろん、「何を優先させるか」という基準は消防署でちゃんときめられているんだと思うし、他の消防車や救急車との連携やら導入コストやら、いろいろちゃんと考えられているだろうから、こんな心配はいらないと思うけどね。

2014年3月2日日曜日

【合気道】相手と協力して何かを成し遂げるという感覚

合気道を始めて一か月くらいが立ちました。


ここら辺で今の気持ちを書き留めておく。


(まだ一か月なので、もしかしたら見当違いなことを言っているかもしれません)



合気道を始める前は、合気道は「相手の力を利用して相手を投げ飛ばす」と言うイメージを持っていた。

もちろんそれはそれで間違っていないとは思うけど、実際にやってみると、どちらかと言うと「相手と協力して何かを成し遂げる」という感覚の方が近い気がする。


これは、八百長しているとか、そういう意味ではない。
(もちろん稽古では練習のため「上手に投げられてやる」ということはするけれど)



合気道に限らず、どんな武道でも(というかすべての人間関係において)相手がいないことには始まらない。(稽古は別)

敵がいなければ、武道は必要ない。敵がいないとということは、自分は無敵であり世界は平和である。(たぶん)


それはそれで素晴らしいことなんだけど、敵(他者)がいなければそこには何も生じない。

無だ。


敵(他者)がいることで初めて「技」が生まれる。


合気道では、基本的に攻撃する方(投げられる方)の力が強ければ強いほど、技も効いてくる。


うまい人に思いっきり攻撃を仕掛けていくと、あれよあれよと言う間にぶん投げられてしまう。


思いっきりかかっていって投げられるのは、結構気持ちがいい。


投げられているんだけど、なんというか、導かれている感じがする。


自分がその技の一部になっている感覚。


なかなかいいものです。




たぶん、達人の域に達すると、たとえ悪意や敵意がある人から攻撃されたとしても、その攻撃を勝手に「技」に変えてしまうんだと思う。
達人にとっては、それが協力的か、非協力的かということには関係がなく、「その関わりがどの程度の強さなのか?」のみが問われる。(たぶん)

いってみれば、すべての人を“協力者”に変えてしまう。

もしそうだとしたら、達人の域に達することができればどんな人間に対しても感謝できるかもしれない。どんなに悪意を持っている人間でも愛せるかもしれない。「協力者」として。


そういうのが本当に強い人の「器」なんだと思う。


これは、合気道とか武道とかだけに限らず、人間関係全般に言えると思う。


単に弱ければ、悪意にやられてしまう。

技術がなければ、悪意に対して悪意で返してしまい、お互いに傷つけあう。

でも、本当の強さと技術があれば、悪意をしかるべき方向に導き、何かしら生産的な「技」に変えられるかもしれない。






そんなことを思いました。


まぁ、やってるときは、そんなうだうだ考えずに、単純に体を動かすのが気持ちいいと思いながら気楽にやっています。


合気道、楽しいです。

2014年2月15日土曜日

【感想文】『舟を編む』/言葉の大切さを伝えたい物語

読んだ。


舟を編む
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三浦 しをん
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えらい人気のようで、昨年10月に図書館で予約してたら、今年2月になってようやく借りれた。


が、どうやら僕には、三浦しをんは合わないようだ。


以下、ネタバレアリ。



辞書作りの大変さが伝わってこない

この物語では何を重点的に描かれているかと言うと、やっぱり主人公たちの言葉の捉え方だと思う。

彼らが人生の節目節目でどういう言葉を重視しているか。

言葉と言うものをどうとらえているか。

それを描くことで、「言葉って素敵だね」ということを伝えたいんだろうなぁ、と思う。


なので、登場人物たちの節目節目の言葉の捉え方に対して、やりすぎなくらい重点を置いている気がする。

だけど、辞書作りの描写については、ただ表面をなぞっているだけような印象がある。


だから、とってつけたようなトラブルが発生して、なんとなく「頑張り」でクリアしているような印象がある。







会社として辞書作りをどう考えているのかわからない


この物語は辞書作りの部署周辺の行動しか描かれていなくて、会社として辞書作りをどうしようとしているのかあまり見えない。

一応、「辞書作りは一旦できあがると利益が出る。また出版社として名誉である。だけど、時間とコストがかかるので乗り気でない勢力による妨害もある」という説明はある。

だけど、物語の中で会社内の勢力争いみたいなのが出てこない。

最初の方にちょっとした「辞書作り妨害」があるけど、いつの間にか消えてなくなっている。

別に『半沢直樹』みたいなドロドロしたやつを期待しているわけではないけど、あまりにもその辺の描写がないので、辞書作りに対するリアリティに疑問を感じてしまう。

もちろん、ただたんにその辺は描いていないだけで、実際は裏で会社がいろいろ動いているかもしれないけど。

ただ、僕の想像力ではその辺は補間できない。




言葉の大切さを伝えたい物語


この小説は、「言葉の大切さを伝えたい」というのはすごくよくわかる。

ただ、それが先走りすぎて物語がそれに引っ張られすぎている感じがする。

登場人物たちに、「言葉の解釈」について、いろいろ語らせるために、辞書作りという設定を持ってきたんだろうなぁ、という印象がどうしてもしてしまう。


それだったら、別に小説じゃなくて、エッセイでもいいじゃないかなぁと思ってしまう。

そういう風に思うと、物語に入っていけずに、なんとなく白けてしまう。


雰囲気は悪くない

ただ、雰囲気は悪くない。

なんとなく好感を持てる。嫌味な感じは全然しない。

ヒロインが宮崎あおいだったらドキドキするだろうなと思う。


だから、好きな人が多いのもよくわかる。

ただ、僕には少し合わないんだろうなと思う。

2014年2月11日火曜日

【感想文】『ペテロの葬列』/僕はこの結末に爽快感を覚える

『ペテロの葬列』読んだ。


ペテロの葬列
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宮部 みゆき
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いつか、僕は「宮部みゆきの小説はあまり大きな事件が起こらない」的なことを描いたことがあるけど、あれは嘘です。

