2013年3月15日金曜日

地震と向き合うために

2011年3月11日、東日本大震災から2年余りがたちました。


僕自身は、あの瞬間、東京にいて全く無事でした。

幸い、千葉の自宅(当時)も実際的な被害はありませんでした。

家族も無事でした。


だけど、あれほど大きな規模の出来事は、実際的な被害がなくても、人間の内面をがらりと変えてしまうということを身を持って感じました。


あの圧倒的な地震で、僕の中の何か(たぶん僕がこれまで築き上げてきたモノたち)が、ガラガラと音を立てて崩れてしまった。



そして、液状化現象のように、隙間を埋めていた、いろんな感情(不安や弱さ、喜びや希望)みたいなものが表面に溢れ出してきて、ぐちゃぐちゃにまじりあってしまった。


そのぐちゃぐちゃを、うまく整理できないまま2年間を過ごしていたような気がします。




僕は、そんな自分の不安定な状態を見て見ぬふりをして、何とかうまく立ち回ろうとしてきた。




だけど、そろそろ、ちゃんと向き合うべき時期が来たような気がする。



あの地震は、僕にとって何だったのか。

僕に何をもたらしたのか。

僕は何を損なったのか。

何を失わずにすんだのか。

何を得られなくなったのか。




それらを、しっかりと見つめなおす必要がある。


あの地震と向き合う必要がある。


そして、もう一度、地震で崩れてしまった僕の内面を立て直して、感情を整理する必要がある。




何が言いたかったというと、僕は17日から20日にかけて、東北へボランティアに参加しに行きます。
(作業は18日、19日だけであとは移動です)


時間ができたことと、家族が応援してくれたことで、行けることになりました。(感謝です)


本当はもっと早く行くべきだったんだと思いますが、なんやかんや言い訳をしながらずっと後回しにしていました。

「僕には家族がいる。他人の前にやらなければならないことがたくさんある」

みたいな言い訳です。(家族のせいにするなんて、とても情けない言い訳です)


ボランティアというと、人のためというのが基本なんでしょうが、上述の通り、動機は僕自身のためであり、非常に不純です。

不謹慎と言われても仕方がありません。



現地でご苦労されている方には非常に申し訳ないと思います。


でも、高々僕程度のものが迷惑かけたところで、大した害にはならんのじゃないかなと開き直っています。


あわよくば、何かの役に立てれば、そんなにうれしいことはありません。



あの地震と向き合うため、東北へ行きます。

とはいうものの、たった2日では、何も変わらないかもしれない。

また、2年という歳月は、取り返しのつかないものなのかもしれない。

だけど、とにかく行かないことには始まらないのです。


僕自身の救済のために。


たとえ、うまく自分を取り戻せないとしても。




※僕は、地震によって物理的、実際的な被害は受けてません。なので、物理的・実際的な被害にあわれた方、亡くなられた方、誰かを亡くされた方に比べたら僕の感傷なんて、全然大したことありません。なので、「お前の感傷がなんだっていうんだ!」とお叱りを受けるかもしれません。それに関しては、弁解の余地もありません。ただ、僕は非常に身勝手で我儘で弱い人間なので、他の方のことよりも自分のことを優先するしかないのです。すみません。

2013年3月14日木曜日

【映画】『人のセックスを笑うな』/写真集みたいな映画だ

久々に邦画をみた。

『人のセックスを笑うな』。

すごいタイトルです。
どんなセックスが繰り広げられるのか楽しみでした。


でも、実際見てみるとタイトルとは裏腹にさわやかな青春映画でした。

すこし、ドキドキするシーンはありましたが。

以下、感想。ネタバレは・・・ たぶんないと思う。でもあるかも。


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写真集のような映画

黒澤明がいってたのか、黒澤明の映画を誰かが評して言ったのが忘れたけど、こんな言葉を思い出した。(うる覚えだし真偽は不明)

”いい映画は、どの瞬間の映像を切り出しても絵画のように美しい”


