2013年4月29日月曜日

【ネタバレ注意】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』について、じわじわ思ったこと

時間をおいて、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の「あれって、こういうことなんじゃないの?」みたいなのが、2、3思い浮かんだ。



思いつきなので、論理的に「穴」はたくさんあると思うけど、備忘録的に書く。


ネタバレ注意。


名前の中の色彩について



色彩は何を意味するのか。



この物語には、名前に色を持つ人物と、持たない人物がいる。


名前に色を持つのは7人。

多崎つくると、高校時代にグループを形成した4人。

  • ミスター・レッド
  • ミスター・ブルー
  • ミス・ホワイト
  • ミス・ブラック


大学時代の友人とその父親。

  • ミスター・グレー
  • ミスター・グレー(父)


ミスター・グレーの話に登場する人物。

  • ミスター・グリーン。



彼らはなぜ色を持つのか。


「個性的だから」、という理由だけなら多崎つくるの現在の恋人、会社の後輩たちに「色」がない理由の説明が付かない。



彼らが色彩を持つ理由を考えてみた。


名前に色彩を持つ人物たちは、「多崎つくる」にとって「過去の人」なんじゃないだろうか。

過去の思い出。

思い出の中にだけ存在する色彩。

思い出を彩る色彩。


逆に言えば、名前に色彩を持つ人物は、多崎つくるのもとから去って行く。

彼らは二度と多崎つくるの前に姿を現さないだろう。



ただ、「ミス・ブラック」は、自分と「ミス・ホワイト」のことを「シロ」「クロ」と呼ばないでくれといった。

色ではなく名前で呼んでくれと言った。


自分たちの存在を「過去」とひとくくりにされることを拒んでいるように感じられた。


二度と会えなくても、多崎つくると同じ時間を生きている、それを彼にわかっていてほしいという強い思いが感じられた。


生身の人間に立ち返ることを求めているように見えた。


人間が持つ「色」が見える能力について

ミスター・グリーンは、近い将来の「死」と引き換えに、人間が持つ「色」を見る能力を手に入れる。

その知覚は、一旦経験してしまうと、今までの生きてきた世界が”おそろしく平べったく見えてしまう”ほどのものだ。

それほど、魅力的な能力。


ミスター・グレーがなぜこのような不思議な寓話を多崎つくるにしたのか。

そこは、物語の上で重要なんだと思う。


ミスター・グレーが語るこの寓話は、多崎つくるの高校時代を暗示するものではないだろうか?




多崎つくるは、「赤」「青」「白」「黒」の色を持つ人間と”乱れなく調和する共同体”を作り上げた。


この、「名前に色を持つ人々との共同体」=「人間が持つ色を見る能力」なんじゃないだろうか?


そして、その共同体に比べれば、周りの世界が”おそろしく平べったく見える”くらいに完璧な共同体。


それと引き換えに、彼は実際に”死”に直面する。


それは、ある意味では本当の死だった。

肉体ががらりと変わり、内面はほとんど入れ替わってしまうほどのものだった。


また、ある意味では、”乱れなく調和する共同体”からの追放(能力の喪失)によって生き返ったともいえる。

ミスター・グレーの寓話は、「”乱れなく調和する共同体”を手に入れた多崎つくるが死に直面した」ということを暗示しているのではないか。



じゃあ、ミスター・グレーが能力の喪失後に現れた理由は何だ? という問題が残るので、まだ穴はあるけど、人間の色を見る能力は、多崎つくるの高校時代の比喩だという仮説は、割といい線いってるんじゃないだろうか?





駅を作ることについて



多崎つくるは、駅を作っている。

駅と聞いて、『ダンス・ダンス・ダンス』を思い出した。

二つのドアを持つ、空っぽの部屋。

互換性のない、入り口と出口。

誰かが入り口から入ってきて、出口へ出ていく。


駅も、誰かが入ってきて、誰かが出ていく。

ただ、自分はそこにいて、眺めていくだけだ。


最初、多崎つくるも、『ダンス・ダンス・ダンス』でいうところの、「ドアが二つある部屋」にいるような気がした。


だけど、読み進めていくうちに、どちらかというと、『羊男の部屋』を思い浮かべた。


何かと何かをつなぐための部屋。


駅は、どちらかというと、「つなぐための機能」だ。


多崎つくるは、駅を作ることで、何かと何かをつなげている。

羊男が「僕」のために何かをつなげるように。



多崎つくるは、羊男が何かをつなげる代わりに駅を作る。

、『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」が文化的雪かきをするように、駅を作る。

そして、「僕」がダンスステップを踏むように、「巡礼」をする。

”つながっている”
と僕は思った。


関連エントリー

自由意志について/色彩を持たない多崎つくると、LIGとAKB


【感想文】色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/示唆に富みすぎて考えがまとまりません




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2013年4月27日土曜日

スマートな結婚について

先日、結婚斡旋会社の広告で

「いまどき結婚はスマートに」

みたいな広告を見かけた。


僕はこの広告を見て、ものすごく違和感を覚えた。

「スマートな結婚式」だったらなんとなく理解できたかもしれないけど、「スマートな結婚」という部分に引っかかってしまった。



そして、その違和感の正体を探ってみた。


※ここでは「結婚」について書いています。「結婚式」のことではないです。あしからず。


先日、内田樹先生の『下流志向』という本を読んだ。



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その感想→【感想文】下流志向/先人へのリスペクトは大事


その中で、リスクヘッジについて書かれていた。

要約するとこんな感じだった。

---

現代社会は、空前のリスク社会である。

我々は、様々なリスクにさらされている。

それは、しきりにアナウンスされている。

しかし、だれも”リスクヘッジ”については教えてくれない。


さらに、個人はコミュニティから切り離され、バラバラに分断されている。

我々は、個人でこのリスクに対面している。


しかし、”リスクヘッジ”は個人では成立しない。

”リスクヘッジ”とは、「誰かがつまずいたときに、他の誰かが支える」ことで成り立つ。

だから、”リスクヘッジ”には最低二人以上の関係が必要だ。


しかも、それは、”利益最大化”の関係ではうまくいかない。

”利益最大化”では、「誰かがつまずいたとき、そいつを切り捨てること」が合理的な判断となるからだ。


”リスクヘッジ”は「その関係を結ぶことで誰も得をしない(むしろみんなが損をするような)方法」でしか成立しない。
---

※この辺りは、僕が説明するといまいちピンと来ないかもしれないので、ぜひ『下流志向』を読んでみてください。




「結婚」は、個人における最強の”リスクヘッジ”だと思う。

まさに


”健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くす”

