2014年7月25日金曜日

問題提起という怪物

世の中には、あえて社会のタブー(あるいは限りなく黒に近いグレーゾーン)に踏み込むことで、問題提起をするタイプのアートがある。


作った本人は、その問題がなくなる、あるいは縮小されることを望んで作る。もちろん。


だけど、作られた作品自体は、作者の意志とは別に、提起された問題がより大きくなることを望む。

問題が大きければ大きいほど、その作品の価値が高くなる。

まるで意志を持った怪物のように自己主張を始める。

「俺は大問題だ! おれは大問題だ!」


そして作者は思う。

「これは大問題だ。やっぱり私の考えに間違いはなかった。」


問題提起型のアートには、こういう自己矛盾が付きまとうと思う。



もちろん、中には何が問題かわかりにくい場合もあって、そういう時にはアバンギャルドで直接的な表現で問題を表に出すというのもありなんだと思う。


ただ、少なくとも作者は自分が作ろうとするものの怪物性を理解するべきだと思う。


自分は怪物を世界に解き放とうとしているということを理解するべきだと思う。



僕はどちらかと言うと、アートっていうものは、もっと遠回りな表現の方が好きです。


村上春樹は言っていた。

だからこそ、私たちは真実を隠れた場所からおびき出し、架空の場所へと運び、小説の形に置き換えるのです。しかしながら、これを成功させるには、私たちの中のどこに真実が存在するのかを明確にしなければなりません。このことは、よい嘘をでっち上げるのに必要な資質なのです。(【村上春樹】村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)

これは、小説に限らず、アート全般に言えるんじゃないだろうか。

自分自身が問題の一部になったり、問題を作り出したりするよりも、問題の方を隠れた場所からおびき出す方が、アートとして高度だと思います。

そして、平和的だと思います。



アートに平和を求めないなら別にいいですが。

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