この映画はまさに、これだなと思った。

どの瞬間を切り取っても、絵画、というより「写真」として成り立つ。

構図がとてもきれいだ。


最近の映画とかテレビドラマって、ハンディを多用してるのが多い。

あれはあれで、臨場感とか雰囲気とか主観的表現とで、いいんだけど、僕なんかは結構疲れるんですよね。

年をとったせいか、画面の動きについていけない。


それに比べて、この映画は、ほとんど固定。


しかもバッチリ構図が決まっている。

綺麗だ。

すごく落ち着く。


素敵な「写真集」をパラパラめくっている。そんな感じの映画でした。


他人の人生を覗き見しているような感覚


この映画は、固定された視点からの映像がほとんどです。

そして、俳優の演技がとても自然です。

カットもすごく長い。

なんとなく、他人の人生を、日常を、じーっと覗き見しているような感覚がしてきます。

セックスって、とても個人的なものなんだと思います。

それに至るまでの経緯や、思いや、人生観や、偶然なんかが凝縮されている。

つまりタイトルの「セックス」という言葉は、その人の日常を象徴しているんだと思います。

この映画は、

「他人の人生(の一部)を見せてあげましょう。
そこには、くだらないことや、おかしなところ、退屈なところ、弱いところもあるでしょう。
でも、みんな切実に生きてるんです。笑ってはいけません。
これは決して他人ごとではないんですよ。
あなただって同じなんです。」


と語りかけてきているような気がします。


天気の良い、土曜の昼下がり頃に見るのがいい


この映画は、素敵なんですが、各カットは長いは動きは少ないわで、少し退屈です。いい意味で。(いい意味で退屈というのはどうなんだろう。ある意味では人生は退屈なもんだと言えるのかもしれないけど)


僕は、夜見たので、とても眠くなりました。

なんとなくこの映画は、明るい時間に、心身ともに元気で、かつ退屈な昼下がり頃に見るのがいい気がしました。


ぽかぽか温かい昼下がりに、この映画を見るなら、たとえ、うとうとしてしまっても、とても気持ちよさそうです。




それにしても

タイトルもそうですが、制作が『「人のセックスを笑うな」制作委員会』っていう名前なのが、笑ってしまいそうになりました。

でも、笑ってはいけません。



おわり

2013年3月12日火曜日

僕は願い事を上手にできない

ぼくは、神社とかで願い事がうまくできません。


お賽銭を投げて、ガラガラやって、手をパンパン叩く。


そして心の中で願い事を言う。


「カゾクガケンコウデアリマスヨウニ・・・」


ぎこちない。

心なしか片言になっていまう。


どうしても嘘っぽくなってしまう。


神様もきっと

「ぱーどぅん?」

と聞き返してると思う。


いつも、お願いをした後に「神様は聞いてくれたんだろうか」と不安になって終わる。

願い事をしに行って、不安になって帰ってくるのも釈然としない。


「神様に伝わった!」という手ごたえを感じない。






だから、最近では手を合わせている時には「何も考えない」ことにしている。


ただ、事前には「何をお願いするか」を決めておく。

「家族の健康」とか「交通安全」とか。

だけど、実際に手を合わせて目を閉じているときには頭をからっぽにする。



すると、あら不思議。

目を開けたときには、結構気分がすっきりしている。

しかも、一生懸命願い事を念じていた時よりも、願いが神様に届いたような気がする。





むしろ、僕が何も考えられないのは、僕の願望、煩悩みたいなものを神様が吸い上げてくれたからのような気すらしてくる。


僕の願望、煩悩を浄化してくれる。

うん、浄化。

浄化って言葉がピッタリだ。


そして、その浄化したモノを、再び僕の細胞の隅々までを浸み込ましてくれる。


神様に

「大丈夫、何も心配いらない。リラックスしなよ。きっとうまくいくよ。」

と言われた気がする。

僕は、頭の中がすっきりして、リラックスして、「うん、大丈夫、何とかなる」と思う。


頭の中で凝り固まった煩悩エネルギーを身体を動かすための身体エネルギーに変えてもらったようなイメージです。




みんなは、願い事するときはどうしているんだろう?