ためにある。



また、個人と個人だけでなく、親族を含めた強力な”リスクヘッジ”となる。


それをより強固なものにするには、より泥臭く、よりしがらみが強くなる方法で、結婚する方がよい。

制約と誓約。

”しがらみ”が強いほうが、”リスクヘッジ”は強力になる。


だから、結婚はスマートたりえない。



「結婚式」をスマートにするのはありだと思う。

バブルのころみたいに無駄に派手にする必要はない。

ただ、「結婚自体」には親族、友人を巻き込んだ方が”リスクヘッジ”という面でいいと思います。


そして、式はそのための手段の一つだと思う。


昔みたいに、親族たくさん呼んで、めんどくさい感じにした方が、実は”リスクヘッジ”としてより強力になる。


昔の人は偉い。





まぁ、自分の結婚の時は、そんなことを考える余裕はなかった。

めんどくさい「しがらみ」はすっ飛ばしてしまいたかったというのが正直なところです。

だけど、今は、しがらみというか、つながりみたいなのをもう少し大事にしたいと思う。

そして、そのめんどくささを少し楽しめるようになってきた。




結婚を”リスクヘッジ”としてばかり考えるのも、それはそれでつまらないと思いますが、ひとつの視点として。

2013年4月26日金曜日

スピッツ『ロビンソン』/自転車に乗っているのは誰?

春ですね。暖かくなってきました。

新しい季節はなぜか切ない日々ですね。


先日、とあるお店で、スピッツの『ロビンソン』が流れていました。



懐かしいですね。


僕は、『ロビンソン』は大好きですが、歌の始めの方を聞くといつも戸惑ってしまいます。


”河原の道を自転車で走る君を追いかけた”

さて、問題です。


自転車に乗っているのは誰でしょうか?



A:自転車に乗っているのは「君」
B:自転車に乗っているのは「僕」



A:自転車に乗っているのは「君」 B:自転車に乗っているのは「僕」
”河原の道を自転車で走る君を追いかけた”の図




僕はいつも悩んでしまいます。


ただ、『ロビンソン』を聞くたびに、違う情景を同時にイメージすることも難しいので、とりあえずの仮の答えとして”A”を思い浮かべるようにしています。

僕がAを選んだ理由としては、


1.冒頭で”新しい季節はなぜか切ない日々”と言っている。自転車を走って追いかけると、なかなか追いつかない。つまり、「切ない」。


2.僕が自転車で追いかけたらすぐに追いついてしまう。そんな易々と達成してしまうような、あたりまえのことを歌にするだろうか(いやしない。[反語])

3.追いついてしまうなら、「河原を一緒に走った」とか「追い越した」とかの方が、「僕」にとっては印象に残るのではないか。そちらを歌詞にするほうが自然じゃないか。

4.もし、走っている人を自転車で追い続けるなら、それはほとんどストーカーだろ。



というところです。




ちなみに、この話を嫁にすると、嫁の意見は違いました。(僕と嫁はしばしば意見が合わない)


嫁はBに近いけど、「”君”は走っていない、歩いている」といいます。

”河原の道を自転車で走る。/君を追いかけた。”
らしいです。”/(スラッシュ)”のところでいったん区切るらしいです。

C:河原の道を自転車で走る。/君を追いかけた。
”河原の道を自転車で走る。/君を追いかけた。”の図

C:自転車に乗っているのは「僕」。かつ、「君」は歩いている。

(その発想はなかったわw[棒])


嫁の言い分は、

1.自転車で走る君を、僕が走って追いかけると、追いつくわけがない。そんな無意味なことは普通しない。

2.自転車をこいでると、河原で歩いてる「君」を見かけたので、追いかけた。(青春!)

3.「君」が河原を走っている理由がわからない。ジョギング? なんか変だ。

だそうです。




あなたはどう思いますか?

2013年4月22日月曜日

自由意志について/色彩を持たない多崎つくると、LIGとAKB

最近、僕の中で引っかかる話題があった。

なぜ、それが引っかかるのか、少し考えてみた。


※あんまりまとまってません。しかも長文。



引っかかる話題はこの二つ

結婚のご報告。30年彼女がいなかった僕が、秒速で結婚できた理由。

伊集院光が語る AKB48峯岸みなみ坊主謝罪事件と秋元康のスゴさ



この二つの出来事を見て、人間の「自由意志」ってなんだろうと思いました。


(※これは、上記の個別の事例について批判するものではありません。センセーショナルなこれらの事例を見てみて、一般論に落とし込めればなぁと考えただけです。)


この二つの出来事の共通点は、「センセーショナルだけど、それを選択したのは本人の意思だ」という点です。

どうして、こんなセンセーショナルでトリッキーな選択肢を彼らは自らの意志で選んだろうか。





これらは、非常に斬新なようでありながら、落ち着く先は「結婚」や「ケジメ」といった至って古風な帰着点です。


自由な選択の結果でありながら、「結婚」や「ケジメ」という、法や社会の規定という枠組み(しがらみ)へ自ら飛び込んでいるようでもあります。


「結婚」や「丸坊主」っていう結果自体は非合理なようで、それらは彼らの合理的な選択の連続の結果です。



個人の自由な選択の結果のようでありながら、彼らには他の選択の余地はなかったようにも見えます。


なんで、こんな矛盾した二つのことが同時に起こるんだろうか?

なんで、こんな不可解なことが起こるんだろうかと、非常に興味がわきました。


特に、本人の「自由意志」による選択のようでありながら、他の何物かの意志によってその選択をせざるを得なかったように”見える”という点に興味があります。

(もちろん僕の偏見です)


そして、自分なりに考えてみました。



この二つの出来事は、どちらも本人の「自由意志」によって選択された行動です。


インターネットが広まり、多くの人がSNSを利用し、個人が台頭する時代になりました。


多様性が尊重され、個人の自由が尊重されるようになりました。



人々はより幅広い選択肢の中から、より自由に人生を選択することができるようになりました。


様々な選択肢が提示され、人々は自分の好みに合わせて、合理的に効率よく、最善と思えるものを手に入れることができる。


自由礼賛。


個人万歳。


・・・


本当だろうか?




