せっかくなので、絵本に関する本を読んでみようと思い、この読んでみた。
僕が好きな『だいくとおにろく』が表紙に使われていたので、何気なく手に取ってみた。
読み進めていると、次のように書かれていて仰天した。
”松居直は私の実父ですから”
ん? 実父?
なんと、この本の作者、松居友さんは、『だいくとおにろく』の作者(正確には“再話”だけど)の松居直さんの息子さんのようだ。
Wikipediaで調べてみたら、松居一家は生粋の絵本一家ということがわかった。
お父さんは、自ら絵本を手掛けながら福音館書店の編集長、社長してたみたいだ。
妹さんは”わにわにシリーズ”の小風さちだし。
すごい。
松居友さん自身は、児童文学者だそうで、なるほど、この『昔話と心の自立』はとても面白かった。
内容もとても面白かったし、その語り口調も子どもに言い聞かせるような、とても心地がよくてわかりやすかった。
で、その内容。
タイトル通りで、昔話には子どもが自立するためのエッセンスがたくさん盛り込まれている。
「子どもが自立するためにはどうすればいいか?」という問いは「人間が生きるためにどうすればいいか?」に等しい。
この本に取り上げられているのは、『だいくとおにろく』、『三枚のおふだ』、『三匹のこぶた』、『三匹のやぎのがらがらどん』など。
これらは鬼や、山姥やらが象徴する負の存在から逃れる、あるいはやっつける話だ。
曰く、鬼やら山姥やらは、子どもの自立を阻むものである。
鬼、天狗、トロルといったものは、主に父親を指している。(あるいは父親の背景にある社会を指す)
簡単に言えば「お前なんか社会に通用するか!」という抑圧のエネルギー。
山姥や、魔女は母親を指している。
こちらは「いつまでもアタシのところにいるんだよ」という束縛のエネルギー。
(それだけではないけど、そんな感じ)
そして、それに対して、子どもたちは何とか対抗する。
そのヒントが、物語の中に示されている。
多くの物語で共通していることは、子どもの自立へのステップは3段階あるらしい。
ステップ1:幼少期→少年期
ステップ2:少年期→青年期
ステップ3:青年期→大人
『三枚のお札』、『三匹のこぶた』、『さんびきのやぎのがらがらどん』etc...
たとえば『三匹のこぶた』の場合
1番目の豚:
家を作った。でも家が藁。稚拙。すぐやられる。
これは、幼少期→少年期を表す。
2番目の豚:
木で家を作る。ちょっとまし。でもやられる。
これは少年期→青年期。
3番目の豚:
家が煉瓦。やられない。幸せに暮らす。
青年期→大人。自立。
みたいな感じだ。
なるほど。と思った。
絵本(というか、昔話)奥が深い。
なかなか、興味深い内容なので、ぜひ子どものいる親には読んでほしいと思うわけです。
まぁ、この解釈が全てだと思ってしまったらそれはそれでつまらないので、あくまでも考え方の一つとして。
で、ここまでは要約。
ここからが思ったこと。
昔話には、子どもの自立のヒントが描かれている。
それと同時に、そのあとの人間の振る舞い方のヒントも描かれていると思う。
つまり、自立した後、どうするか?
われわれ親側はどうするべきか? にも触れられていると思う。
ぼくはこう思う。
彼らは大人になり、やがて子どもを授かるだろう。
そして、今度は子どもたちが自立に向かって育っていく。
すると、かつて桃太郎だった者は、今度は自らが鬼になる。
がらがらどんだった者は、トロルになる。
こぶたはオオカミになる。
白雪姫は魔女になる。
これは避けられない。
なぜなら、親は子どもの成長を助けるものであると同時に必ず阻害するものだから。
それはしょうがない。
優しくすればするだけ山姥になるし、厳しくすればしたで鬼になる。
いつかは、子どもは親から自立するし、しなければならない。
子どもが自立を試みたタイミングで、どうしたって親は鬼であり、山姥である。
そこから目をそらすと、余計に自らの鬼や山姥を肥大させる。
親ができることは、内なる鬼や内なる山姥を自覚することだけである。
大工が鬼六の名前を当てて、その力をそぎ落とすことに成功したように、僕ら親は自らの鬼を自覚することで、かろうじてそいつらを抑えることができる。
だけど、それだけじゃ十分じゃない。
それだけだと、まだ抑えているだけだ。
親は、自分の子どもたちに「やっつけられること」で自分の内なる鬼や山姥から解放される。
内なる鬼や山姥から解放されて、初めて高砂のおじいさんとおばあさんに象徴されるような理想の老年期を迎えることができるんだと思います。
たぶん。
われわれは、心のどこかで、子どもたちにやっつけられるのを待っている。
その時に、うまくやっつけられないといけない。
これは手加減するという意味ではなくて、引き際が大事ということです。
子どもと親が共倒れにならないように。
やられることを恐れない、子どもに去られる極端に恐れないというか。
(うまく言えない。僕はまだそういう境地に立っていない)
そうやって、親から子、子から孫へとつながっていくことが大事なんだと思います。
そう考えると、親が子どもに昔話を聞かせるのは皮肉なことです。
親は子どもに「自分が滅ぼされる物語」を語っているわけだから。
いつか、僕は子どもにやっつけられるのを楽しみにしようと思います。
そう簡単にやっつけられないぞと意気込みながら。
※追記(2014/02/05)
この本の、『てんぐのこま』という昔話について書かれている章は読み飛ばしたまま、このエントリーを書いてました。僕が『てんぐのこま』を読んだことがなかったからです。
図書館で『てんぐのこま』借りて読んでから、改めてその章を読みました。
すると、僕が書いていた”親はあとくされなく負けなければならない”と言うような内容が、ちゃんと書いてありました。
僕の感想は、とくに目新しいモノでも何でもなく、少しがっかりしたと同時に、同じような考えをしている人(作者)がいてうれしいという気持ちです。
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