今回は(というか、前作『名もなき毒』も)割と大きな事件が起こっている。

よく考えれば、(小説は読んだことないけど)『模倣犯』とか結構大事件だった気がする。(映画は見た)



それでも、宮部みゆきの小説は、事件そのものよりも、その事件が起こった背景の闇の部分をより重要視しているような気がする。


その事件が起こったという事実は、氷山の一角でその背後にはとてつもなく恐ろしい闇が広がっているということを意識せずにはいられない。



まぁ、そんなところです。




ここからネタバレ注意です。











この『ペテロの葬列』は、Amazonやらブクログやらのレビューを見ていたら、割とネガティブな感想が多いようでした。

どうやら、最後の最後のどんでん返しが、衝撃的だったわけで、残念に思った人が多かったようです。


僕も、最初読んだとき、衝撃の結末にガツーンと凹まされた。

だけど、そのあと、エピローグを読むと、何故か爽やかな気分になった。

不思議です。

(レビューサイトを見る限り爽快感を覚えた読者は少数派のようですが)


なんでこんなに爽やかな気分になるんだろうと考えてみた。





僕が思うに、なんとなく菜穂子の行動は、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』のクミコと重なる部分がある。



ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)
村上 春樹
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菜穂子は、『ねじまき鳥』のクミコのように必死に何かを訴えかけようとしていたと考えるべきじゃないだろうか。と思う。



つまり、菜穂子はこのような形でしか、二人の関係を前に進めることができなかったんじゃないだろうか。(『ねじまき鳥』のクミコのように)

もちろん、褒められたやり方じゃないし、もっとうまいやり方があったとは思うけど、結果的に人生を一歩進めることができたのは、菜穂子の行動だったことは否定できない。

(いや、他の人ならもっとうまいやり方があったかもしれないけど、菜穂子に限って言えば「他の手段」はありえなかったという気もする。これが菜穂子がとれる「唯一の手段」であったとみるべきか。)

それに、こんな結末になったのは、結局、自分自身で人生を一歩進めることができなかった杉村自身の責任でもある。

ある意味では、そういう汚い役を菜穂子に押し付けてしまったともいえる。いや、あえて菜穂子が汚れ役を買って出たといってもいいかもしれない。

だけど、そういう風に菜穂子変えた(いい意味でも悪い意味でも)のは杉村だし、二人が結婚したことは大きな意味があった。(それはエピローグでも語られている。)

もともと、杉村も菜穂子も問題を抱えていた。二人とも器用じゃない。不器用だけど、もがきながら、誰かを傷つけながら、ようやく物語を一歩前に推し進めることができた。

そういう達成感がある。

だから清々しい。


僕はそう思います。

これは、ネガティブな物語ではなく、かなりポジティブな物語と捉えるべきだと思う。


ただし、今回は(と言うより今回も)杉村はあくまでも受け身でした。

主体はあくまで菜穂子でした。


次のステップがあるとすれば、今度は杉村自身が自らの意志で菜穂子を迎えに行く、そういう物語だと思います。



僕はその物語を楽しみにしています。

2014年2月10日月曜日

『ドライブ・マイ・カー』と中頓別町の問題について、いちハルキストとして思うこと

先日、村上春樹が話題になっていた。




いちハルキストとして、これについて一言書かずにはいられなかったので書きます。

件の『ドライブ・マイ・カー』は文芸春秋2013年12月号に掲載された短編小説です。

文藝春秋 2013年 12月号 [雑誌]

文藝春秋 (2013-11-09)

あんまり文芸雑誌って読まなかったんだけど、これを機に図書館で借りて読んでみた。


話題になっている箇所は、中頓別町出身の女性ドライバーがたばこをポイ捨てしているところを、主人公が見て”たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう”と思うシーン。

なるほど、これだけ読んだら、中頓別町のそれなりの人は、立場上怒らないといけないのもわかる気がする。

きっと、

A「先生! 村上春樹の小説に我々の町が載ってます!」

B「なに! 村上春樹はなんて言っている?」

A「わが町では、ポイ捨てをすることが普通だといっています!」

B「なんだとw けしからん! 抗議だ!」


とまぁ、多少大げさだけど、こんな感じで小説全体ではなく「ポイ捨てをしている」という部分だけで、判断されてしまったんだろう。


もちろん、町議会の方もお忙しいだろうから、小説を全部読むなんてことをいちいちしないだろう。しょうがない。

村上春樹は世界的に有名な小説家だとしても、一般的にはただの小説家の一人にすぎない。


それに誰だって、自分の町のことを悪く言われたら腹も立つ。



ただ、ちゃんと全文読んでみると、村上春樹は別に侮辱とか悪くいっているわけではないというのは(普通の読者なら)わかるはずだ。


この物語の主人公は、よく言えば物事を判断する自分なりの基準というものをしっかり持っている。悪く言えば偏見に満ちている。


冒頭に、主人公の女性に対する考え方が描かれているんだけど、そこからもよくわかる。

これまで女性が運転する車に何度も乗ったが、家福の目からすれば、彼女たちの運転ぶりはおおむね二種類に分けられた。いささか乱暴すぎるか、いささか慎重すぎるか、どちらかだ。
そんなわけない。だけど、主人公はそういう男だ。決めつける。