僕の心にはこの二つの出来事が引っかかっています。




彼らの前には、あらゆる選択肢が提示されていた。

そして、その中から、”合理的”に”最善”と思われる選択をした。



だけど、ある面から見れば、あらゆる選択肢がありながら”それ”を選択する以外になかったんじゃないだろうか。


考えれば考えるほど、彼らがそうすることは自然だったように思えてくる。


そこには、彼らの「自由意志」なんてものは、本当に脆弱に感じられる。


”自分以外の何か大きな圧力”によってそうすることを仕向けられたように見える。


それは、LIGのプロモーション戦略だとか、秋元康のマネージメントだとか、そんな生易しいモノじゃない。

人間社会が持つ空気圧とか、運命とか、そういう類のものだ。



彼らがもがけばもがくほど、こうなる「運命」が加速していく。


そんな気がする。(結果論でしかないけど)




人間は、”自由”に”合理的”に動こうとすればするほど、その行動は限定されたものになるんじゃないだろうか。

しかもそれを自分「自由意志」によるものだと考える。

だから、後悔もしない。幸せだと感じる。

(これは、別に彼らの結婚やケジメが不幸だといっているわけではないです。あくまでもメカニズムの問題です)



だけど、僕は、その「自由意志」の背景に、何か得体のしれない「圧力」のようなものを感じる。

それは一体なんなんだろうと考えていた。


そして、それは意外と僕の身近なところにヒントがあった。


僕が好きな村上春樹の小説の中にしばしば表現されているものだ。



僕が感じた得体のしれない「圧力」は、例えば『1Q84』の中では「リトルピープル」として描かれている(たぶん)。

また、小説ではないけど、エルサレム章のスピーチの中では「システム」と呼ばれる。(きっと)

【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)/タンポポライオンのブログ


僕らが「自由意志」により選択したと信じているものには常に「リトルピープル」や「システム」が介在している。

しかも、個人主義、自由主義が発展すればするほどそれらは力を持ち、そしてより見えにくくなっていっているような気がする。


完全なる「自由意志」なんていうものは存在しないんじゃないだろうか。



でも、だから、僕らは彼ら(リトルピープルなるもの)と戦っていかなくてはならない。

そういうことなんじゃないだろうか。


そして、『色彩を持たない多崎つくると、その巡礼の年』でも、「自由意志」について描かれている。



※以下、ネタバレアリ。ご注意を・・・




『色彩を持たない…』の登場人物が、「自由」についてのたとえ話をする部分がある。大雑把に言うと以下のようなものです。


「悪いニュースがあります。今から君の爪をペンチで剥がします。これはもう決まっていることです。でもいいニュースもあります。剥がされる爪は”手の爪”か”足の爪”か選ぶことができます。10秒以内に決めなさい。10秒を過ぎると両方の爪を剥がします」

印象的な部分ですが、僕はこれが何を意味するのか、はっきりとわかっていませんでした。

なんとなく、単純に「どちらの爪を剥がされるのも嫌だと叫ぶこと」「爪を剥がそうとするものと戦うこと」が大事なんだと考えていました。



だけど、僕は、前段の二つの事例(「結婚の話」と「丸坊主の話」)をよくよく考えてみて、僕らの前には本当に「爪を剥がされる選択肢」しかないんじゃないかと思うようになった。


僕らの目の前にある選択肢というものは、「爪を剥がされる」ような理不尽で暴力的なものしか存在しないんじゃないだろうか。


「あらゆる選択肢の中から、最善のものを選択する」というのは、幻想でしかないんじゃないだろうか。


僕らは常に「限られた選択肢の中から、よりマシなものを選ぶ」ことしかできないんじゃないだろうか。




別の言い方をしてみる。




宇宙には、あらゆる可能性が広がっている。

そこには美しいものもあれば、心地よいものもある。


だけど、僕らが見ることができるのは、理不尽で暴力的な「選択肢」だけないんじゃないだろうか。


人間の目に映るのは可視光線の範囲だけであって、紫外線や赤外線は見ることができないように。




いや、もしかしたら、それも違うかもしれない。



どんなに美しく、心地よい可能性があったとしても、それが僕らの目の前に提示された時点で、理不尽で暴力的なものに変質してしまっている。

量子力学において、観察自体が観察されるものに影響してしまうように。

選択肢を見てしまったら、それは理不尽なものに変貌する。


という表現の方が近いのかもしれない。


それが僕らの生きている世界なんじゃないだろうか。



『色彩を持たない…』では、多崎つくるは最初に生死の狭間をさまよっている。


たぶんそれは、彼が宇宙に広がる無限の可能性から、「最善の選択」を求めていたからじゃないだろうか。

しかも、「同時」に「複数の」選択肢を求めていた。


しかし、彼は生死の狭間で、「大切なものが2つあり、そのどちらかしか手に入らない状況」を知る。


そして激しい「嫉妬」の感情を知る。


そこから、彼は再生を始める。



限定された、理不尽な選択肢の中でしか人間は生きていけない。

それを受け入れることで、多崎つくるの巡礼が始まる。



そういうことじゃないだろうか。



そして、そんな理不尽な世界で生きていくには、2通りの方法があると思う。



ひとつは、どんなに理不尽で、暴力的でも、それを自分の「自由意志」で選択したからにはそれを「善し」とし、嬉々として「手の爪」なり「足の爪」なりを差し出す。



もう一つは、たとえどの爪を剥がされようと、「リトルピープル」なるもの「システム」なるものに目を離さず、嫉妬の感情を抱え込みながら、目の前の現実を一歩ずつしっかりと歩んでいく。
それは「ダンスステップ」を踏み続けることであり、「雪かき仕事」をつづけることであり、「駅」を作り続けるということかもしれない。
(あかん、抽象的すぎる。うまく言えない。)



あまりまとまりませんが、僕らは「自由意志」なるものを有難がりすぎると、リトルピープルたちにまんまとやられてしまうという話です。



尻切れトンボになってしまったけど、最近の話題の出来事と『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を絡めて考えてみました。









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2013年4月18日木曜日

黄色のパワー

春になって菜の花やタンポポが気持ちよく咲いているのが楽しい。

菜の花畑


黄色すごい。

黄色は目立つ。

視野の中に黄色があると、一発でそれを認識できる。


赤よりも、白よりも。どんな色よりも。


色の認識について、昔、大学で習ったことを思い出しながら書いてみる。
(うろ覚えなんで間違っていたらごめんなさい)


人間は網膜にL, S, Mの3種類の錐体細胞を持っている。


それぞれ、赤、緑、青の色を感じる細胞だ。(ざっくりですが)



Wikipedia「錐体細胞」より



錐体細胞で得られた情報から、脳みそ色を作り出す。

脳みそが色を作り出す時、まず「反対色」という概念が出てくる。

すなわち「赤-緑」「青-黄」の2対。

つまり、その色は「赤っぽい」のか「緑っぽい」のかという要素。

そして、その色は「青っぽい」のか「黄色っぽい」のかという要素。

この2つの要素の組み合わせで色が決まる。


「赤っぽい」とか「緑っぽい」っていうのはわかる。

あと「青っぽい」っていうのもわかる。

なぜならそれらの光を感知する細胞を備えているからだ。

だけど、「黄色っぽい」っていうのはなんなんだろう?


