何年か前に読んだ時とは違う印象だったので、その辺を書いておく。
だいぶ前に読んだときは、猫の(つまり漱石の)社会を見る目ってすごいなぁと思った。
世界を鋭く見る目と言うか、そういうところにすごく感心してしまった。
で、このたび、久々に『吾輩は猫である』を読んだ。
やっぱり、漱石の批評眼には相変わらず驚かされるし、今にも通じる社会問題を当時から鋭く見抜いていたのは感服のいたりです。
だけど、今回は、前には気付かなかったことの気付いた。
この物語は、確かに社会を風刺している物語であるけど、漱石が一番批判しているのは”漱石自身”である、という点だと思う。
苦沙弥先生は漱石がモデルだ。だから、苦沙弥先生を批判することは漱石を批判することになる。
これはすぐにわかる。
僕が今回気付いたのは、その先。
この小説で、猫はその主人の性格を反映している。
いわば猫は飼い主の分身だ。一心同体と言ってもいいかもしれない。
車屋の黒は車屋の、三毛子はお師匠さんの性格を反映している。
だから、苦沙弥先生の猫(名前がないから猫としか言えない)は苦沙弥先生の性格を反映している。
猫が苦沙弥先生に言葉を投げる。しかし、その言葉はブーメランのようにそのまま猫に帰ってくる。
なぜなら、苦沙弥先生は猫の分身でもあるから。
そして、苦沙弥先生は漱石がモデルである。
さらに、語り手である猫は書き手である漱石の代弁者である。
だから、漱石が猫に投げさせた言葉のブーメランは、苦沙弥先生を引き裂き、戻ってきて猫も切り裂き、漱石自身に突き刺さる。
たぶん、漱石はそれを結構意識的にしていると思う。
猫がウダウダいっているところを人前にさらすことで、自分がウダウダいう性格であることを自虐しているんだと思う。
ドMである。
漱石の真にすごいところは、自分を批判的に見るところだ。
これだけ自分のことがわかっていながら、なぜ苦沙弥先生はダメダメなのか不思議に思うくらいだ。
自身をモデルにしている『草枕』の主人公も、奥さんに偉いひどいこと言う。こんだけ自分のことわかっているならもっと優しくなればいいのに、、、と思う。
でも、たぶん、そういう自虐的なところが面白い。愛嬌がある。
苦沙弥先生が内輪では偉そうにウダウダ言いながら、行動に出るといつも失敗する。
同じように猫もうだうだ頭で考えながら行動に出るとやっぱり失敗する。
そういうところに、愛嬌がある。
猫があまりにも立派なことを言うので、ついつい「ふんふん、猫すげえなぁ」と思ってしまうけど、本当は「うだうだ言ってんじゃねえよw」とくすくす笑いながら読むものなんだと思う。
たぶん。。。。
こんなこと考えていたら、ふと頭に万華鏡が思い浮かんだ。
世界は万華鏡だと思う。
漱石と、猫と、苦沙弥先生。
この2人と1匹が鏡になり三角形を作る。
そのなかに、迷亭君や寒月君やらいろんな人が転がり込んで、にぎやかで多彩な万華鏡世界が生まれる。
実に楽しい。
それと同時に、一人の人間の視野の限界も感じる。
所詮、人間は「観測者」としての肉体を離れるわけにはいかない。自分が見ることができるのは自分の万華鏡の中身だけなのかもしれない。
だけど、自分が今見ているのが「万華鏡の中なんだ」と意識できるかできないかは大きな違いだと思う。
たぶん。(まとまらない)
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