嫁はどうしているのか聞いてみたら、


「神様に話しかけている」

のだそうだ。



「最近、お参りに来てなくてすみません。あのですね、実は近頃○○が××で・・・。ここはひとつ▲▲してもらえませんかねぇ・・・。どうでしょう?」


ていう具合だそうだ。(こんな軽いノリではないかもしれませんが)



お願い事のスタイルもいろいろだ。


面白い。


以上。

僕は願い事がうまくできないので、お参りの時は何も考えないようにするというお話でした。


心の中で願い事をうまく言えない
心の中で願い事をうまく言えないの図

2013年3月10日日曜日

【感想文】書籍 村上春樹訳『The Catcher in the Rye』/「わき道」にそれることを恐れない

村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んだ。









子どもから大人への過渡期



感性が純粋なホールデンは、大人の社会へ適応しきれない。

かといって子どものままではいれれない。


そんな葛藤に苦しむ。


そして、純粋なもの、幼いもの、無垢なものへの執着する。


淡々と語られる文体から、一見世の中を斜めに見た、冷めたように感じられる。


でも、弟や大事な女の子のこととなると、取り乱し、混乱してしまう。


クールな語り口とその取り乱し具合のギャップが、また痛々しい。


小説全体に広がるこの痛々しさが、ナイフのように僕の心を切り付ける。


思春期の心の痛みを思い出させる。






絶妙なバランス感覚


主人公のホールデンは、一見、非常に感受性豊かでユーモアにあふれ、批判性に富んでいるように見える。



だけど、それとは裏腹に行動はとても陳腐だ。



行動だけみてみると、彼は、彼が軽蔑する多くの人と大して変わりがない。


このことは、僕に2つのことを思い起こさせる。


ひとつは、豊かな感受性を持ちながら、陳腐な行動しかとれないホールデンの葛藤、苦悩。

もう一つは、一見、ホールデンが軽蔑している周りの人間も、実はホールデンと同じような感受性があり、同じように苦しんでいる可能性。


前者については、確かにホールデンは人並みならない感受性を持っていると思う。

後者については、ホールデン自身、うすうすそれを感じている節がある。

最期の章に次のように言っている。

”僕にとりあえずわかっているのは、ここで話したすべての人のことが今では懐かしく思い出されるってことくらいだね。”

僕の勝手な印象だけど、この(一方的な)和解の一言から、「結局みんな同じだよね」って言っているように感じた。





「僕が感じてるこの特別な気持ち、君はわるよね」という共犯的要素と、

「誰もがそれぞれ心の痛みをかかえているよね」という一般論が

微妙なバランスをとっている。


このバランスが、多くの人から支持を得ている要因じゃないかなと思う。



ホールデンの偏った感受性

ホールデンは豊かな感受性と、ユニークな批判性を持っている。

妹のフィービーを溺愛したり、幼馴染のジェーンに親しみを感じている。

一方、サリーなど多くの女の人を軽蔑している。


でも、フィービーの行動はかなり偏屈で、そういう行動は一歩間違うとサリーのように軽蔑する側に入ってもおかしくない。

(フィービーが「お父さんに殺される!」を連呼した時なんか、「ウザ」って思いそうだけど、なぜかホールデン的にOKだし。。。)


また、ジェーンは最後まで登場せず、回想の中でしか出てこない。ほとんど妄想の中で美化されているといえなくもない。現実にはもしかしたら、サリーのようにつまらない女の子になっているかもしれない。


サリーだって、ホールデンがもう少し寛容になれば、外見以外に素敵なところを見つけてあげられたかもしれない。


だけど、ホールデンは、素晴らしい感受性と執着で、フィービー、ジェーンとサリーの境界線をきっちりと分けている。


この境目を、非常にうまく表現しているなあと思う。


確かに、フィービー、ジェーンは素敵だとおもうし、サリーはちょっと俗っぽい。


ホールデンが付けた境目は非常に納得できる。


だけど、一皮むけばフィービーもジェーンもサリーもそんなに変わらないんじゃないの? という可能性をぼんやりと示している。


ホールデンはすごい感受性があるようで、実は偏見だらけで、だけど偏見なんてみんな持ってるし、それでもホールデンの偏見は気が利いているよね。

なんて言ったらいいのかよくわからなくなってきた。


とにかく、ホールデンの鋭い感性と、それが実は偏見だということが、小説としてとてもバランスよく描かれていて、読んでいて、気持ちいいし、楽しいし、悲しいし、面白かったです。