直接「黄色」をとらえる細胞はない。

完全にイマジネーションで作り上げた色だ。

(そんなこと言ったら知覚なんて全部イマジネーションかもしれないけど、”特に”という意味で)




にもかかわらず、僕らは(僕だけか?)強く黄色に魅かれる。



いったい人類は、「黄色」に何の意味を見出したんだろう。

黄色を捉える器官を持っていないにもかかわらず、それでもなお黄色を認識することを強化した理由は何だろう。


春のぽかぽか陽気に誘われながら、人類の歴史に思いをはせるこのごろ。


黄色はすごい。

宿命的な色彩。

太陽の波紋。

サンライトイエローオーバードライブ。


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2013年4月16日火曜日

【子どもから学ぶ】学びとは「ものさし」を増やすことだ


このあいだ、福岡に帰省し、姪っ子たちに会った。

久しぶりといふほど久しぶりでもないのに、見違えるほど成長していた。

何人かは小学校に上がっていて、そこで何を学んでいるか、楽しそうに教えてくれる。

「おにいちゃんは、数字いくつまで数えられる? あたし350まで数えられるよ!」


(彼女たちは僕のことを「おにいちゃん」と呼んでくれる。かわいいやつらだ。)


彼女たちは数字を多く数えられることが”偉い”と思っている。


とてもシンプルでかわいらしい考えだ。


これから彼女たちは、千、万、億と数字を知っていくだろう。

そして、ある時Y軸の存在に出会い、2次元の世界を知るだろう。

Z軸の存在を知ると3次元の世界を知るだろう。


そして虚数を知り行列を知り、途方もない世界の広がりを知るだろう。



これから彼女たちが、驚きに満ちた世界に触れることを想像すると、うれしくもあり、うらやましくもある。





今はまだ、単純に数字を多く言えることが”偉い”という考え方に触れて、改めて学びとは何かと考えさせられた。



ひとつの考え方として、学びとは「ものさし」を増やすことだと思う。


姪っ子たちはまだ、単純に数字を数える「ものさし」しかもっていない。


そして、せっせとその「ものさし」に目盛りを刻んでいる最中だ。


そしていつかY軸という「ものさし」を手に入れると、一気に世界は平面になる。


Z軸の「ものさし」を手に入れれば3次元を理解することができる。



ものさしを手に入れれば世界は一気に広がる。


(もちろん、新しいものさしを手に入れる前段階として、今持っているものさしの精度を上げる必要はある。)

これは算数だけの話じゃなくて人生のあらゆる物事についていえることだ。


姪っ子たちはこれからたくさんの「ものさし」を獲得していくだろう。



顧みて僕はどうだろうか。


最近ものさしを手に入れたのはいつだろうか。



大人になるとなかなか新しい「ものさし」を手に入れるのが難しくなる。(実感として)


僕の手持ちの「ものさし」はずいぶんレパートリーが少ないように感じる。

しかも、誰から与えられた、プラスティックの既製品が多いように思う。



自分で獲得して「ものさし」はとても丈夫だ。


反対に人から与えられた「ものさし」は非常にもろい。


たとえば、僕は「いい大学をでて、大企業に就職して、結婚して、ローンで家を買って、老後は年金生活」という「ものさし」を与えられそれを大事に抱えていた。


だけど、世界の方が変化してそんな「ものさし」は用をなさなくなってしまった。

僕はなかなかその「ものさし」を捨てきれない。




僕はその「ものさし」で、変わってしまった世界を測っていくしかない。


世界と「ものさし」のズレは僕の方で調整していくしかない。


そんな生き方は、結構しんどい。




だけど、自分で「ものさし」を作ることになれている人はブレない。


世界が変わってしまっても、正確にその変化を捉えることができる。

(「ものさし」は自分を基準に作っているから)


また、状況に合わせ「ものさし」を追加することもできる。



僕の周りで楽しそうにしている人は、自分でものさしを作っているように見える。
(もちろん、その「ものさし」を作るために苦労をしているだろうけど)





姪っ子たちのキラキラしたまなざしを見てそんなことを思った。



僕自身、そろそろ新しい「ものさし」を欲しているのかもしれない。


曲がっていても、短くても、自分で目盛りを刻んだ新しい「ものさし」を。 

2013年4月14日日曜日

【感想文】色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年/示唆に富みすぎて考えがまとまりません


『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を衝動買いしてしまった。

そして、一気に読んだ。


素晴らしい物語というのは示唆に富んでいる(前にも言ったか?)

示唆に富みすぎて、何も考えがまとまらない。


とにかく思いついたことをダラダラ綴る。

山頂に登ったらとにかく「ヤッホー」と叫ばなければならない。

それと同じです。


---

とりあえず読み終わってすぐに思ったことは、『色彩を持たない…』で語られていることは、『ダンス・ダンス・ダンス』で語られていたことだし、『ノルウェイの森』で語られていたことだし、その他村上作品で語られていたことだと思う。


それは、別に二番煎じとかいうわけじゃない。

それらの物語に共通する部分は「普遍性」と言うべきものなんだと思う。


村上春樹はこの「普遍性」を語り続けているような気がする。


じゃあ、その普遍性ってなんだ? と言われても、今はまだ考えがまとまらない。


このままずっとまとまらないのかもしれない。

もしかしたら、それは”物語としてしか語ることのできないもの”かもしれない。


とりあえず保留。


普遍性とかなんだとかは、とにかくとして、『色彩を持たない…』を読んで僕自身の内面から癒されるのを実感した。

一文一文が、身体に染み渡り、内側から変化していくのを実感した。


これが、内田樹先生が『村上春樹にご用心』の中で言っていた「小説の身体性」なんだろうか? わかんないけど。 


ああ、まとまらない。


毒にも薬にもならない。




とにかく、とてもよかった。




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※時間をおいて、サイド感想文(というかメモ)を描きました。


