2013年8月28日水曜日

おじいさんの鬼退治

むかし、むかし

あるところに、おじいさんと おばあさんが おりました。


ある日、おじいさんは山へ芝刈りに行きました。

おばあさんは川へ洗濯へ行きました。


おじいさんが山で芝刈りをしていると、突然思いました。


「ええい! やってられるか! わしがやりたいのはこんな事じゃない!


わしには やるべきことがあるんじゃ!」


おじいさんは、その夜 おばあさんにいいました。



「ばあさんや、わしは鬼退治に鬼が島へ行ってくる。

出発はあしたじゃ。

握り飯をたあんと用意してくれ!」


おばあさんは、いいました。

「はいはい、わかりました、おじいさん。

どうか気を付けてくださいね。」




次の日、おばあさんは早起きをしてたくさんの握り飯を作りました。


おじいさんは、旅の支度をしました。

鬼退治のために棒も持ちました。


そして、おばあさんの握り飯をもっていいました。


「それではいってくる」

「ええ、ええ、どうか気を付けて。

決して無理をなさらぬよう。

晩御飯の前に帰ってきてくださいな。」






おじいさんが、鬼退治に行く途中、一匹の犬に会いました。



「これこれ、犬や、犬さんや」

おじいさんは言いました。


「なんだい、おじいさん。」

犬は言いました。


「わしと一緒に鬼退治にいかんかね?」


「ええ! めっそうもない。そんな恐ろしいことはできません」


犬はこわごわと去っていきました。





しばら行くと、おじいさんは猿に会いました。


「これこれ、猿や、猿さんや。わしと一緒に鬼退治に行かんかね?」

とおじいさんは言いました。

「いいけど、何かくれるのかい?」

猿は言いました。


「握り飯なら たくさんあるぞ」


「握り飯ぐらいじゃ いけないな」


猿は去ってしまいました。



さらに進むと、おじいさんは雉にであいました。


「これこれ、雉や、雉さんや。わしと一緒に鬼退治にいかんかね?」


とおじいさんは言いました。


「はっはっは。何おおっしゃる、おじいさん。


よぼよぼのあなたが鬼退治なんてできるわけがないじゃありませんか。

みんな大笑いしていますよ。

はっはっは」


雉は笑いながらいってしまいました。








それでもおじいさんは鬼退治に鬼が島へ向かいました。








鬼が島についたおじいさんは、鬼に向かって言いました。



「やぁやぁやぁ。鬼ども。退治に来たぞ! 覚悟せい!」



鬼たちはその声にびっくりしました。

ところが声の主がたった一人のおじいさんだったので、みんな大笑いしました。



「じいさん、じいさん、わかったから怪我しないうちにおかえりよ」



おじいさんは、持っていた棒で鬼に襲い掛かりました。



「わあ、危ないじいさんだ」


鬼たちは、おじいさんから棒を取り上げました。


そしておじいさんを持ち上げて投げとばしました。

ドスン。

おじいさんは、投げられた拍子にケガをしてしまいました。



これでは鬼退治はできません。


おじいさんは、あきらめてばあさんが待っているおうちに帰りました。





その夜、おばあさんはおじいさんの手当てをしながらいいました。



「ご苦労様でした。この程度のケガで済んでよかったですね」



「あいたたた。。。くやしいのぉ。あと少しだったんだがのぅ。。。くやしいのぅ」



とおじいさんは言いました。



「ケガが治ったらまた行けばいいじゃないですか。鬼退治。


大丈夫。あなたならきっとできますよ。」


そういっておばあさんは優しく微笑みました。


おしまい。

2013年8月21日水曜日

cafe space barvaに行ってきた

先日、大学の同級生が開いた『cafe space barva』というカフェにお邪魔した。


なんというか、素敵カフェでした。


コーヒーもおいしいし。
(コーヒーがおいしいという情報はいろんなブログですでに紹介されている)



【cafe space barvaのHP】http://www.v-dank.com/pg14.html


※これは、カフェに行った感想あるいは日記であって、お店レビューとか紹介とかいう類のものではないです。



僕がこのカフェで感じたのは『親密感』でした。


「ああ、僕はここにいていいんだ」と思える感じです。



いつ、僕が来ても受け入れてもらえるような感覚。


いつでも、僕のことを待っていてくれる(ような気がする)場所。


cafe space barvaは、僕にとってそういう場所でした。



自宅以外に、そいう空間があるということはとても幸せです。

(自宅でさえ、たまに「俺、外したほうがいい?」って思うことはある。)



そういう場所って、なかなか得難いものです。


そういう場所を見つけられた僕はすごくラッキーでした。


また行きたいです。

2013年8月20日火曜日

『半沢直樹』はアルコールみたいなもんだ

久しぶりにドラマ見てる。

『半沢直樹』。

視聴率もいいみたい。



面白い。

スカッとする。

もっとやれ、もっとやっつけろ!

