2012年8月21日火曜日

はるかぜちゃん、あるいはSNSにおける巫女的存在について思うこと

最近、なにかと話題のはるかぜちゃん。

嵐だとかいじめ問題だとかで、ついったが賑わっております。

ぼくも、最初は
「なんてまともマトモなことをいう子がいるんだ! しかも、大人以上についったを使いこなしててスゲェ!」

と感心してしまい、思わずフォローしてしまいました。


でも、なんだか最近、彼女を取り巻く領域というか、場というか、がとても気持ちが悪く感じてきて、この気持ちの悪さの正体はなんだろうと、考察してみました。

(あくまでも、気持ち悪さは彼女を取り巻く環境というか「場」であってはるかぜちゃんそのものではありません。ここ強調しとかないとなんとなく怖い。)



  • 彼女の言っていることは正論意外のナニモノでもない
大人を言い負かした言葉とか、いじめに対する考えとか、とても素敵な言葉だと思います。
でも言ってることって、単なる正論にすぎない。

「子供が言っている」という条件がなければ何も特別なことは言ってない。

なのに、なんで子供が言う正論ってこんなにウケがいいのか考えてみた。


  • 言葉を持たない大人たち(神様のお告げをくれる巫女)
たぶん、大人が自分で語るべき言葉をもってないんだと思う。


自分はどの立ち位置で話せばいいのか?

インターネットという海の中で、自分はどこにいるのかわならない。
だから、どっちに向かって言葉を投げればいいのかもわからない。

そこに「はるかぜちゃん」という存在を見つける。

彼女がまず、言葉をなげる。
これを「基準」にすることで、ぼくらは立ち位置を決めることができる。

彼女が存在することで、初めてぼくらは発すべき言葉を持つことができる。

むかしむかし、無垢な「巫女」の口から神様のお告げを聞いて政治的方針を決めていた。

「嵐が来たら種をまけ」みたいな。

大人たちはそれを、まあ都合良く解釈して政治を行ってきた。

大人の政治能力の責任ではなくあくまでも占いの結果とすることで、責任回避できた。
(まあ、未発達な科学で自然とモロに対峙するので、政治的な知恵と言えるけど)

それと同じように科学が発達した現代でも、無垢「巫女」的存在でSNSをコントロールしているのを皮肉に思う。

彼女の発言を大人が利用する。

なにか問題があっても責任を回避できるように。



で、なんでこの「巫女」的存在が子供なんだろうか?と考えてみた。


  • 子供は責任を持たない。
子供には責任持たせられない。まあ、だからこそ好き放題言える。

大人が言えないことを代わりに言ってくれる。

そして大人は「賛成」だの「反対」だの言っておけば、なんとなく意思表示ができる。

悪いやつがいれば一緒に叩くことができる。

きもちいい。

でも、と僕は考える。



  • 責任を持たない発言は無意味
彼女は未成年で発言に責任を持たない。

いいことを言おうが悪いことを言おうが、どっちにしても責任を持たない。

だから、本当は、すごくいいことを言ってもそれには意味なんて何もない。

あるとすれば、「君のプレゼン能力は素晴らしい!」的な表現技術の善し悪しだけ。

内容には意味なんてない。なぜなら責任を伴わないから。

責任のない言葉に良いも悪いもない。

だから、意味のない言葉に、大人たちが便乗して意見を言っても無意味だと思う。


  • 僕の感じる気持ち悪さの正体
子供は無垢な存在だと思う。

子供を通して言葉を発することは、媒体として利用された子供は無事では済まないと思う。

大人たちの言葉が彼女を通過する度に彼女に影響を与えずにはすまない。

もしかしたら、SNSを利用することはリテラシーを早く身に付けることができるかもしれない。
また、大人の世界を経験することで大成するかもしれない。

でも、いじめられっ子が世に幅かるからと言っていじめが正当化されないように、大人のエゴに子供を利用して傷つけるのは間違ってると思う。
(うーん、本人は傷ついてないと言うかもしれんが、、、)




  • 結論

つまり、何が言いたかったか、良くわからなくなってきたけど、こういうことかなと思う。

とにかく、子供に頼らず、大人は自分の言葉で語りましょうということ。
それと、子供の発言は愛を持って受け止めることはしても、その責任を伴わない発言にはいい意味で取りあわないようにしようということだと思います。


おわり。。。

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