【ネタバレ注意】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』について、じわじわ思ったこと

2013年4月10日水曜日

入園祝で買った絵本たち

先日、ありがたいことに義父・義母から息子の入園祝を頂いた。

そこで、さっそく絵本を買った。

絵本は、いつも図書館で借りるんだけど、自分の絵本を持つのもいいものだ。

図書館だと、期限があるのでどうしてもとっつきがいいモノばかりになってしまう。

だけど、手元に置いておくものは、ジワジワくるモノを選べる。


というわけで、絵本を買ってきました。

買いに行ったお店はは姫路のチポリーノというお店。

チポリーノHP


ココで以下の6冊購入してきました。




どれも面白い。

というかほとんど親の趣味で選んだ。

でも、自分が好きなものを子どもに読み聞かせると楽しい。

自分が楽しいと、子どもに伝わる。

子どもも楽しい。

ピース。


で、それぞれの絵本についてレビューしてみます。

ちなみに息子の属性は次の通りです。

  • 男の子(息子だから)
  • 3歳9か月
  • 今年度から年少
  • 車好き

※以下の”対象年齢”は絵本に書かれていたモノです。僕の勝手な判断じゃないです。




すてきな三にんぐみ

すてきな三にんぐみ

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トミー=アンゲラー
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対象年齢

4・5歳から

感想

僕の趣味で購入。

絵がとにかくかっこいい。


こわーい三人組が、ある日女の子と出会い、素敵な行動にでる。
とても心温まるお話。

無目的に拡散していた才能が、ひとつの方向性を持った途端、素晴らしい結果に結びつく。



それにしても、なんでこんなにやさしい気持ちになれるんだろう。

絵本は本当にすごい力を持っている。


僕の勝手な想像だけど、作者は、どこかの町の3つの塔を見て、この物語を思いついたんじゃないだろうか。

どこかの風景から、そこに暮らす人々の幸せな物語を紡ぎだす。

素晴らしいと思います。


おすすめの一冊。




かいじゅうたちのいるところ
モーリス・センダック
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対象年齢

記載なし

感想


これも僕の趣味。

空想の世界への冒険物語。


怪獣の絵が絶妙にいい。

怖さ、気持ち悪さ、可愛さ、ひょうきんさが、ギリギリのところでバランスがとれている。

一歩間違うとただ「怖い」だけになってしまう、あるいは面白いだけになってしまう。


怖いと思いながらも楽しい、楽しいと思いながらもちょっと怖い。

とても魅力的です。



そして、子どもの空想をうまく表現している。


時間と空間を飛び越える空想。

子どもだけが持つ「精神と時の部屋」。


そこは子どもの特別な場所でとても大事な場所だ。


そして、「誰かさんのやさしさ」のもとにちゃんと帰ってくる。


とても心温まるお話です。


はじめてのおつかい(こどものとも傑作集)
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 対象年齢

  • 読んであげるなら:3歳から
  • 自分で読むなら:小学校初級向き

感想


嫁の趣味。僕は初めて見ました。

林明子が描く女の子はとてもかわいい(萌)。

下手なアニメよりもよっぽど萌えます。

幼い子供が少し背伸びをして、頑張る様子がとても微笑ましく描かれる。

文もとてもいい。(文は筒井頼子です)

はじめてお遣いに行く緊張感、誇らしさ、達成感などが生き生きと描かれています。

今の時代は、なかなか子どもを一人でお遣いに行かすことは難しいのが残念です。

ちなみに、林明子の中では『はっぱのおうち』が一番かわいいと思っている。(萌えw)

はっぱのおうち (幼児絵本シリーズ)
はっぱのおうち (幼児絵本シリーズ)


 対象年齢

  • 読んであげるなら:3歳から
  • 自分で読むなら:小学校初級向き

感想

これも嫁の趣味で、ぼくは初めて読みました。

ウクライナ民話だそうです。

おじいさんが森で手袋を落として、再びおじいさんが手袋を見つけるまでに起こる一大スペクタクル。

自分がよく知っているものが、自分が見ていない間にどんな物語が繰り広げられているか。

あれこれ空想するととても楽しい。

空想の世界は時空を超越します。

手袋という限定された空間でも、空想の中では引き伸ばされ誇張されます。


『てぶくろ』は上手な空想の仕方を教えてくれます。


ほのぼのとして、あたたかい物語です。






よるのびょういん (こどものともセレクション)
谷川 俊太郎
福音館書店
売り上げランキング: 434,611

 対象年齢

記載なし

感想

これは絵の代わりに写真が使われています。

文は、谷川俊太郎です。

写真家は詳しくないので知りません。


車好きの息子が、表紙を見て選びました。(実際救急車は少ししか出てきませんが)

文の長さも3歳児に読み聞かせるには丁度よさそうでした。


ストーリーは、”ゆたかくん”が盲腸になって救急車で病院に行って手術するというものです。


なかなか渋い選択です。


手術という割とシリアスな事態ですが、谷川俊太郎の文章が緊張感を保ちつつも、うまく和らげています。



子どもには、盲腸とか手術とか、細かいところはまだ理解できていないと思います。

それでも、息子には「手術」のシーンが「怖い」と感覚的にわかるみたいです。

緊張感とか、手術後の安心感とか、そいうった「感じ」を文章と写真で子どもに伝えることができる。

すごいことだと思います。



僕も嫁もはじめて見る本でしたが、結構有名な本らしいです。

嫁のママ友の間ではよく知られていました。


息子が自分で選んだだけあって、一番リクエストの回数が多いです。


チョコレートパン (幼児絵本シリーズ)
長 新太
福音館書店
売り上げランキング: 323,626


対象年齢

2才~4才向き

感想

うちの家族みんな大好きな長新太の絵本。

他の絵本が割と長めなので、短めの本をということで購入。

長男が2歳くらいの時、図書館で借りて無性にチョコレートパンが食べたくなって、それでみんなでパンを焼いた思い出の本。

長新太の世界観はぶっ飛んでいる。

予測のつかない展開にいつも笑ってしまいます。

この本は、最後に

”チョコレートパンのいいにおい”