(うまくまとまりません、、、、)



「わき道」にそれてもいいじゃない


ところで、僕は、ホールデンがミスタ・アントリーニに「口述表現」のクラスにつて語ることるところが好きです。

ホールデンはこう言っています。

”問題はですね、僕は何しろ誰かの話がわき道にそれるのが好きだってことにあるんです。だってその方がずっと面白いんだから”


素晴らしい感性だと思います。


いつも文章がうまくまとまらない僕に、勇気を与えてくれます。



わき道にそれたり、まとまらないことを恐れず、頑張ろう。



おわり

2013年3月8日金曜日

【映画】『ダークナイト・ライジング』/新しいヒーロー像

『ダークナイト・ライジング』みた。

突っ込みどころ、満載だった。

前作、『ダークナイト』が良かったので、期待が大きかったのもあって、『ライジング』見終わって、ちょっと残念だった。


だけど、「残念」で終わってしまうのも悔しい。


「『ダークナイト』が良かったんだから『ライジング』もいいはずだ」というミーハー精神で、『ライジング』を自分の中で咀嚼した。


いろいろ考えたら、意外といいかも? と思ってきた。


それをだらだらと綴ります。





以下、ネタバレアリ。










『ダークナイト』の宿題の答え






『ダークナイト』では、ジョーカーが「混沌」の「象徴」として描かれる。



人々はハービーデントの「光の騎士」という「幻想」で、仮初の平和を手に入れる。


しかし、幻想はいつか終わりが来る。


案の定、再び混乱がやって来た。

文字通り、光の届かない地下から。

今度は「象徴」としてではなく、「現実の人間」が望んで「混乱」を持ってくる。


それが「ベイン」だ。


今度は「リアル」な人間が相手だ。


幻想ではなく、根本的な現実的な解決が必要だ。


『ダークナイト・ライジング』では、この根本的な解決が示唆されていると思う。


ベインの強さの秘密。あるいはバットマンの弱点。



「ベイン」の描かれ方と「ジョーカー」の描かれ方の違いは非常に面白い。



ベイン:過去がしっかり描かれる。つまり実体のある確かな人間として描かれている。

ジョーカー:過去が描かれていない。口の傷の由来も様々。つまり同時多発的な「神的」に描かれている。



ジョーカーが、象徴的、神的な存在として描かれているのに対して、ベインは確固たる信念、目的を持った一人の人間として描かれている。


ベインはゴッサムが仮初の平和を享受している間に、地下で着々と力を蓄える。


そして幻想に耐性をもつ。


幻想を恐れない。神を恐れない。ヒーローを恐れない。

新人類。


だから、バットマンはかなわない。


バットマンもやはりヒーローという幻想だからだ。


ブルースにとってもバットマンは幻想だった。


レイチェルが死に、ジョーカーが去った後、ブルースはただただ死に場所を求めていた。


再び悪者が現れ、バットマンに戻ることを夢見ていた。



死に場所を与えてくれる存在。


もしくは、自分の存在意義を感じさせてくれる存在。


そんなバットマンだからこそ、ベインに完敗する。




バットマンの幻想パンチ! 幻想キック!


そんなものはベインには通用しない。


ベインは徹底的なリアリストだからだ。


幻想のパンチやキックでは軽すぎるのだ。


ベインを倒すためには、リアルなパンチ、リアルなキックが必要だ。


生身の人間の重みのあるパンチ。


バットマンが奈落の底で手に入れたもの




あえなく、バットマンは奈落(監獄)送りになる。


そこで、バットマンは修行(?)によってリアルな力を手に入れる。


死への恐怖、生きる希望。


それらによって、バットマンはヒーローという幻想を捨て去り、一人の人間としてベインに立ち向かう。



ゴッサムに戻ったバットマンは、これまでとは一味違う。

まず、仲間を信頼し、自分の命を預ける。

これまでも、ゴードンやハービーと協力していたし、信頼もしていた。

でも、自分の心の内まで見せていなかったように思う。


だけど、奈落から戻ったバットマンは、「俺は君を信頼している!」という気持ちを包み隠さず見せる。


これは大きな変化だと思う。



そして、いざベインとの再戦!


リアルパンチ! リアルキック!


