2015年12月17日木曜日

『あさおひさまひかる』

あさおひさまひかる きょうもあさがやってきた
 
ごはんをたべたらでかけよう

きょうはなにがあるかな どんなものがあるかな

ゆうひがさしてきた きょうももうすぐおわりだね

あしたはなにがあるかな きょうもいろんなことがあったね

あしたのてんきもよさそうだね

あしたがもうすぐやってくる

あしたになったらなにしよう

たのしいあしたがやってくる

あかるいあさがもうすぐやってくる

またあした

ねながらあしたのことをかんがえよう

(さく:゛た)




2015年10月25日日曜日

小さなところから

ある日、子供の後にトイレに入ると、トイレットペーパーが新しくなっていた。



子供というものは、ほんとうに小さなところから成長するものだ。

2015年9月15日火曜日

恐竜

ティラノサウルスの子供と、小型肉食恐竜の大人ってどうやって区別するんだろう。

骨だけで見分ける研究者ってすごいと思う。

2015年9月12日土曜日

【感想文】『指輪物語』/ありとあらゆる教訓が詰まっている

『指輪物語』読了。
 
物語のありとあらゆる教訓が詰まっている、とりあえず今書き留められるだけ書き留めてみる。


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J.R.R. トールキン 瀬田 貞二 田中 明子
評論社
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強大な敵に立ち向かうのではなくて、強大な力を捨てに行く

指輪物語は、強大な敵を倒しに行く物語ではない。
強大な力を持った指輪を捨てに行く物語である。

ある意味では、強大な敵そのものよりも、強大な敵が現れるかもしれないという状況のほうが恐ろしい。

指輪を持った者は強大な力を手に入れる。

だからみんなその力を使いたい。

だけど、もしその力を手に入れたとしたら、それは、その者自身がサウロンになる。

だから、指輪を捨てるしか方法がない。

そしてそれはとても難しいことである。




人間の成長とキャラクター

ホビット

ホビッとは、子供。
彼らは背負うものがない。
行動の基準は、好奇心、友情、正義感、使命感、忠誠心、慈悲などである。

人間

人間は青年。
彼らは、ホビットと違ってそれぞれ守るものがある。

ホビットのように、単純な動機で動くことができないし、かといってガンダルフの知性には遠く及ばない。

迷い、苦しむ。

それゆえに深みがある。

賢者

彼らは父親である。
ガンダルフは良い父性の化身である。
彼がいれば、安心する、すべてうまくいく。
だけど、彼には彼の世界がある。
常に、そばにいてくれるとは限らない。
父親が不在の時に、青年や子供たちは自分の力で世界と向き合わなければならない。
そして、父親はいずれ去っていく。

それが、 自立である。


なので、「ガンダルフは肝心な時にいない」のである。


サルマンは悪い父性の化身である。
ある時はその魅力的な声で誘惑し、ある時はその知識と恐ろしい言葉で襲いかかる。
父性は、子供たちをコントロールしようとする。
いつかは子供たちは、自分たちの力で悪しき父性を乗り越えなければならない。

それも自立である。


そのほかのキャラクターと人間を取り巻く環境

冥王

冥王は環境である。
冥王自体は、実態として登場しない。
実態として存在しないにもかかわらず、世界はそいつを中心に回る。
こいつは、村上春樹でいうところの、リトルピープルや、システムや、壁に近い存在なんだと思う。

僕らが本当に戦わないといけないのは、目には見えないものである。

エルフとドワーフ

エルフやドワーフは、他者である。
彼らは、感情移入の対象ではなく、あくまでも隣人である。

合わせ鏡のキャラクター

指輪物語に出てくるキャラクターは、それぞれ対になるキャラクターがいる。

フロドxゴクリ

どちらも指輪に魅せられた者同士。
ゴクリはある意味ではフロドの未来の姿である。
だからこそ、フロドはゴクリを殺せなかったのではないだろうか。

アラゴルンxボロミア

どちらもたくさんの人間の命を背負っている。
ボロミアは精神的に弱く描かれているが、ある意味では一番人間味のある人物ではないだろうか。

ガンダルフxサルマン

どちらも父性を体現している。物語の描写でもガンダルフとサルマンが見分けがつかないシーンもある。
ある意味では、二人は同一人物といってもいいのかもしれない。
強力な父性を持った父親を別の角度から見ただけなのかもしれない。


死中に活を見出す方法

冥王サウロンは邪(よこしま)なそんざいである。
だから、邪な考えに縛られる。

指輪を持った者は指輪を使うとしか考えることができない。

指輪を持った者が指輪を破壊する(それも敵の懐に飛び込んで)なんてことは夢にも思わない。

そこにこそ、希望がある。


敵の裏をかくには、もっとも困難と思える道をあえて行くことが大事。

詩の力、言葉の力

指輪物語にはたくさんの詩がでてくる。
物語の中で、詩が重要な役割を果たしている。

詩というものには力がある。



また、魔法使いたちは、あんまり魔法を使わない。
言葉で戦う。
知性こそが力である。


見るということ、知るということ

見ること、知ることはとても重要である一方、それに耐えられるだけの力がないと、恐ろしい結果になる。
見たい、知りたいという誘惑の向こうで、サウロンはいつでも待っている。
けれども、それに耐えられるだけの力と勇気を持った者には、大きなチャンスを与える可能性もある。
サウロンを揺さぶることができるかもしれない。