で終わる。

きっと、作者はチョコレートパンのにおいをかいで、この物語を思いついたんだろう。

そういう、チョコレートパンへの愛があるから、この絵本はこんなに面白いんだろう。


次男(1歳半)も気に入っています。

長新太の絵本はあまりにぶっ飛んでいるので、小さい子も楽しめるし、ある程度大きくなっても(というか大人でも)楽しめるのでお勧めです。


以上。

2013年4月9日火曜日

【創作】鬼退治(あるいはボランティアに行った感想)



梅の花が香り、暖かい陽気が続いた。

「鬼退治に出るにはいい季節だな」と僕は思った。


二年前、この国に鬼が来た。


それ以来、僕は何度も「鬼退治に行きたいな」と思ってきた。


だけど、結局一度も鬼退治に行かないままずるずると今日まで過ごしてきた。


二年。



ちょうどいい頃合いかもしれない。


僕は、インターネットを開き、「鬼退治ツアー」を検索した。


さすがに二年も経てば、ツアーの数は目減りしていた。



当初はもっとたくさんのツアーが組まれ、たくさんの人が鬼退治に参加したものだった。


僕は、条件を絞込み、僕の住む町から参加できそうなツアーを探した。


ヒットしたのは、たった2件だった。


仕方がない。僕の町は、鬼が島からかなり遠いのだ。






ヒットした内の1件は学生向けのツアーだった。




というわけで僕が参加できるのは、残りの1件だけということになった。

(僕が学生だったのは遠い過去の話だ)



僕は電話を取り、ツアーを主催する団体に連絡を取ってみた。


申し込みが可能か問い合わせるのだ。



電話に出たのは、受付係ではなく「ダイヒョー」と名乗る男性だった。


「あなたのような志を持つ若者が必要なのです」


とダイヒョーは語った。



僕は、集合場所、持ち物、参加費など、事務的な内容を確認すると電話を切った。



とにかくこれで、鬼退治に行くことができる。



少しの興奮と、少しの不安の中、僕は鬼退治の準備に取り掛かった。











鬼退治出発の朝。

僕は、重い荷物を肩からぶら下げ、集合場所に向かった。




集合場所にはすでに、サルやキジやイヌやらが思い思いの荷物を抱えて騒然としていた。


こんなにたくさんの参加者がいるなんて僕はすこし驚いた。




集合時間になると、年老いたイノシシが叫んだ。



「鬼退治ツアーのみなさん、おはようございます!」



どうやら、このイノシシがツアーの主催者のようだ。


イノシシは自分を「ダイヒョー」と名乗った。



イノシシは参加者を集め、ツアーについての説明を始めた。


彼は、鬼が如何に非人道的で、如何に鬼的かについて、あらん限りの敵意を込めて語り出した。

「きゃつらは人間じゃありません! 今もなお、鬼に苦しめられている人々がいるのです。 我々はそれらの人々を鬼から救わなければならないのです。」

云々。



あまりにも演説に力が入りすぎて、出発の時間がとっくに過ぎてしまった。


僕たち参加者がいい加減うんざりしかけたところ、漸く移動用のマイクロバスが到着して演説は終了した。




そのマイクロバスは、いかにも古びていて、いつエンストを起こすかわからないような代物だった。


参加者は30名ぐらいいるのに、こんなに小さなマイクロバスで長距離を移動できるのか?


しかも、銘々大量の鬼退治道具を持っている。


明らかにキャパシティを超えている。


こんなマイクロバスで鬼が島まで行けば、ついたときにはみんなヘトヘトになっているのは目に見えている。


しかしダイヒョーは澄ました顔でこう言った。


「乗車人数は足りているはずです。皆さんのサムライスピリットでこの困難を乗り越えましょう!」


僕たちは初対面ということもあり、それぞれ言いたいことが有りながらも、それを口にすることはできなかった。


僕らは仕方なく、大量の荷物を抱え、マイクロバスに乗り込んだ。


荷物を置くと、ろくに足を延ばせない。


これから鬼が島まで約15時間、この窮屈な状態で移動するのかと思うとうんざりしてしまう。


しかし、背に腹は代えられない。僕は何としても鬼退治に行かなければならない。


これくらいの窮屈は「サムライスピリット」で乗り越えなければならない。

僕は自分にそう言い聞かせた。



すると、僕の横に座っていた若いウサギがいった。


「これ、絶対キャパ超えてますよねぇ。マジっすかぁ? きつくないっすかぁ?」


彼の言うこともよくわかった。


彼が言ったことは参加者全員が思っていることだった。


彼は僕らが思っていることを代弁してくれたのだ。


それをわかってながら、僕は大人としてふるまってしまう。


「これは鬼退治なんだよ。遊びに行くわけじゃないんだ。たったこれだけの料金で鬼が島まで行こうと思えば、ある程度の快適さを犠牲にする必要がある。快適さと料金はトレードオフなんだ」



