2013年5月10日金曜日

見たいものを見るために全力を尽くす人々

先日、fbのタイムラインにこんなネタが舞い込んできた。


【怖すぎ】ヤフー知恵袋に投稿された、ママ友イジメについての相談の結末が衝撃的wwwwww : はちま起稿


怖い。

なんか怖い。


だけど、なんとなく、わかるような、気も、しないではない。


これは、情報社会に住む現代の人々の傾向なんじゃないだろうか。



僕が好きな『ローマ人の物語』(塩野七生)の中で、次のような言葉が出てくる。


人間ならば誰にでもすべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない。

カエサルの言葉らしい。

ローマで偉大な為政者たちは、自分が見たくない現実をしっかり見ていた。

また、人々が見たいと思った現実を巧みに見せることで、ローマ帝国を統治した。




今の僕らはどうだろうか。




インターネットで情報があふれ、あらゆる情報が飛び交っている。


「現実」なら星の数ほどある。


だけど、あまりにも現実が多すぎて、見たいと思う現実がなかなか見つかりにくいのではないか。


ただ情報を眺めているだけでは、見たい現実になかなか巡り合えない。


だから、僕たちは以前よりもより能動的に見たいものを採りに行くようになった。


その顕著な例が、冒頭のリンクのA女史のような方ではないだろうか。


自分の見たいものを見るために、全力を尽くす。


より能動的に、より主体的に、より積極的に。





そして、情報社会はもう一つ我々に変化をもたらした。


それは、「見たいものを見られれば、それ以外のものは全くどうでもいい」という傾向だ。


それは、昔みたいに単純に「見えない(認識できない)」わけじゃなく、これまた能動的に無視するようになった。
(能動的に無視するってなんか変だ。でも、うまく言えない)


みんな、もう、「現実」は星の数ほどあることを知っている。


その中には、もちろん自分が見たくない現実も含まれていることを知っている。


だから、我々はこう思う。


「見たくない現実があったって一向にかまわない。だって、見たい現実が確かにあることを確認できたんだから」


情報社会は、僕らにこんな変化をもたらした(と思う)。


たぶん。きっと。


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