この主人公は基本的に偏見だらけだし、それは「盲点」という言葉でも示されているように、この物語の重要なキーワードにもなっている。



だから、まさに主人公は中頓別町に対して偏見と誤解を持っている。

「たばこをポイ捨てするのが普通」というのは偏見であり、誤解だ。


偏見で誤解であることに対して、「偏見で誤解だ!」と抗議されたら、「おっしゃる通り偏見で誤解でございます」としか言いようがない。


だけど、村上春樹はそんな大人気のないことを言わずに、大好きな北海道の方々に不快な思いをさせないことを優先させた。大人の対応だ。と同時にちょっとしたあきらめの気持ちもあるような気がする。そこまで頑張ってわかりあおうとはしないというあきらめ。




今回の問題は、村上春樹のコメントにあるように、とても「残念」な結果だと思う。


中頓別町の方も、自分の町を愛するからこそ、こういう抗議に発展したわけで。


もし、町議会の方が小説が好きで、ゆっくり小説を読む時間があれば、きっとわかりあえたと思う。
(でも万人が小説好きなわけじゃないし、ひまじゃない。)


ちゃんとかみ合えば、もっと違った形になったんじゃないかなあと思うと「残念」です。



でも考えてみたら、抗議があるのは中頓別町だけだったということで良しとするべきなのかもしれない。
物語の中には他にも突っ込みどころ(飲酒運転や女性に対する偏見etc etc...)がたくさんあるんだから。




それにしても、この件にたいする村上春樹のコメントが、素敵だ。

僕は北海道という土地が好きで、これまでに何度も訪れています。小説の舞台としても何度か使わせていただきましたし、サロマ湖ウルトラ・マラソンも走りました。ですから僕としてはあくまで親近感をもって今回の小説を書いたつもりなのですが、その結果として、そこに住んでおられる人々を不快な気持ちにさせたとしたら、それは僕にとってまことに心苦しいことであり、残念なことです。中頓別町という名前の響きが昔から好きで、今回小説の中で使わせていただいたのですが、これ以上の御迷惑をかけないよう、単行本にするときには別の名前に変えたいと思っています


この手のコメントは、けんか腰になったり、堅苦しい形式だけの謝罪だったりすることが多いけど、村上春樹のコメントは、出だしから「いまからエッセイでも始まるのかな?」と思ってしまうくらい自然な文章だ。

「僕は敵じゃないよ」「喧嘩するつもりはないよ」っていうような親しみを感じる。

さすがは小説家だなぁと思う。

(こういう気障な感じが嫌だという人もいるだろうけど)





とまぁ、こんな風に書いては見たものの、結局は僕がハルキストだから、村上春樹側を擁護してしまうけど、これがあんまり好きでない作家のものだったら、一緒になって叩いてしまいそうな気がする。
自分の嫌いな作品にも公平さを持ちたい。

2014年2月6日木曜日

クラシックにハマりました

クラシックにハマりました。

年末に、友人に九州まで車で連れてってもらったんですが、道中、カーステレオで聞かせてもらったクラシックがなんかよかった。


いままで、なんかの待合室とかで、BGM程度にしか聞いたことがなかった。

しかも、小さなボリュームで。

でも、クラシックって、結構しっかりしたボリュームで聞くべきなんですね。

そして、なんかしながらBGM程度に聞くより、しっかり腰を据えて聞いた方がよいみたいです。


なんか、グッときました。



最近、歌詞がある音楽を聞くに疲れてしまう、と思っていた。

年を取ったせいでしょうか?

言葉の意味と、それを音楽に乗せる意味とを考えてしまって、「なぜこの人は、この音楽にこの言葉を乗せているんだ?」みたいなことを考えてしまって疲れる。



なので、最近は歌詞がほとんど(というか全く)わからない洋楽とか、JAZZを聞くことが多くなっていました。(なんか、おしゃれっぽいから)

でも、クラシックはなんとなく敬遠してました。(難しそうで退屈そうだから)




ところが、年末のドライブで「これはいい!」と思った次第です。

「言葉ではなく心で理解できた!」と思ったわけです。



これから、少しずつクラシックを聞いて行こうと思います。


そして、クラシックのイイところとか、気に入った曲とかを紹介していければいいと思います。


※初心者におすすめの曲があれば教えてください。

2014年2月5日水曜日

成長をやめることができない子供たち

先日、子どもの自立と昔話の関係について書いた。


【感想】『昔話とこころの自立』/自立する子どもと、親の振る舞い方


そして、ふと「現代の物語はどうだろうか?」と思った。

現代の、子どもの成長の物語と言えば、まず思いついたのは『ワンピース』だ。(他にもいっぱいあるだろうけど、とりあえず)

昔話と、少年漫画を比較するのは、全然ジャンルが違うし、一方の論理で他方を論じるのはフェアじゃないけど、まぁ、ひとつの見方としてとりあえず書いてみる。


昔話では、子どもは3つのステップを踏んで自立するようだ。(前のエントリーを参考)