やった! 今度は届く!


もうバットマンは幻想じゃない。

自分自身のために戦う。

自分と自分の周りの人の幸福のために戦う。


だから届く!


個人的パンチ! 個人的キック!


そして、とうとうベインをやっつけた!



すごいぞリアルパワー! すごいぞ個人パワー!


(今回の泥臭い殴り合いが多くて、最初は「えぇww」っておもった。

でも、このあたりの「幻想」「実体」の攻防を表現するには、確かに納得の演出だと思う。)



これから必要な新たなヒーロー像



このリアルパワー、個人パワーこそが、幻想に頼らず、根本的な問題を解決するためのパワーだと思う。






そして、このパワーは、バットマンがゴードンに最後に言ったセリフのヒーロー像と同じだ。
"ヒーローはどこにでもいる。
目の前の子どもの肩に上着をかけてやり、「世界は終わらないよ」と優しく励ましてあげる。
そういう男こそが、ヒーローなんだ。"


バットマンが奈落の底で身に着けた個人的パワーは「目の前の男の子を優しく励ますこと」とイコールだ。


これをみんなが持ち続けることが大事なんだ。



世界は複雑になった。

誰か一人をやっつければ何かを解決できるというわけではなくなった。

(実際ベインは真の首謀者ではなかった)

何かを解決できたとしても、新たな問題が次から次へと沸いて出てくる。

(ラズアルグール、ジョーカーをやっつけてもベインが出てきたように。)


今までのような強大なヒーローでは対応できない。


だから、世界には新しいヒーロー像が必要だ。




これからは、「目の前の子どもを優しく励ます」という小さいけれどリアルなヒーローこそ必要だ。


そしてみんなヒーローになれる。


そういうヒーローたちが新しい世界を作ることができる。

ミスチルも言っていた。

”ヒーローになりたい、たった一人君にとっての。つまずいたり転んだりするのならそっと手を差し伸べるよ”

2013年3月6日水曜日

絵本を読まば、作者まで

子どもの保育園で、絵本を読み聞かせるとき、ちゃんと作者まで読み上げるらしい。


それに習って、我が家でも絵本を読むときは作者まで読み上げる。


「『きんぎょがにげた』 五味太郎・作」

とか

「『100万回生きたねこ』 佐野洋子」

とか。



 

これをしていると、絵本の作者の作風がなんとなくわかる。

なので、図書館とかで絵本選びの時、

「ああ、あの作者ならおもしろそう」

とか、選びやすい。




子ども(三歳児)も、いつの間にか「五味太郎」とか「山本忠敬」とかは絵を見ただけでわかるようになっている。


※「山本忠敬」は、自動車の絵本をたくさん出しているので、車好きの長男は夢中だ。

Amazonで「山本忠敬」の検索結果


絵本を読み聞かせるときは、タイトルの後に、ぜひ、作者まで読んであげてください。




で、本題はここから。



そうやって、ちょこちょこ、絵本の作者の名前を覚えていたので、ちょっとした出会いがあった。

出会いといっても、人に出会ったわけではなくて、自分のなかの、ある記憶と、ある記憶がリンクしてちょっとした驚きがあった。



先日、近所のブックカフェへ行った。


そこで、なんとなく、村上春樹の絵本を手に取った。


『ふしぎな図書館』と

『羊男のクリスマス』

の2冊。


 

不思議でへんてこな物語。


だけど、なんとなく心温まるお話。


僕は、「羊男」の挿絵を眺めていて、「どこかで見たことがあるなぁ。どこだったっけ?」と思った。


で、表紙を改めてみてみると「佐々木マキ」とあった。



「わwww」

って思った。


なんで今まで気づかなかったのだろう。



「佐々木マキ」といえば、『くりんくりん ごーごー』とか『まじょのすいぞくかん』の作者じゃないか!

まじょのすいぞくかんまじょのすいぞくかん
作・絵:佐々木 マキ出版社:福音館書店絵本ナビ

  
※『まじょのすいぞくかん』がAmazonにない!