倍返しだ! 10倍返しだ!




そして、見終わった後、むなしくなる。


自分は半沢ではないことにがっかりする。



倍返しどころか、フラストレーションを抱え込み、そいつらが利子のように増殖する自分に戻る。





このドラマはアルコールみたいだ。


飲んでいるときは気持ちいい。


だけど、飲み終わると後悔だけが残る。



そして、後悔することがわかっていても、飲まずにはいられない。

2013年7月18日木曜日

蟬の抜け殻と蝉の亡骸

蝉の抜け殻があると、子どもの服に付けてやる。


だけど、蝉の亡骸を、子どもの服に付けてやることはない。



蝉の抜け殻と、蝉の亡骸の間には、いったい何が違っているんだろうか?




蝉の抜け殻はただの「物質」だから、服に付けても気にならないんだろうか?
(もちろん、抜け殻だろうと嫌な人は嫌だろうけど)


それなら、蝉の亡骸だってただの「物質」ではないんだろうか?


亡骸には、何かしら穢れみたいなものがあるのだろうか?



無意識に死の気配を恐れてしまうのだろうか?



それは、文化的なものなんだろうか?


習慣的なものなんだろうか?



文化が違えばまた違ってくるんだろうか?





混乱してきたので、この辺でやめる。

2013年7月16日火曜日

蝶と芋虫

昔々、蝶と芋虫は別の生き物でした。

そして、蝶は蝶の国で暮らし、芋虫は芋虫の国で暮らしていました。


美しい蝶は醜い芋虫が大嫌いでした。

地道に生きている芋虫は、ひらひら飛んでいる蝶が大嫌いでした。


蝶と芋虫は互いにいがみ合い、いつも戦争ばかりしていました。


蝶と芋虫は、何百年、何千年もの間戦争をつづけていたので、やがてどちらの国もあと少しで滅びてしまうというところまで来てしまいました。


このままでは、大変なことになると思った蝶の国と芋虫の国は、それぞれ神様のもとへ遣いを出しました。


蝶の国の遣いと芋虫の国の遣いに、神様は言いました。


「それでは、お前たちを一つの生き物にしよう。
芋虫はその生涯を終えるとき、さなぎとなり蝶になりなさい。そして蝶は芋虫の卵を産みなさい。
芋虫は、より立派な蝶となるためにたくさんの葉っぱを食べなさい。蝶は遠くまで行くことができない芋虫のためより遠くにたくさんの卵を産みなさい。
そうすることで、お前たちはこれから素晴らしい繁栄を遂げることになるだろう」



そうして、蝶と芋虫はひとつの生き物となりました。

2013年7月13日土曜日

列車はココからどこかへ行くためのもの

木のレールのおもちゃっていいですね。


プラレールみたいに自動で動くおもちゃもいいですが、ある程度小さいときは、自走しないものがいいと思います。



保育園の先生の受け売りですが、子どもがレールをつなぎ合わせて行くとき、子どもなりに「物語」を作っているそうです。


きっと、ココにはこんな人が住んでいて、どんな生活をしていて、とか。

ココには、こんな山があってこんな花が咲く、とか。

列車はその人々や、モノを眺めながら進んでゆく。


ということだと思います。




なるほど。わかります。





そう考えると、そもそも列車ってココからどこかへ行くためのもんだなぁ、と思う。


一周ぐるっと回る列車って、現実世界では、実は少数派なんじゃないだろうか。



山手線とか、大阪環状線とか、東京の地下鉄とかって、どちらかというと割と”特殊”な部類に入るんだと思う。



列車の根本的なものって、「A地点からB地点へ何かを運ぶ」っていうものなんじゃないだろうか。


それは、人間が「どこかへ行きたい」っていう根源的な欲求から生み出されたものなんじゃないだろうか。






だから、レールのおもちゃも、「別に一周回らなくてもいいじゃん」と思う。


(プラレールみたいな自走するおもちゃは、「一周することが前提」になってしまう)