幼少期から少年期、少年期から青年期、青年期から大人。

自立した大人は、やがて親となる。つまり、子どもにとっての保護者であると同時に自立を阻む存在となる。

そして、自らの子どもにやられることで、解放され、穏やかに死に向かう。

これが、昔話の人生観だ。


異論はあるかもしれないけど、とりあえずこれが「正しい」とする。


顧みて、『ワンピース』に代表する少年漫画はどうだろうか。


これは僕の印象だけど、彼らは成長する。どこまでも成長する。

終わりというものが見えない。


もちろん「”ワンピース”を手にすることがゴール」という設定はある。

にもかかわらず、一向に終わりと言うものが見えてこない。



これは、おそらく少年漫画を取り巻く環境によるものだと思う。


つまり、「連載」を軸とした経済活動だ。



『ワンピース』は面白い。


面白いから売れる。


売れるならできるだけ売り続けたい。


だから物語は続く。


ただ続くだけでは面白くない。


彼の成長する姿こそ面白い。


だから周りは、ルフィに成長を期待する。


そして更に試練を与える。


彼は乗り越える。


そして、成長をつづける。




これは本人(ルフィ)にとっては結構キツイことなんじゃないだろうか。
(モチロン物語の中ではそんなそぶりは一切見せないけど)

『ワンピース』を取り巻く環境(読者、作り手含む)は、自分の子どもに対して過度に期待する教育ママを連想させる。

成長をつづける主人公は、増殖をコントロールできなくなった癌細胞を連想させる。



昔話の時間の流れが人間一生を規準に作られているのに対して、少年漫画は経済学の論理が時間の流れを支配しているといえる。


人間の時間を無視して、経済のロジックで人間を語ってしまうとどっかで歪みが出てしまわないだろうか。


例えば、成長し続けなければならない人生に疲れてしまう。
上手に次の世代にバトンタッチができなくなる。
上手に死に向かっていけなくなる。etc...


少年漫画自身にも、歪みは生まれる。

「力のインフレ」と言われる現象がそれだ。


僕らは、無意識に「成長し続けることが正しい」と思いこんでいないだろうか。

「成長し続けることが正しい」を表現する漫画が、我々にその考えを強化する。

「成長し続けることが正しい」という我々が、そういう漫画を作り出す。

お互いが相互に影響しあって、「成長し続けることが正しい」という考えがどんどん強固になっていく。

それが正しいうちはいいけど、仮に間違っていたらと思うと、ちょっと怖い。


『ワンピース』は面白い。

だけど、僕らは、そろそろルフィに成長をやめることを許してやるべきじゃないだろうか。

子どもの成長を見ているのが楽しいからと言って、いつまでも手元に置いておくことができないように。


そんな風に思う。



もちろん、物語はいろんな見方ができるわけだから、こんな一方的な考えで『ワンピース』がダメだとか、現代の漫画がダメだとか言ってるわけじゃない。

ただ、こういう風に考えられるなぁと思っただけだ。

昔の人だって、『南総里見八犬伝』に「いつ終わるんだよ、なげーな。終わりが見えねー」って言ってたかもしれないし。(『八犬伝』読んだことないからイメージだけど。)

あと、今の漫画の中にも、明確な終わりが初めから設定されてあって、それに向かって突っ走る物語もある。(浦沢直樹の漫画とか、そいうのが多い)


それに、『ワンピース』も最近、ルフィにあこがれる海賊が出てきたり、少しではあるけど、立ち位置が変わってきたきがする。(つまり、次の世代を匂わせている)


そもそも、僕のこんな考え方は全く間違っていて、やっぱり人間は成長し続けないといけないのかもしれない。


よくわからなくなってきた。

とにかく、昔話の「子どもの自立」論をもとに、今の話を見てみたらどうなるかなと、考えてみただけです。





いろいろ書いてみたけど、『ワンピース』は面白いのは間違いないと思ってる。

2014年2月3日月曜日

【感想】『昔話とこころの自立』/自立する子どもと、親の振る舞い方

最近、絵本に興味がある。

せっかくなので、絵本に関する本を読んでみようと思い、この読んでみた。



昔話とこころの自立
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松居 友
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僕が好きな『だいくとおにろく』が表紙に使われていたので、何気なく手に取ってみた。

読み進めていると、次のように書かれていて仰天した。

”松居直は私の実父ですから”

ん? 実父?


なんと、この本の作者、松居友さんは、『だいくとおにろく』の作者(正確には“再話”だけど)の松居直さんの息子さんのようだ。

 Wikipediaで調べてみたら、松居一家は生粋の絵本一家ということがわかった。


お父さんは、自ら絵本を手掛けながら福音館書店の編集長、社長してたみたいだ。
妹さんは”わにわにシリーズ”の小風さちだし。



すごい。



松居友さん自身は、児童文学者だそうで、なるほど、この『昔話と心の自立』はとても面白かった。


内容もとても面白かったし、その語り口調も子どもに言い聞かせるような、とても心地がよくてわかりやすかった。




で、その内容。



タイトル通りで、昔話には子どもが自立するためのエッセンスがたくさん盛り込まれている。


「子どもが自立するためにはどうすればいいか?」という問いは「人間が生きるためにどうすればいいか?」に等しい。




この本に取り上げられているのは、『だいくとおにろく』、『三枚のおふだ』、『三匹のこぶた』、『三匹のやぎのがらがらどん』など。


これらは鬼や、山姥やらが象徴する負の存在から逃れる、あるいはやっつける話だ。


曰く、鬼やら山姥やらは、子どもの自立を阻むものである。

鬼、天狗、トロルといったものは、主に父親を指している。(あるいは父親の背景にある社会を指す)

簡単に言えば「お前なんか社会に通用するか!」という抑圧のエネルギー。


山姥や、魔女は母親を指している。

こちらは「いつまでもアタシのところにいるんだよ」という束縛のエネルギー。

(それだけではないけど、そんな感じ)



そして、それに対して、子どもたちは何とか対抗する。

そのヒントが、物語の中に示されている。


多くの物語で共通していることは、子どもの自立へのステップは3段階あるらしい。

ステップ1:幼少期→少年期
ステップ2:少年期→青年期
ステップ3:青年期→大人


『三枚のお札』、『三匹のこぶた』、『さんびきのやぎのがらがらどん』etc...