(どちらも子どもたちがえらく気に入っていた)


Amazon 「佐々木マキ」検索結果


そして、家に帰って、村上春樹の文庫本カバーを見てみると「m.sasaki」って書いてある。

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫) ←こういうのとか


Wikipediaで「佐々木マキ」を調べてみると、やっぱり村上春樹のカバーのデザインの多くを手掛けている。(羊シリーズとか全部!)

Wikipedia 「佐々木マキ」



絵本の作者を読み上げていたからの気づきでした。


(それにしても今まで気づかなかったなんて!)


そして、絵本作家というのは、いろんなところで活躍しているんだなぁと思いました。


「絵本を読まば、作者まで」

これはおすすめです。


おわり。


2013年3月5日火曜日

【感想文】映画「ダークナイト」/ジョーカー、まじネ申


『ダークナイト』見た!

ktkr!

すごい!

ジョーカーすげぇ!


面白い物語を見たときは、いつも感想をまとめるのが大変です。

全然まとまらない。


とりあえず、思ったことを徒然と綴ります。


以下、ネタバレ、アリです。




『ダークナイト』は神話的な物語



この映画は、なんとなく神話的だなぁと思いました。

この「神話的」というのは、ギリシャ神話とか、日本の神話とかの多神教の「神話」です。


「俺は時間を司る神だ」

とか

「私は貧乏の神です」


とかいった類の、神話です。



概念を神様にしてしまうような神話です。


この『ダークナイト』の敵ジョーカーは「混沌」とか「無秩序」の化身(神)として描かれていると思います。



ジョーカーを生身の人間と考えるより、「混沌」「無秩序」の象徴としてみたほうが、しっくりくる。



ジョーカーはただの象徴だから、捕まえたり、殺したりすることにはあまり意味がない。


問題はジョーカーそのものではなくて「混乱」や「無秩序」の方だ。


彼を殺したり捕まえたりしたところで問題の根本は解決しない。


映画ではそのことが非常にうまく表現されている。

バットマンたちは何度もジョーカーを捕まえる。


だけどそのころには、「最悪の状況」はジョーカーの手を離れている。


ジョーカーの恐ろしさは、ジョーカーそのものではなくて、ジョーカーが象徴するものが恐ろしいからだ。



我々は、ジョーカーが象徴する「混乱」にどう立ち向かうかというのがこの映画のテーマでもあると思う。






裂けた口の物語

ジョーカーは、自分の裂けた口の由来を語っています。

しかも2回も語っています。



でも、1回目と2回目はどちらも違う理由を語ります。


(3回目、バットマンに語ろうとしたときにそっけなくされちゃいますが)



普通に考えると、

2回の内どちらかが本当で、どちらかが嘘。

またはどちらも嘘。

ってことになる。


でも、ジョーカーが神的存在だとすると、


「どちらも本当」


といえるかもしれない。


(神様なら同時多発的に存在できる)


つまり、「口を裂く」という残虐な行為の原因は、どんな可能性だってあり得る。





ジョーカーを生んだのは、「ぼくが子どもに冷たく当たったこと」が原因かもしれないし、「あなたが恋人にひどい言葉をかけたこと」が原因かもしれない。


僕らのそういった少しずつの理不尽さ、悪意、無関心さみたいなのが、元気玉のように集まって凝縮され生まれたのがジョーカーなんだと思います。






ジョーカーは地震みたいなものだ




ジョーカーは地震みたいなもんだ。


ジョーカーは(あまり)直接手を下さない。


(最悪な)状況を用意する。


人々は、その最悪な状況の中で、判断を迫られる。


多くは、判断力をそがれ、最悪な選択をする。


だけど、そうでない場合もある。


最悪の状況におかれてもなお、勇気で乗り越える場合もある。



この映画を見て、僕は先の大震災を思い出した。


多くの人が、最悪の状態で、難しい判断を迫られた。



心がくじけそうにもなった。


立ち上がる人もいた。


災害すら私利私欲に利用する人も現れた。



『ダークナイト』そのままだと思った。


ジョーカーは地震、津波だ。


万人に、公正に最悪だ。


そして、唐突にやってくる。


避けがたく、必ず、やってくる。


その時に、僕らはどうすべきか。


『ダークナイト』にはそのヒントがちりばめられていると思う。(たぶん)




