2016年11月23日水曜日

【感想文】『おかえし』/善意を突き通すこと、イチゴを摘むこと

『おかえし』という絵本についての感想。
おかえし (こどものとも傑作集)
村山 桂子
福音館書店
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あらすじ

ある日、タヌキのお家のとなりにキツネが越してきて、引っ越しのあいさつを渡す。
タヌキは「おかえし」をする。
するとキツネは「おかえしのおかえし」をしてタヌキは「おかえしのおかえしのおかえし」をして・・・
互いの「おかえし」がエスカレートしていって最後には・・・

意思とは無関係に行為が独立する

キツネもタヌキも、狡さや悪意があったわけではなく、ただ当然やるべきことを善意をもってやっていただけでだ。だけど、あれよあれよという間に、自分たちの意思とはほとんど無関係に、「おかえし」という行為だけが独立して繰り返してしまう。
現実世界でも、しばしばみられる。


善意を突き通すこと

タヌキとキツネは、善意の人である。「おかえし」を繰り返し、途中「そんなものまで上げるの?」とぎょっとしてしまうが、彼女たちの持ち前の人の好さが、結果的にハッピーエンドを引き寄せる。
私たちは、しばしば間違いを犯す。最初は良かれと思って始めたことがとんでもないことを引き起こす。まるで目に見えない者たちに操られているように。
しかし、それでも善意を突き通すことが、「彼ら」に対抗するための方法なのかもしれない。


前向きに、ポジティブに

この絵本は、とてもテンポが良いため、一瞬ドキッとする場面があるけど、全然悲壮感がない。楽しく、ポジティブに、前向きであることも大事。


何もなくなったら、イチゴを摘みに行こう

タヌキもキツネも「おかえし」するものがなくなったら、イチゴを摘みに行く。自分の中に誰かに与えるものがなくなったら、自分の外にあるものを手に入れる。
すでにあるものを与えあっているうちは、なんだか大変そうだけど、相手のために何かをしようとする様子はとても幸せそうだ。
誰かのために、自分の「外」にあるものを手に入れる。それがコミュニケーションの本質なのかもしれない。

2016年11月22日火曜日

【感想文】アンデルセン『影』/影と共に生きること

村上春樹がアンデルセン文学賞受賞した際のスピーチに取り上げられたアンデルセンの『影』を読んでみた。


影 (あなたの知らないアンデルセン)
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知を得るためのリスクの放棄が影を解き放つ

学者が影を解き放つのは、向かいの部屋の中を知りたいという欲望がきっかけになっている。
この時、学者は、自らの足を使わず、影にすべてをゆだねてしまっている。
自分の手を汚さず、痛みを伴わず、安易な方法を選んだ瞬間、我々は影を解き放ってしまう。

理想を追い求めることの難しさ、欲望に対する抗いがたさ

実体であるはずの学者は、「真善美」といった、観念的な研究を行っている。
一方、影は実業家となり、金銭的に裕福となり、実際的である。

実体は理想を追うがゆえに、現実とずれていき、影となり、最後には死んでしまう。
影は欲望に忠実がゆえに、現実的に金銭を手に入れ、最後には実態に成り代わる。

理想を追い求めることの難しさ、欲望に対する抗いがたさを突き付けられる。


実体と影は同一人物としてみてみる

例えば、私はブログを書いている。
最初は、自分の考えを文章にしてみることを目的にしていたとする。
最初のうちは、自分で考えたことを文章にする。
しかし、次第にブログに書くために物事を考えていくようになる。
いつの間にかブログを書くために生きていくようになる。

『影』の物語では、影と実態が別々の人格で描かれている。
別々の人格で描かれているから、影と実体が入れ替わっていく様子が痛々しいくらい伝わってくる。
しかし、現実では、影と実体は同一人物である。
その入れ替わりは客観的にはわかりにくいし、本人ですら、というか本人には余計にわからない。

もしかしたら、今の自分はいつの間にか、影のほうかもしれない。



影と共に生きる

では我々はどうするべきか。
その一つの答えとして、村上春樹が言うように、影と共に生きることなのかもしれない。
できるだけ、影を解き放たないように、安易な心地よい誘惑に負けないように、痛みを受け入れながら、リスクを引き受けながら、自らの欲望を理解しながら、自分に影の部分があることを理解しながら生きていかなければいけないのかもしれない。

2016年6月1日水曜日

【感想文】世界の終わりとハードボイルドワンダーランド/読むごとに味わいが変わる

もう何回目だろう、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』読んだ。

読むごとに、その味わいが変わる。

今回読んだ感想をメモ。(ネタバレ注意)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)
村上 春樹
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ハードボイルド的文体の中に垣間見る日本人的弱さ

作者はこの二つの物語それぞれの文体をかなり楽しんで描いていると思う。

時々思うんだけど、「ダンス・ダンス・ダンス」で主人公と五反田君が真剣に冗談を語り合ったように、村上春樹は冗談みたいな内容を真剣に小説にしているんじゃないかと思うことがある。

この物語、特に「ハードボイルドワンダーランド」は、突拍子もない物語をハードボイルド風に描くと、いったいどんな物語になっていくのか、作者は楽しみながら描いているように思える。

まず、文体ありきで、物語は後からついてくる。そんな感じがする。

「ハードボイルドワンダーランド」の主人公は、確かにタフなんだけど、フィリップマーロウに比べると、ずいぶん弱さを感じさせるところがある。

こわがったり、叫びだしたり。

前までそこまで気にしなかったけど、今回読んで、ハードボイルド的な文体と、その中で垣間見せる日本人的な弱さの部分のギャップがよかった。


自我の中の永遠の命、他者の中の記憶

「ハードボイルドワンダーランド」で世界が終る直前、太った娘と電話するシーンで、

あなたがもし永久に失われてしまったとしても、私は死ぬまでずっとあなたのことを覚えているから。私の心の中からあなたは失われないのよ。そのことだけは忘れないでね」

というシーンがある。小説の中では特に言及していないけど、自分自身の中で完結する永遠の命より、他者の記憶の中で自分が生きていることのほうが、大事なんじゃないだろうか。このことによって、「私」は救われたんじゃないだろうか? そんな気がする。