合気道を始めて一か月くらいが立ちました。
ここら辺で今の気持ちを書き留めておく。
(まだ一か月なので、もしかしたら見当違いなことを言っているかもしれません)
合気道を始める前は、合気道は「相手の力を利用して相手を投げ飛ばす」と言うイメージを持っていた。
もちろんそれはそれで間違っていないとは思うけど、実際にやってみると、どちらかと言うと「相手と協力して何かを成し遂げる」という感覚の方が近い気がする。
これは、八百長しているとか、そういう意味ではない。
(もちろん稽古では練習のため「上手に投げられてやる」ということはするけれど)
合気道に限らず、どんな武道でも(というかすべての人間関係において)相手がいないことには始まらない。(稽古は別)
敵がいなければ、武道は必要ない。敵がいないとということは、自分は無敵であり世界は平和である。(たぶん)
それはそれで素晴らしいことなんだけど、敵(他者)がいなければそこには何も生じない。
無だ。
敵(他者)がいることで初めて「技」が生まれる。
合気道では、基本的に攻撃する方(投げられる方)の力が強ければ強いほど、技も効いてくる。
うまい人に思いっきり攻撃を仕掛けていくと、あれよあれよと言う間にぶん投げられてしまう。
思いっきりかかっていって投げられるのは、結構気持ちがいい。
投げられているんだけど、なんというか、導かれている感じがする。
自分がその技の一部になっている感覚。
なかなかいいものです。
たぶん、達人の域に達すると、たとえ悪意や敵意がある人から攻撃されたとしても、その攻撃を勝手に「技」に変えてしまうんだと思う。
達人にとっては、それが協力的か、非協力的かということには関係がなく、「その関わりがどの程度の強さなのか?」のみが問われる。(たぶん)
いってみれば、すべての人を“協力者”に変えてしまう。
もしそうだとしたら、達人の域に達することができればどんな人間に対しても感謝できるかもしれない。どんなに悪意を持っている人間でも愛せるかもしれない。「協力者」として。
そういうのが本当に強い人の「器」なんだと思う。
これは、合気道とか武道とかだけに限らず、人間関係全般に言えると思う。
単に弱ければ、悪意にやられてしまう。
技術がなければ、悪意に対して悪意で返してしまい、お互いに傷つけあう。
でも、本当の強さと技術があれば、悪意をしかるべき方向に導き、何かしら生産的な「技」に変えられるかもしれない。
そんなことを思いました。
まぁ、やってるときは、そんなうだうだ考えずに、単純に体を動かすのが気持ちいいと思いながら気楽にやっています。
合気道、楽しいです。
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