見ること、知ることには覚悟が必要である。

最後にものをいうのは慈悲の力


指輪物語の一つのテーマとして、慈悲の力というものがあると思う。
ガンダルフは一貫して、ゴクリを殺してはいけないという。
フロド、サムもそれに従い、どんなに裏切られようと、最終的にはゴクリを許す。

これが、最後の最後でものいう。


滅びの山にたどり着き、いよいよ指輪を捨てようとしたとき、フロドは誘惑に負けてしまう。

そこへ、ゴクリが現れて、指輪と一緒に火口へ落ちていく。

指輪を滅ぼしたのは、最後までゴクリを殺さなかった、フロドとサムの慈悲の力である。

どんに強い正義感や使命感でも達成できなかったことを、慈悲の力が巡り巡ってやり遂げたのである。

本当に大事なことは、自分自身の力でやるのではなく、自分が誰かに施したことが、回りまわって思いもよらないところで 達成するものである。




2015年5月26日火曜日

【絵本】『しあわせハンス』/何かを理解できるということは、本当は何にもわかっていないということである

最近、フェリクス・ホフマンにはまっている。

絶版本『しあわせハンス』を絵本屋さんで発見したので、衝動買い。




しあわせハンス―グリム童話 (世界傑作絵本シリーズ―スイスの絵本)
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あらすじは、わらしべ長者の逆パターン。

ハンスが手にした金塊が馬→牛→豚→ガチョウと、どんどん物々交換されて、最後には何にもなくなってしまう。だけど、ハンスはとても幸せでした、というお話。
 

息子(五歳児)にこの本を読んであげた第一声は、「よくわからん」だった。


息子は幸せ者だと思う。


この物語が理解できるということは、登場する物の価値について、その良し悪しが判断できるということである。

その価値がどんどん下がっていって、最後にはなくなってしまうが、ハンスは幸せであるというところに教訓がある。(他にも教訓はあると思うけど)


ハンスは、一般的な物の価値にとらわれないからこそ幸せである。

物の価値にとらわれない目で見れば、この物語は「わけがわからない」物語である。

つまり、(欲にとらわれない)幸せ者は、『しあわせハンス』の物語の意味が解らない。

(欲のせいで)幸せになれない者は『しあわせハンス』の物語の意味はよくわかる。

(そこに共感するかどうかは別問題として。そして、物の価値とうまく付き合いながら幸せを感じる人は別として。)



何かを理解できるということは、本当は何にもわかっていないんだということ。

そういうことも世の中にはある。


物欲に負けてこの本を買った僕は、ハンスの幸せには程遠い。

2015年2月14日土曜日

『ももたろう』の“誕生観”が好きだ

『ももたろう』の“誕生観”が好きだ。

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『ももたろう』では、桃(子ども)はあちら側からやってくる。