たとえば『三匹のこぶた』の場合

1番目の豚:
家を作った。でも家が藁。稚拙。すぐやられる。
これは、幼少期→少年期を表す。

2番目の豚:
木で家を作る。ちょっとまし。でもやられる。
これは少年期→青年期。

3番目の豚:
家が煉瓦。やられない。幸せに暮らす。
青年期→大人。自立。

みたいな感じだ。



なるほど。と思った。

絵本(というか、昔話)奥が深い。

なかなか、興味深い内容なので、ぜひ子どものいる親には読んでほしいと思うわけです。

まぁ、この解釈が全てだと思ってしまったらそれはそれでつまらないので、あくまでも考え方の一つとして。




で、ここまでは要約。



ここからが思ったこと。



昔話には、子どもの自立のヒントが描かれている。

それと同時に、そのあとの人間の振る舞い方のヒントも描かれていると思う。



つまり、自立した後、どうするか?


われわれ親側はどうするべきか? にも触れられていると思う。



ぼくはこう思う。


彼らは大人になり、やがて子どもを授かるだろう。

そして、今度は子どもたちが自立に向かって育っていく。

すると、かつて桃太郎だった者は、今度は自らが鬼になる。

がらがらどんだった者は、トロルになる。

こぶたはオオカミになる。

白雪姫は魔女になる。


これは避けられない。


なぜなら、親は子どもの成長を助けるものであると同時に必ず阻害するものだから。

それはしょうがない。

優しくすればするだけ山姥になるし、厳しくすればしたで鬼になる。

いつかは、子どもは親から自立するし、しなければならない。

子どもが自立を試みたタイミングで、どうしたって親は鬼であり、山姥である。



そこから目をそらすと、余計に自らの鬼や山姥を肥大させる。


親ができることは、内なる鬼や内なる山姥を自覚することだけである。



大工が鬼六の名前を当てて、その力をそぎ落とすことに成功したように、僕ら親は自らの鬼を自覚することで、かろうじてそいつらを抑えることができる。


だけど、それだけじゃ十分じゃない。

それだけだと、まだ抑えているだけだ。


親は、自分の子どもたちに「やっつけられること」で自分の内なる鬼や山姥から解放される。

内なる鬼や山姥から解放されて、初めて高砂のおじいさんとおばあさんに象徴されるような理想の老年期を迎えることができるんだと思います。

たぶん。


われわれは、心のどこかで、子どもたちにやっつけられるのを待っている。

その時に、うまくやっつけられないといけない。



これは手加減するという意味ではなくて、引き際が大事ということです。

子どもと親が共倒れにならないように。

やられることを恐れない、子どもに去られる極端に恐れないというか。

(うまく言えない。僕はまだそういう境地に立っていない)



そうやって、親から子、子から孫へとつながっていくことが大事なんだと思います。




そう考えると、親が子どもに昔話を聞かせるのは皮肉なことです。


親は子どもに「自分が滅ぼされる物語」を語っているわけだから。



いつか、僕は子どもにやっつけられるのを楽しみにしようと思います。



そう簡単にやっつけられないぞと意気込みながら。



※追記(2014/02/05)
この本の、『てんぐのこま』という昔話について書かれている章は読み飛ばしたまま、このエントリーを書いてました。僕が『てんぐのこま』を読んだことがなかったからです。
図書館で『てんぐのこま』借りて読んでから、改めてその章を読みました。
すると、僕が書いていた”親はあとくされなく負けなければならない”と言うような内容が、ちゃんと書いてありました。
僕の感想は、とくに目新しいモノでも何でもなく、少しがっかりしたと同時に、同じような考えをしている人(作者)がいてうれしいという気持ちです。

2014年2月2日日曜日

子どもに「自分のことは自分でしなさい」と言い続けてきた結果

親ばかな言い方かもしれないけど、うちの子はすこぶる優秀なようだ。


うちでは、子どもが何でも一人でできるように、「自分のことは自分でしなさい」「自分でしたことは自分で後始末しなさい」と言い続けてきました。


すると、この頃、うちの子は「これはお父さんのせいやろ! お父さんしろ!」とか、「これは僕がやったんじゃない!」とか言って、何でも人にやらせたり、人のせいにするようになってきた。


親の姿をよく観察し、親のやることを同じようにやって見せる。

そういう意味で、学習能力は非常に高い。




子どもは、親の期待通りには育たない。

子どもは、親と同じように育っていく。



子育て難しい。

2014年1月31日金曜日

説得力はあるけど、この方法ではそんなにスポーツはうまくならないだろうなと思う理由

TLにこんなのが流れてきた。

武井壮が語るスポーツが上手になるコツが説得力ありすぎ


とても説得力がある。

だけど、たぶんこれを実践しても、多くの人はスポーツうまくらなないだろうと思った。

いや、少しはうまくなるかもしれない。だけど、劇的にうまくなることはないだろうと思いました。

なぜそう思うか、考えてみた。


---

たぶん、この方は嘘は言っていない。

自分の経験を語っている。

しかも、情熱にあふれていて、スポーツを心から愛していることがわかる。

それが、話の説得力を生んでいる。

とても好感を持てる。


だけど、成功体験を語る多くの人が陥りがちな語り方をしている。


それは、「今の私が成功したのはこういう風にしてきたからだ。だから、みんなこうすればうまくいくはずだ」という語り方だ。


みんな、これを聞いて、「〇〇になるために××をしよう」と思う。


だけど、この考え方ではたぶん失敗する。



たぶん、成功した(する)人は、ベクトルが逆なんだと思う。


つまり、「××をしていたら、なんか知らないうちに○○になっていた」というベクトルだ。




おそらく、この武井さんという方は、「肉体を制御すること(あるいはできるようになること)が死ぬほど好き」なんだろう。

自分の肉体がどうあるか、どうすればどう動くのか、そいうことに死ぬほど興味があって、それを突き詰めていく。

その過程で、”たまたま”スポーツというジャンルで花開いたんだろう。


(後で書くけど、この”たまたま”というのがとても重要だと思う。)