自分で言っていながら、なんて説得力がないんだと思った。

自分で納得できないことを人に説明するのは至難の業だ。

とうぜん若いウサギは納得しない。

彼は終始ぶつぶつと文句を言い続けていた。



バスが高速に入りしばらくして、サービスエリアで休憩になった。



僕は、バスから降り、体をのばした。


体のあちこちが痛んだが、しばらくぶりの外の空気はとても気持ちがよかった。


そして、僕は「いったいこんなところで何をしているんだろう?」と思った。


僕は見当違いなところで、見当違いなことをしているんじゃないかという気持ちになった。


鬼退治に行くには、ここまでしなければならないのか。




だけど、もう後には引き返せない。ここまで来たからには行くしかない。




「やっぱりやめます」なんて言い出したら、ヒッチハイクで帰らなければならなくなる。

そこまでして帰るのも面倒だ。

結局、僕はこのまま鬼退治に行くしかなさそうだ。やれやれ。

休憩時間が終わり、僕はうんざりした気持ちでマイクロバスに戻った。



マイクロバスに戻ると、休憩前と席が微妙に異なっていた。



僕の隣には、若い女の子のカモノハシが座っていた。



「こんにちは」と僕は言った。


「こんにちは」と彼女は言った。


「バスが窮屈ですけど大丈夫ですか?」と僕は言った。


「大丈夫です」と彼女は言った。


とても感じのいい話し方をする女の子だった。



それから僕たちは少し話をした。



彼女は大学生で、生物学を専攻していた。


彼女は生命の神秘を愛していた。

彼女が生物について語るとき、生き生きとしていた。


それは、マイクロバスで疲れきっていた僕を励ましてくれた。


あるいは彼女は、自分自身が哺乳類と爬虫類との中間的な存在であることにいら立っているようにも見えた。


どっちつかずの中途半端な状況が、彼女には耐えられないのかもしれない。

何かをはっきりさせたいという気持ちが彼女の根源にあるのだ。


彼女が鬼退治に参加したというのも、そのことが何かしら影響しているのかもしれない。




いずれにしても、僕は彼女のそんなひた向きな姿勢に強く惹かれた。



あと5年若かったら恋に落ちていたかもしれないなと思った。


だけど、僕はそんなに簡単に恋に落ちることができるほど若くもなかった。

それに彼女にしてみたところでこんなおじさんになんて興味がないだろう。


ただ、僕は彼女と会話することができて、鬼退治へ行く不安を和らげることができたし、マイクロバスの苦痛を忘れることができた。

とても楽しい時間を過ごすことができた。





そうこうしている間に、消灯時間になった。



もう少し、この若いカモノハシと話していたいなと思ったが仕方がない。



とにかく睡眠だ。


この窮屈なマイクロバスで一晩寝て、次起きたときはもう鬼が島だ。


うまく寝れるといいなと思った。


だけどもちろん簡単に寝ることはできない。



姿勢を頻繁に変えながら、なんとか眠りやすい体勢をとろうとした。


暗闇の中、2時間くらいそんなことをつづけながら漸く意識がまどろみ、浅い眠りに落ちた。








「みなさん、鬼が島につきました」


ダイヒョーの声で目が覚めた。



僕たちは、もぞもぞと起きだした。



いよいよ鬼退治が始まるというのに、参加者のテンションは上がらない。


あんな窮屈なマイクロバスの座席で寝ていたのだ。当然だ。みんな寝不足で気合も入らない。





僕たちは、ぞろぞろとマイクロバスから降りて辺りを見渡した。




しかしそこにあるのは、見渡す限りの草原だった。



僕たちはあっけにとられてその場に立ち尽くした。



「ここが鬼が島ですか?」誰かが言った。


「そうです」ダイヒョーが答えた。



「鬼なんていないじゃないですか」他の誰かが言った。


「鬼は確かにここに来ました。今はいないだけのことです。」ダイヒョーは言った。




「ふざけるな! 俺たちは鬼退治に来たんだ! 鬼を出せ!」また誰かが言った。


「鬼がいないなら金を返せ!」


何人かがダイヒョーに詰め寄って騒然となった。



ダイヒョーと何人かの参加者がもめている間、僕は手持無沙汰になってしまった。

どうしたものかと考えているとき、ダイヒョーが言った。


「しばらく自由行動にします。 ただしあまり遠くまで行かないように。」




僕は草原を歩き出した。



草原に風が吹いた。



とても気持ちがよかった。






しばらく歩くと、湖が見えた。


僕は湖に向かって歩き出した。




近くで見ると、湖は思ったより大きかった。


湖を覗き込んでみると水はとても透き通っていた。


風が水面を揺らしていた。


水面に映った僕の顔は、波紋に合わせて歪んだ。


笑っているようにも見えたし、泣いているようにも見えた。


怒っているようにも見えたし、何も感じていないようにも見えた。




波の加減で僕の顔がぐにゃりと歪んだとき、僕自身の顔が鬼の顔のようにも見えなくはなかった。





水はどこまでも澄んでいた。


だけど、湖の底は見えなかった。



湖はとても深く、その奥には闇が広がっていた。


そしてその闇は僕をじっと見つめていた。



じっと見つめていると吸い込まれそうだった。


闇はとてつもなく深く、暗く、広かった。



そこには僕の理解を超えた世界が広がっていた。



僕に見えるのは、水面に映った僕自身の顔だけだった。



しばらく僕は湖を眺めていた。



そして「そうか、鬼はいなかったんだ」と声に出して言った。


言ってみるとすっきりした。


肩の力が抜け、気持ちが楽になった。


僕は立ち上がり、草原を歩いてマイクロバスのところまで帰った。





マイクロバスに戻ると、そこには誰もいなかった。


イノシシも、ウサギも、カモノハシもいなかった。


残されていたのはおんぼろのマイクロバスだけだった。


中の荷物も、ぼくのものだけを残して消えていた。



運転席にはマイクロバスのキーが刺さったままになっていた。


僕はなんだか無性に自分の家が恋しくなった。


「家に帰ろう。」


僕はマイクロバスのエンジンをかけ、草原の中をおんぼろのマイクロバスで走り出した。






※この物語はフィクションです。
※登場人物は僕の頭の中で勝手に作り上げた架空の人物です。僕が実際にお会いした方々とは全く関係がありません。
※この物語はあくまでも僕の内面を描いたもので、被災地の現状とは何ら関係がありません。




2013年4月8日月曜日

【感想文】『怪物はささやく』/僕らは物語を必要としている

『怪物はささやく』を読んだ。

何かのブログで目にして気になっていた。

それが何のブログだったかは忘れたけど。




図書館で探したら、児童向けコーナーにあってちょっとビビった。

いつかの中学生の読書感想文課題図書になったとか。



とても面白かった。




たまたたYoutubeで本のTrailerを見つけて、かっこよかったので張り付けておきます。








以下感想。ネタバレ含みます。



怪物はささやく
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あすなろ書房
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4つの物語