昔話の世界では、子どもの誕生に関して、人は常に受け身である。

決して、子どもを手に入れるために能動的に行動しない。

桃(子ども)がやってくるのは、山へ芝刈りに、川へ洗濯へ行っているときである。

日々の生活を真面目に送っているときに、子どもは向こうからやってくる。



子どもを手に入れるために行動を起こすのは、山姥や魔女、鬼や天狗の役割である。



僕らは科学が発達し、物事の因果関係がわかったつもりでいる。

子どもは親がつくるものだと考えがちだ。

親がつくるから、子どものことは親が責任を取るものと思う。

親が責任を取らねばならないから、子どもは親が管理するものと思う。

子どもを管理しようとすると、余計なことをさせないようにする。大人の枠にはめようとする。過保護になる。

そんな時、親は鬼になる。天狗になる。山姥になる。魔女になる。

鬼になるのはつらい。

親もつらいし、子どももつらい。


自分の中の鬼が出てきそうになったとき、僕は『ももたろう』を思い出す。



子どもは、親が作ったものではない。


子どもは、“あちら側”から“こちら側”へ「どんぶらこっこ どんぶらこっこ」とやってきたものだ。

たまたまなのか、何かの導きなのかはわからない。

とにかく、僕のところめがけてやってきた。

他の誰のところでもなく、僕を選んでやってきてくれた。

だから、管理だとか、責任だとか、 そういうことは抜きにして、僕のところにやってきてくれたことを感謝して、ただただ大事に育てるのみである。


子どもが鬼退治に出かけるその日まで。

2015年1月16日金曜日

【子育て】あっかんべー

先日、おまじないの言葉について書いたけど、もう一つ、「あっかんべー」もなかなか良い。

大人は子どもに対して圧倒的に有利だけど、普段あまり意識していないと、この有利さを振り回しすぎて、子どもの逃げ道まで奪ってしまったりする。

そんな時に、「あっかんべー」は子どもにとってステキな武器になると思う。

言われた大人は、イラッとする。イラッとして子どもと喧嘩になる。

喧嘩になるということは子どもと対等になることだと思う。

「あっかんべー」は大人を子どもの位置まで引きずり下ろす魔法の言葉かもしれない。

大人も喧嘩になれば、そのうちバカバカしくなって諦めるかもしれない。

「あっかんべー」と言われた瞬間に、自分が大人の権力を振り回していたことに気づくかもしれない。

まあ、いつもいつも「あっかんべー」と言われたら、それはそれでやりにくいと思いますが、なにかしら逃げ道を残しておいてやるのも大事だと思います。

その辺のバランスも大事だとは思います。

あと、反対に親が子どもに対してNoをいう時にも「あっかんべー」はいいと思います。

僕なんかは特に、子どもにNoという時、なぜNoなのか、クドクド言い聞かせてしまいがちです。

でも、大人の優位性を振りかざしてクドクド説明しても、伝わらないことが多い。

そこで、「あっかんべー」と言ってみる。

大人の権力を自分から放棄して、子どもの位置まで降りていく。

一時的に喧嘩みたいになるけど、それはそれで子どもは自分を出せる。

すると、後に引きずりにくい。

まあ、いつもいつも「あっかんべー」を多用する大人げない親もどうかと思うけど。

2015年1月11日日曜日

【子育て】おまじないの言葉

ネクラな私は何かにつけて思い悩んでズルズルと後に引きずるタイプで、子どもにもその傾向が伝染するとアレだなと思っていたわけですが、子どもは子どもでいつの間にか、僕の知らないところで嫌なこととか悲しいとことを乗り越える力であったりテクニックを身に付けてきているようです。

その中で、僕が特に感心して、僕自身も使いたいと思ったテクニックを一つ。


うちの子は、食べたいおやつが食べられなかったり、遊びに行きたいのに行けなかったり、そんなちょっと残念なことがあったとき、「がっくし」と言って肩を落とします。

これって、結構いいなと思いました。

嫌なこと、残念なことがあったら、「がっくし」と言ってみる。そうすることでとりあえずの区切りを自分自身に付けることができる。
例えば、食べたいおやつを食べれなかったとき、「がっくし」ということで、「僕は今、“がっくし”な状態なんだ」と腑に落ちる。
自分の気持ちを客観的に見ることができる。(というか、本人は意識していないにしろ、客観的に見ている状態である)
そうすると、あんまり後に引かない。


逆にいつまでも引きずっているときって、

「おやつ食べたい! なんで僕は食べれないの?  なんとかすれば食べられるんじゃないの? そんなん納得いかない! なんで僕だけこんないやな思いしないといけないの! 云々・・・」

とまあ、“おやつ食べたい感情”に引っ張られて、頭がごちゃごちゃしてしまっていて、全然冷静じゃない状態だとおもう。

そういう時って、周りも大変だけど、本人も結構きつい(と思う)。


だから、意識して「がっくし」と言ってみる。

そうすると、まぁ、嫌なことが消えてなくなるわけではないけど、すこし落ち着く。気持ちを切り替えることができる。


もちろん、いつも「がっくし」と言えるわけではなく、「がっくし」と言えないほど嫌なことはたくさんある。
でも、それはそれで「“がっくし”レベルではない」という一つの指標になる。





子どもに限らず、こういう「おまじないの言葉」を一つ持っておくと、少し生きやすくなるかもしれません(僕のようなネクラは特に)。


僕らは、思ったことを言葉にすることもあれば、言葉にしたことから生まれる思いと言うものもある。

昔の人はそういうものを「言霊」と呼んだ、かどうかはわかりませんが、言葉にはそういう力があると思います。


あと、こういう「おまじない」を子どもに使わせるには、「こういう時は『がっくし』と言いなさい」と言う風に教えこむのは、あんまりよくないかもしれない。ちょっとくらいならいいかもしれないけど、多用すると、ある種の思考停止状態になってしまうかもしれない。

それより、きっと親自身が、「今日ビールないの? がっくし」とか、「今日は雨か、がっくし」とか、自分自身で使っているところを見せるのがいい思う。たぶん。

そうすると、子どもは子どもで勝手に「がっくし」のニュアンスとか使うタイミングとかを掴むし、勝手にアレンジして自分のものにする。もし自分には合わなかったら、使わない。それはそれでいいと思う。(うちの場合、「がっくし」は子どもが先に言い始めたんだけど。)


そんな風にして自分の家族にあった「おまじないの言葉」を作っていくと、楽しいかもしれません。


それでは。

バルス!

※僕は専門家ではなく、結構適当に書いているので、これが本当にいいかどうかはわかりません。なので、全然責任は持てません。