だけど、それを語るときは、なぜか、「自分がスポーツをできるのは、こういうことをしてきたからだ」という言い方になる。

本当は「肉体に興味がある自分だから、結果的にスポーツがうまくなってしまった」という方が実際に近いんじゃないかと思う。


だから、冒頭の動画の話をフムフムと聞いて、そのまま実践しても、たぶんうまくいかない。

まず、肉体のコントロールに愛情を持っているかが問われるし、持っていたとしても必ずスポーツの分野で花開くとは限らない。武井さんがその分野でうまくいったのは”たまたま”だ。(といったら失礼かもしれないけど)

すべての人が、まったくその通りにして、同じ分野でうまくいくなんて限らない。




何かで成功するというのは、自分の好きなこと興味があることについて、とことん突き詰めていくしかないんだろう。それも、愛を持って。

そして、悲しいことに、それによって自分が望む結果が得られるとは限らない。と言うより圧倒的にその確率は低い。


だけど、自分では望んでいなかった、別の何かを得られる可能性は高いと思う。


そして、その別の何かを得たときに「何かしらんけど、なんかすごいものを手に入れてしまった!」と思えた人だけが、「私はこうやって成功した」という資格を持てるんだろう。


たぶん、成功する人は、「愛を持って何かに打ち込む」ことと、「何かすごいものを手に入れた」ことに気付くのがうまい人だと思う。


反対に、何かを手に入れることができたとしても、その価値に自分で気付けなかった人は永遠に満足を得られないだろう。




なかなか難しい。

こんな、「成功する方法」みたいなのは、面白みもないし、即効性もないし、だれも相手にしてくれないだろう。

しかも僕みたいな凡人が語っても何の説得力もない。


だからこそ、成功体験者の「こうすればうまくいく」という情報は人気があるんだろう。







追伸。

そもそも僕は、スポーツとは突き詰めれば己の肉体(あるいは精神)を制御することこそが目的だとおもう。

スポーツが手段で、肉体の制御は目的だと思う。

でも、冒頭の動画では、スポーツが目的で、肉体の制御は手段になっている。

僕は、自分の肉体を完全にコントロールできた時点でほとんど人間としての達成をしているし、スポーツの役割は終わっていると思う。


もちろん、卵が先か鶏が先かという話ではあるけども。

スランプと言うならば、スポーツをうまくすることを目的化しすぎて、自分の肉体を動かすという喜びそのものを忘れることにあるんじゃないかと思う。


まぁ、僕はスポーツの専門家でも何でもないので、異論はもちろん認めます。


そして、この武井さんという人のことを全く知らないのに想像だけで書いています。ごめんなさい。

2014年1月30日木曜日

『したきりすずめ』と村上春樹と僕の子育て

この間、絵本で『したきりすずめ』を読んだ。

その感想を書いたけど、例によって考えながら書くもんだから、かなり長くなってしまった。。。



したきりすずめ (日本傑作絵本シリーズ)
石井 桃子
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『したきりすずめ』面白い。示唆に富んでいる。

こういう寓話はいろんな教訓や見方がある。

読むたびに新しい発見がある。



今回読んでみて気になったのは、「ばあさんのつづらの中身が化け物になったのはいつのタイミングか?」というところです。


大きなつづらには、最初から化け物が入っていたのか?

ばあさんが、家に帰るまでにあけてしまったから、箱の中身が化け物になってしまったのか?

じいさんが大きなつづらを選んだらやはり化け物だったのか?

それとも、じいさんが大きなつづらを選んだら、なかみは宝物だったのか?


じいさんとばあさんの前にはさまざまな選択肢が提示される。

そして、さまざまな可能性があった。


もし、じいさんがこうしていたらどうなっていただろう。ばあさんがこうしていたらどうなっていただろう。


いろいろと考えた挙句、結局僕の考えはこういうところに落ち着いた。





つまり、じいさんはどう転んでも小さなつづらを選んでしまう。

ばあさんは、どう転んでも大きなつづらを選んでしまう。また途中でふたを開けてしまう。


彼らには、それ以外に選択の余地がない。



だから、『したきりすずめ』の話に「もし」を考えてもあまり意味がない。


それよりも、なぜじいさんは小さいつづらを選び、ばあさんは大きいつづらを選んだか。


宝とは何か? 化け物とは何か? を考えたほうがいいと思う。



で、じいさんとばあさんの性質の違いを考察してみる。


考察に当たって、石井桃子の『したきりすずめ』(冒頭のリンクの絵本)をベースにする。

(この『したきりすずめ』は、じいさんばあさんが雀のお宿を探す際に、「牛あらいどん」と「馬あらいどん」に出くわす。彼らは、牛や馬を洗ってくれたらその見返りに雀のお宿への道を教えてくれる。)