バットマンとジョーカーの関係


ジョーカーはバットマンに「お前も同類だ」的なことを言っている。

これはつまり、どちらも「無秩序」に属するからだろう。


世間のルールからはみ出した存在。

法律で縛ることができないジョーカー。

法律で縛ることができない者を法律を超えた力で成敗するバットマン。


ジョーカーの力が強大であればあるほど、バットマンは「法外」力に頼らざるを得なくなる。


バットマンの力がより強大になればなるほど、ジョーカーは更に狡猾にならざるを得ない。


そしてバットマンはより強力な力を必要とする。


しかも、バットマンはジョーカーを殺すことができない。(信念的に)


イタチごっこ。


だから、ジョーカーはバットマンを必要とする。


バットマンも、バットマンでいるためにはジョーカー的な存在が必要だ。


お互いが、お互いをけん制しあいながら、より強大になっていく。

微妙なパワーバランスを保ちながら。



それがあまりにも大きくなりすぎたらどうなるんだろう。


たぶん、ちょっとしたバランスのいきちがいで、偉いことになるだろう。

核抑止力的な発想。


本当に必要なのは、バットマンが必要のない世界。



バットマンのいない世界を作るのは、2隻のフェリーがお互いを爆破しなかった「勇気」だと思う。




ダークナイトでいつづけるには「頑固」でなければならない

人間の正義感、倫理観というものは、「混沌」の前には非常にもろい。

それは正義感に燃えてハービーがトゥーフェイスに変貌したことに象徴されている。

ジョーカーも「人間のモラルは簡単にひっくり返る」と言っていた(とおもう)。


人間社会では昨日正義だったものが、今日は悪になることは簡単に起こる。


ジョーカーが、「混乱」と「恐怖」で倫理観をひっくり返して見せた。


ジョーカーが「バットマンがマスクを取らなければ殺人をする」といえば、世間は「バットマンがマスクを取らないから悪いんだ」となる。


ジョーカーが「リース君を殺せ。さもなくば病院を爆破する」というと、リース君を殺しに人々が殺到する。


何が正しい、何が正義かなんて言うのは、「混乱」「恐怖」の前では一変してしまう。


ハービーが大事にしていたのもこの手の「正義感」や「倫理観」だった。だからジョーカー(混沌)の前では簡単にひっくり返る。


だけど、バットマンは違った。


ひっくり返らない。

曲げない。

ジョーカーは「頑固なやつだ」と言っていた。


この頑固さこそが、「混沌」に立ち向かう唯一の武器なのかもしれない。



村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』でも自分のステップを踏むことが大事だと言っていた。

”とびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。”




ジョーカーに打ち勝つためには、そういう頑固さ、愚直さ、泥臭さみたいなものが必要なんだと思う。






僕らにはまだまだ幻想が必要



ジョーカーに勝つためには「頑固さ」や「自分なりのステップ」が大事なんだけど、世の中そんなについよい人はあまりいない。

やっぱり、恐怖や混乱には弱い。


だから、最後に頼るのは、「幻想」だ。


市民は「光の騎士ハービー」の幻想が必要だった。

バットマンはレイチェルの愛という幻想が必要だった。


それらはまさにジョーカーによって簡単にひっくり返される類のものだ。

だけど、それに頼らざるを得ないところが、「現実」である。


だから、幻想だけではどうしようもない部分を「ダークナイト」に託す。


僕らには、まだ「光の騎士」という幻想が必要だ。

僕らには、まだ「闇の騎士」という存在が必要だ。


だけど、2隻の船が無事だったように混沌の中にも希望がある。

それがバットマンのいない世界を作る原動力になるとおもう。



ヒース・レジャーについて


こんなにすごいジョーカーを演じたヒース・レジャーがなくなったのは、本当に悲しい。

この映画でジョーカーが2度目に登場するシーンが非常に印象的だった。

鉛筆を消すマジック。


このシーンで、僕は一気にジョーカーの世界に引き込まれてしまった。

本当にジョーカー、すごいと思いました。



『ダークナイト』というタイトルについて


ずっと、『The Dark Night』だと思っていたことは内緒です。





以上。 

ジョーカーが象徴するような混沌とした(そしてジョーカーのように天才的にはいかない)無駄に長い感想文、おわり