怪物はコナー少年に3つの物語を語るといいます。

そして、3つの物語が終わった後、最後に少年が4つ目の物語を語らなければならないといいます。


まず、この設定でやられました。


どんな物語が繰り広げられるのか。



気になって気になって仕方がない。




この設定を突き付けられた瞬間に、『怪物はささやく』という物語の虜になってしまいました。


怪物とは何か

怪物はささやく。

巨大な体、恐ろしい容姿、強力な力を持っていながら、怪物は物語りに来たといいます。


怪物とは何なのか。


たぶん、怪物は物語りそのものなんだと思う。

物語の荒々しさ、生命力、優しさ。

それが具現化したものが怪物なんだと思います。


また、怪物はイチイの木の化身です。

イチイは毒にもなり薬にもなります。


物語も、ある時は毒になり人を傷つけます。

またある時は薬となり人を癒します。


イチイの木であることも重要な要素です。





真実を物語ることは、時としてどんな怪物よりも恐ろしい。


この『怪物はささやく』は物語に対する畏怖の念を抱かせてくれます。




人間の二面性


第一の物語で、怪物は人間の二面性についての物語をする。

人間は簡単に善悪や良し悪しに分けることができない。

このことは、怪物が話す物語の中だけでなく、この小説の登場人物の描き方にうまく反映されている。

コナー

母親を思う優しさを持ちながら、人には決していうことのできない闇を抱えている。

母さん

子どもを思う優しさを持っていながら、自分の病状を子どもに正確に伝えることができない弱さと残酷さを持っている。

おばあちゃん

孫に対する厳しさと傲慢さを持ちながら自分の娘を献身的に支える優しさを持っている。

父さん

母さんとコナーを捨てた身勝手さを持ちながら、新しい家族を大事に思う優しさを持っている。また捨ててしまった家族に対する責任を感じている。


さらっと登場人物を眺めただけでも、二面性(というか多面性)が見られる。そのあたりの描写がとてもうまいなと思います。

僕らは物語を必要としている

人間が二面性を持っている。その相反するものを抱えて生きていくのは非常につらい。

誰にも言えないような残酷な内面を抱えているならなおさらだ。


だから僕たちは物語りを必要とする。

自分自身の真実を語らなければならない。


語らなければ本物の怪物に食われて死んでしまう。

だけど、真実を語ることはどんな怪物よりも恐ろしい。

だから怪物(イチイの木の方)が来た。


3つの物語はコナー少年に、人間の二面性を受け入れること、それが当たり前であることを教える。


そして、コナー自身の二面性を受け入れ、真実を語ることで初めて救われる。


僕らには物語が必要だ。

誰かに物語を聞いたら自分自身が語らなければならない

『怪物はささやく』では、怪物が物語を3つしたら、最後に少年が4つ目の物語を語らなければならない。

これは、現実世界でも大事なことだと思う。

僕らは、小説でも映画でも漫画でも、物語を聞いたり読んだりしたら、自分自身について語らなければならない。


別に、ブログで感想文を書かないといけないとか、誰かに何かを打ち明ける必要はないんだけど、物語を聞いたり読んだりしたら、「じゃあ、僕の場合はどうだろうか?」について考える必要がある。

「おもしろかった」「感動した」「泣けた」だけじゃなくて、その物語が意味することを自分なりに消化し、自分自身について物語る。

これは大事なことじゃないかなぁと思う。


で、この物語を読んで、僕自身の二面性について考えてみる。


・・・


うーん。

ここでは言えないなぁ。



少しの不満



この物語で、少しだけ不満がありました。

不満1 怪物の話の途中でコナー少年は余計なことは言わないでほしい

物語の中に物語を挿入するのは結構難しいんだなと思う。

怪物が語る物語の合間合間に、コナー少年の感想が入ってくるのがわずらわしく感じた。

この小説を読むにあたって、僕自身も怪物が語る物語の聞き手になっている。

怪物の語る物語も一つの物語なので、そこで途中で他人(コナー少年)の感想が入るとわずらわしい。

だけど、これは『怪物がささやく』という物語でもあり、コナー少年の「合いの手」を含めて一つの物語であるわけで、僕は「合いの手」を受け入れなければならない。


その辺の、バランスを取るのが非常に難しい。


どうしてもコナー少年の「合いの手」が読者の思考を一旦「誤った方向へ誘導するためのテクニック」に見えてしまって、白々しくなってしまう。

もちろん、このコナー少年の「早とちり」は、彼の幼さを表し、これから成長するための布石だから、悪くはないんだけど。


とにかく、物語 in 物語は、表現として難しいんだなぁと思いました。


不満2 答えは不要

最後の方で怪物は、自分が語った3つの物語の「答え」を教えてくれます。

親切です。

でも、あんまり答えを言ってほしくなかった。

それは、コナー自身が行動で示せばよかった。

「答えはこうだ」

なんて言ったとたん、物語の力は半減してしまう。たぶん。


それは、「答え」として語られることができないから物語として存在していたものだ。


この余計な親切が「児童書」として必要な部分なんだろうか。




でも、これらの不満を差し引いても、とても面白かった。








余談

どうでもいいけど、日本語版と英語版の装丁を見ると、左右対称になっていました。

怪物は物語りに来るので、文章の流れと同じ方向でやってくるんでしょうね。

日本語は右から。英語は左から。

怪物はささやく A Monster Calls. Patrick Ness, Siobhan Dowd

おわり


2013年4月7日日曜日

【感想文】下流志向/先人へのリスペクトは大事


内田樹先生の本。


下流志向〈学ばない子どもたち 働かない若者たち〉 (講談社文庫)
内田 樹
講談社
売り上げランキング: 3,838



何かを成そうとすればするほど、それとは真逆の状況に向かってしまうジレンマ。

その皮肉的な人間の性を非常にわかりやすく説明してくれる。





効率を求めれば求めるほど、非効率な結果が生まれる。

効率を求めるには非効率な方法を選択する方がよいという逆説。

効率を求め続けてきた結果生じた歪みを、僕らはこれから非効率な方法でなおしていかなくてはならない。






うーん。難しそうだ。




だけども、先人に学ぶことはできる。


最後の章で語られていた師弟関係のように、我々は先人をリスペクトしないといけない。


効率化を追い求め、世界がますます便利になり、無時間性が加速し、「我々は先人を追い越した」と思った瞬間災いが降り注ぐ。


僕らが感じている閉塞感は、そういった先人に対するリスペクトを忘れたからかもしれない。

社会全体が無時間性を求め、過去と未来の鎖をたちきり、孤立してしまったのではないか。

僕らは、その鎖を再び繋ぎ会わせなければならないのではないか。

内田先生が最後に語っていた、「21世紀は宗教的な時代になる」「宇宙の始まりから終わりまでのスケールでとらえる」とは、そういうことじゃないだろうか。


本書では、現状を見つめるという意味で、悲観的な内容でしたが、僕は「これから」という意味では、すこし楽観視してよいのではないかと思っている。

テクノロジーは、効率性、無時間性を加速させるかもしれないけど、その一方で非効率性、時間性を取り込もうとしている動きもある。



まだまだ十分でないかもしれないけど、気長に待とう。


今すぐの実現を求めてはいけない。

なぜなら、即時性を求めたとたん、僕らは効率性と無時間性の渦に逆戻りだ。



のんびり、楽しくやっていこう。