ばあさんの性質


まず、ばあさんの性質から。


ばあさんは、なんとなく強欲で意地悪な印象がある。だけど、物語をよく見ていくと、単純にそれだけとは言いにくい。

おばあさんの行動をざっと取り上げると、次のようなものだ。


  1. 雀が糊を食べてしまったので、舌をちょん切る。
  2. 牛あらいどん、馬あらいどんに「牛(馬)を洗ったら雀のお宿の道を教えてやる」と言われたら、ちゃちゃっと牛(馬)を洗って、道を教えてもらう。
  3. 大きなつづらをもらう
  4. 家に帰るまでにつづらを開ける。
これらをざっと眺めてみると、ばあさんは、大変「合理的」な人間であるということがわかる。

1.の「下をちょん切る」というのは、残酷ではあるけど、「問題の根本を断ち切る」という意味では、実にクールで現実的で効果的な対応だ。


2.は手抜きでズルをしているようだけど、もっとも労力の少ない方法で「道を聞く」という目的を達成している。

3.も同じコストをかけるのであればより大きな利益を得るという、合理的な判断に基づいている。

4.は同じ利益を得るなら、早く得るという判断、あるいはじい様と二人で分けるよりは、一人占めしたほうが利益が大きいという判断。さらには、「持って帰る」というコストをカットするという判断かもしれない。


とにかく、ばあさんは、徹底した合理主義である。


だから「小さいつづらを選ぶ」という選択肢はあり得ない。


ここが、この物語の怖いところだと思う。


自分が合理的だと思って判断している人間は、自分で何かを選択したように思っていても、結局は何かに「選ばされている」。


そして、その結果つかむものは、化け物である。

化け物とは何か?

この化け物とは何か、というのが僕にはうまく説明できないんだけど、僕の好きな村上春樹の小説等がうまく説明してくれていると思う。

村上春樹の『1Q84』に出てくるリトルピープルや、エルサレムでの『卵と壁』スピーチの「壁」や「システム」が、この化け物と同じものだと思う。

【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)


人々の合理的な思考の総体のようなものが、人や世界を暗い方向に引っ張っていってしまう、そういうものが化け物なんだと思う。




じいさんの性質


反対に、じいさんの性質を考えてみる。

爺さんの行動はざっと次のようなものだ。


  1. 舌を切ったばあさんに代わって、雀に誤りに行く
  2. 牛あらいどんと馬あらいどんの牛や馬を丁寧に洗う
  3. 自分でも持って帰れる小さなつづらを選ぶ
  4. 家までつづらを開けずに持って帰る
じいさんは優しくて、無欲と言えばそれまでなんだけど、もうちょっと見てみると、じいさんには次のような信念があるようだ。

じいさんは「自分にできることを真面目にやる」という信念だ。



言い換えると、じいさんは結果よりも過程を大事にしていると言える。

宝とは何か

じいさんが得た宝とは、この過程を大事にする人生そのものではないだろうか。


また村上春樹で例えると、『ダンス・ダンス・ダンス』で羊男が次のように言っている。

音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。
意味、つまり「それによって何が得られるか」ということは大した問題ではない。大事なのは踊り続けることだ。



自分ができることを、ただ誠実にやる。


それだけが、合理性という化け物に抗う唯一の方法であり、人生を宝物にする方法のようだ。



この『したきりすずめ』の教訓を自分に当てはめてみる


こいつを、自分の人生に当てはめるのはなかなか難しい。


たとえば、子育てに当てはめてみる。


自分の子どもが、将来幸せになってほしい。素晴らしい人間に育ってほしい。

だけど、僕のリソースは限られている。(経済面、時間面etc)

だから、どうしても少ないコストで、より効果の上がる教育を施してやりたい。



だけど、そういう考え自体が自分の子どもたちに、「より少ないコストで最大の利益を上げる」という思考回路を育てるだろう。

できるだけ努力せずに何かを手に入れる術を身に着けていくだろう。

『したきりすずめ』のばあさんのような人間に育っていくだろう。





自分の子どものことを思えば思うほど、化け物に食われる可能性が高くなる。

この矛盾が僕の前に立ちはだかる。


僕は、『したきりすずめ』のじいさんにならなければならない。

自分の子どものことを考えるなら、自分の子供の将来のことを考えてはいけない。

「子どもの幸せ」という結果を求めてはいけない。

ただただ、目の前の「子ども」と向き合うしかない。

僕が人生を一歩ずつ歩く姿を見せるしかない。


とても難しそうだ。


うまくいくだろうか?


とにかく、できることをやるしかない。


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2014年1月26日日曜日

合気道始めました

合気道始めました。


所信表明と言うか、動機の確認と言うか。

だらだら書きます。



前々から思っていたことですが、ここ最近特に気になっていることがありました。


それは、「自分とは何か」とか、「自分と自分以外のものの違いとは何か」とか、まあ、そういった類のことです。


例えば、僕は僕の肝臓がどうなっているのか感じることはできないのに、車を運転しているときはハンドルを通して車全体をなんとなく把握することができる。(たまにぶつけたりはするけど)


よくわからない例えだけど、僕の体の中にあるからといって、すべて意識できるわけじゃない。
反対に僕の体じゃないからと言って僕が意識できないわけじゃない。

そんなことを考えていたら、じゃあ、僕と言う人間は何なんだ? って話になってとても混乱してしまいます。

混乱するけど、とても興味がある。

自分自身に対する好奇心。


思春期やら就活の時にもたしかに「自分とは?」ということに関心はあったと思う。

でも、あの頃は、何かしらせっぱつまった感というか、切実さがあって、なんか余裕がなかった。

「自分を知りたい」より、「自分をよく見せたい」だったんだと思う。

けど、30を過ぎて、子どももできた今は、純粋に好奇心と言うか、自分の良いところも悪いところも、ただただ「知りたい」という気持ちがある。



まあそんなわけで、まずはどこまで自分の体を知りたい。

体を制御することができるか、どこからができないのか。

それから始めようと思うわけです。



で、それを知るには、武道が一番いいだろうと思ったわけですが、何分、勝ち負けだとかは好きじゃない。


柔道とか、空手とかはなんか違うなあと思っていたんですが、ここ一年くらい、僕のブログでも時たまネタにする内田樹先生のブログで合気道の話がちょくちょく出てきて、これは僕向きだなぁと思ったわけです。


