2014年2月5日水曜日

成長をやめることができない子供たち

先日、子どもの自立と昔話の関係について書いた。


【感想】『昔話とこころの自立』/自立する子どもと、親の振る舞い方


そして、ふと「現代の物語はどうだろうか?」と思った。

現代の、子どもの成長の物語と言えば、まず思いついたのは『ワンピース』だ。(他にもいっぱいあるだろうけど、とりあえず)

昔話と、少年漫画を比較するのは、全然ジャンルが違うし、一方の論理で他方を論じるのはフェアじゃないけど、まぁ、ひとつの見方としてとりあえず書いてみる。


昔話では、子どもは3つのステップを踏んで自立するようだ。(前のエントリーを参考)

幼少期から少年期、少年期から青年期、青年期から大人。

自立した大人は、やがて親となる。つまり、子どもにとっての保護者であると同時に自立を阻む存在となる。

そして、自らの子どもにやられることで、解放され、穏やかに死に向かう。

これが、昔話の人生観だ。


異論はあるかもしれないけど、とりあえずこれが「正しい」とする。


顧みて、『ワンピース』に代表する少年漫画はどうだろうか。


これは僕の印象だけど、彼らは成長する。どこまでも成長する。

終わりというものが見えない。


もちろん「”ワンピース”を手にすることがゴール」という設定はある。

にもかかわらず、一向に終わりと言うものが見えてこない。



これは、おそらく少年漫画を取り巻く環境によるものだと思う。


つまり、「連載」を軸とした経済活動だ。



『ワンピース』は面白い。


面白いから売れる。


売れるならできるだけ売り続けたい。


だから物語は続く。


ただ続くだけでは面白くない。


彼の成長する姿こそ面白い。


だから周りは、ルフィに成長を期待する。


そして更に試練を与える。


彼は乗り越える。


そして、成長をつづける。




これは本人(ルフィ)にとっては結構キツイことなんじゃないだろうか。
(モチロン物語の中ではそんなそぶりは一切見せないけど)

『ワンピース』を取り巻く環境(読者、作り手含む)は、自分の子どもに対して過度に期待する教育ママを連想させる。

成長をつづける主人公は、増殖をコントロールできなくなった癌細胞を連想させる。



昔話の時間の流れが人間一生を規準に作られているのに対して、少年漫画は経済学の論理が時間の流れを支配しているといえる。


人間の時間を無視して、経済のロジックで人間を語ってしまうとどっかで歪みが出てしまわないだろうか。


例えば、成長し続けなければならない人生に疲れてしまう。
上手に次の世代にバトンタッチができなくなる。
上手に死に向かっていけなくなる。etc...


少年漫画自身にも、歪みは生まれる。

「力のインフレ」と言われる現象がそれだ。


僕らは、無意識に「成長し続けることが正しい」と思いこんでいないだろうか。

「成長し続けることが正しい」を表現する漫画が、我々にその考えを強化する。

「成長し続けることが正しい」という我々が、そういう漫画を作り出す。

お互いが相互に影響しあって、「成長し続けることが正しい」という考えがどんどん強固になっていく。

それが正しいうちはいいけど、仮に間違っていたらと思うと、ちょっと怖い。


『ワンピース』は面白い。

だけど、僕らは、そろそろルフィに成長をやめることを許してやるべきじゃないだろうか。

子どもの成長を見ているのが楽しいからと言って、いつまでも手元に置いておくことができないように。


そんな風に思う。



もちろん、物語はいろんな見方ができるわけだから、こんな一方的な考えで『ワンピース』がダメだとか、現代の漫画がダメだとか言ってるわけじゃない。

ただ、こういう風に考えられるなぁと思っただけだ。

昔の人だって、『南総里見八犬伝』に「いつ終わるんだよ、なげーな。終わりが見えねー」って言ってたかもしれないし。(『八犬伝』読んだことないからイメージだけど。)

あと、今の漫画の中にも、明確な終わりが初めから設定されてあって、それに向かって突っ走る物語もある。(浦沢直樹の漫画とか、そいうのが多い)


それに、『ワンピース』も最近、ルフィにあこがれる海賊が出てきたり、少しではあるけど、立ち位置が変わってきたきがする。(つまり、次の世代を匂わせている)


そもそも、僕のこんな考え方は全く間違っていて、やっぱり人間は成長し続けないといけないのかもしれない。


よくわからなくなってきた。

とにかく、昔話の「子どもの自立」論をもとに、今の話を見てみたらどうなるかなと、考えてみただけです。





いろいろ書いてみたけど、『ワンピース』は面白いのは間違いないと思ってる。

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