まず、合気道には試合がないそうです。


勝ち負けではなくて、武道とは(合気道とは)「手持ちのリソースで如何に生き延びるか?」というためのものだそうです。


なるほど。


これは僕向きだと思いました。


そんなことを考えていたこの頃ですが、たまたま子どもの保育園のおじいさんが合気道の先生をしているという情報を嫁が仕入れてきてくれました。


灯台下暗し。渡りに船。思い立ったが吉日。


合気道を始めることにしました。


何はともあれ、僕と言う人間にはどれだけのリソースがあり、それをどう使うことができるのか。


まずは、そこから始めてみようと思います。




で、先週、合気道の見学に行って、今日第一回目の稽古に行ってきたんですが、なかなか楽しかったです。


ベテランの方に思いっきりつかみかかっていって、あっけなく倒される。

自分の全力を受け止めてくれる人がいるというのはとても気持ちがいいものです。(合気道なので受け止めるというよりは、いなされるという感じですが)


そして、そんな親ほど年の離れたベテランの方々が、「なるほど! こんな技があったのか!!」と子どもみたいに楽しそうに稽古している姿をみると、なんというかこっちまでワクワクしてしまうのです。

結局、何歳になっても「自分」なんてものがわからないのかもしれない。

でも、何歳になっても新しい技(自分の中の新しい部分)を発見できるかもしれない。


そういう年の取り方をしたいと思うのです。

2014年1月18日土曜日

【感想文】『無印良品は、仕組みが9割』/ビジネス書をモノにするのは難しい

久々のビジネス書。





こういうお話を読むと、「マニュアル大事だなぁ」と思う。


でも例えば、『スターバックスは、マニュアルを作らない』という本があったら(※スタバにマニュアルがあるかないかは知らんけど、例えばの話)、「マニュアルってよくないんだなぁ」と思うだろう。




結局、”無印”と”マニュアル”の相性がよくて、それをしっかり見抜いたことと、周囲の反対やいろんな迷いを振り切って自分の道を貫くというバイタリティの問題なような気がする。
だけど、そういうところはあまり本に書かれない。

たぶん、著者にとってあまりにも当たり前すぎて書くべきこととして意識されないんだろう。


こういうビジネス書を読むと、小手先の技術に目移りしながらあっちへフラフラ、こっちへフラフラしまう。

そして、結局何も身につかないで終わってしまう。

2014年1月17日金曜日

【感想文】『恥知らずのパープルヘイズ』/過去の自分自身の救済の物語

読んだ。

恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-
上遠野 浩平 荒木 飛呂彦
集英社 (2011-09-16)
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5部の途中で離脱したフーゴのその後を描いた小説。

ぼくは、作者がフーゴを題材にした気持ちがとてもよくわかる。


フーゴは人生において一番大事なところで一歩を踏み出せなかった。

物語の中から唐突に姿を消し、それ以降本編に一度も登場しなかった。

あまりにもあっけなく消えてしまったので、逆に心に引っかかってしまう。


たぶん彼は、かつて勇気を出せずに立ち向かえなかった僕自身だ。

フーゴの欠落は、僕自身があのとき一歩を踏み出せないがために生じた欠落だ。


たぶん、だれしもそういった欠落を抱えているんじゃないだろうか。


勇気を出せなかった後悔。

誰かを裏切った後ろめたさ。



きっと作者も、フーゴの物語を書かずにはいられなかったんだと思う。

物語の中でフーゴを救済することは、一歩を踏み出せなかった過去の自分を救済することに他ならない。



そして、『恥知らずのパープルヘイズ』は、作者自身のための物語だ。


僕のための物語ではない。


僕は僕自身のパープルヘイズの物語を創らないといけない。

2014年1月16日木曜日

どうせ見せるなら青々と芝生を

最近、次男坊(2歳)が人のものをほしがるようになってきた。

同じおやつを食べているのに、「あっちのほうがいい」とか言ってごねたりします。

めんどくさい。



誰が教えたわけでもないのに、他人のものがよく見えるようです。

きっと、隣の芝生が青く見えるのは本能なんだろう。


たぶん。


子どもが人のものを羨ましがったり、ほしがったりするのはめんどくさい。



だけど、それが本能だとすると、人間が生き延びていくためにきっと必要だったんだと思う。


考えてみると、もし人のものを全く「いいなぁ」と思わなかったら、子どもはどうやって価値観を育てていけばいいんだろう。

だれもが、バラバラな価値観になってしまって、同じものを好きだという「共感」みたいなものが生まれないんじゃないか。

そうしたら、たぶん人間に社会性なんて生まれなかったんじゃないだろうか。


きっと、他者のものを「いいなぁ」と思う気持ちの積み重ねがその人間性を方向付けていくんだろう。

そして、そういう気持ちが人間を社会的に結び付けていくんじゃないだろうか。

(逆にそいつが強すぎて争いの原因にもなると思うけど)


まぁ、あんまり「隣の芝生が青い」のが強すぎるとそれはそれで大変だけど、子どもに対しては「こいつは今価値観を育てている最中なんだ」とある程度おおらかに見てやるのがいいのかなと思ったりもする。



そして、彼の人生における最初の他者として、青々とした芝生を見せつけてあげたいと思うのです。