むしろ「ココから出発して、どんどんつなげていって、どこかにたどり着く。その方が物語としては自然じゃん。」と思う。





というわけで、子どもの四歳の誕生日は奮発して木のレールのおもちゃにしました。












プラレールは、もう少し大きくなって、メカと親しめるようになってから。。。


セブンカフェのデザインはまっとうなデザインだと思う

はてぶで以下のリンクがにぎわっておりました。



おや、全国のセブンカフェのようすが・・・



リンク先のように、佐藤可士和によるセブンカフェのデザインが盛り上がっているようです。


「シンプルすぎてわかりにくい」

「使いにくいので結局テプラを張られてしまっている」

とか。



これらの批判は、ネタとしてはとてもとても面白い。




けど、僕はこのデザインは、かなりまっとうで妥当なデザインだと思う。


別に、佐藤可士和が大好きなわけでも何でもないけど。


以下、その考察。




シンプルすぎるデザインについて


シンプルすぎてわかりにくいという批判もあるようだけど、結果的にはテプラを張ればわかりやすいデザインになっている。


シンプルなために、テプラを張るのに十分なスペースがある。


しかも、張ったテプラがしっかり目立っている。


そして田舎のコンビニは、テプラを張ることでちゃんと田舎っぽくなっている。




デザイナーとしては、テプラを張られることを想定していたかどうかはわからない。


せっかくかっこいいデザインが台無しにされたことに腹を立てるかもしれない。


だけど、張ったテプラが目立つのは、このシンプルなデザインのおかげだ。



世の中には、テプラを張る余地さえないゴチャゴチャしたデザインがあふれている。


そういう意味では、テプラを張って、店舗ごとにカスタマイズできるのは「拡張性の高いデザイン」と言えるのかもしれない。






R(Regular)L(Large)表記について


コーヒーのサイズについて、R(Regular)とL(Large)という表記がわかりにくい批判されているようだ。

この点について、以下のように問題を分けられると思う。


  • なぜ英語なのか
  • なぜM(Medium)、L(Large)ではないのか
  • なぜピクトグラムではないのか


なぜ英語なのか


英語表記がわかりにくいという批判もあるようだ。


「日本語の方がわかりやすい」と。



もちろん、日本人向けだけだと日本語の方がわかりやすいと思う。


だけど、たぶんセブンイレブンは日本に来る外国人や、海外店舗に置くことを想定しているんだと思う。

グローバルな企業にとっては当然の考え方だと思う。


グローバルに展開する場合、言語として採用するには(好き嫌いはあるとしても、今のところ)英語が妥当なところだと思う。


”国内にも、海外にも同じものを置く”ことの是非はともかくとして(そしてそれは僕の勝手な推測だけど)、デザイナーはその戦略に見合うものをデザインしたんだと思う。


なぜM(Medium)、L(Large)ではないのか




「Regularという表記がわかりにくい」

「MLの方がしっくりくる」

という批判もあるようだ。


だけど、Mっていうのは「Medium」のことだから、S(SmallあるいはShort)が存在しないのにMとLだけ存在するというのは原理的におかしい。

MとLだけしか存在しないのではあればそれはMではなくSだ。


じゃあなぜ、「SL」にしないのかという問題も生じてくる。


「大小」の概念は比較でしかない。


まず基準になるものがあって、それより「大きいか」「小さいか」となる。

だから、基準としてのRegular(標準)があって、それより分量が多いLargeとするのは、自然な流れだと思う。




別にSLでもいいと思う。

でも2種類しかないのにわざわざ「小さい」と言ってしまうと、客を損した気分にさせる。

お店は少しでも商品をよく見せたいものだ。






なぜピクトグラムではないのか




言語に関係なくわかりやすくするには、ホントはピクトグラムの方がいいのかもしれない。


だけど、「大きさ」と言う概念を、万人に誤解なくピクトグラムにするのはとても難しいと思う。


ちなみに、僕がコーヒーのサイズ(大、小)のピクトグラムを考えると、下のようになった。



レギュラーサイズ(左)とラージサイズ(右)をピクトグラムにしてみた
レギュラーサイズ(左)とラージサイズ(右)をピクトグラムにしてみた


なんだこれは。。。

大きいのと、小さいのとはわかるけど、これがレギュラーサイズとラージサイズを表しているとは到底思えない。

レギュラーサイズのピクトグラムは、ラージサイズのピクトグラムを見ないとそれが「より小さい」ことがわからない。

レギュラーサイズのピクトグラムは独立してその意味性を持たない。。。


これでは、絶対トラブル続出だ。


店舗側も、こんなデザインの機械を置かれたら迷惑千万だと思う。



もちろん、僕はデザイナーではないので、かなりひどいデザインだ。


だけど、万国共通で誤解を生まないピクトグラムを作るのはとても難しいと思う。



特に、売買というシビアな場所で、下手なピクトグラムを使ってしまって誤解が生じると、それはかなり面倒だ。


店舗側もそんなリスクをしょいたくないと思うし、経営側もそんなコストをかけたくないだろう。


だから、デザインとしては最低限、分量についてのトラブルが起こってしまった場合に

「ここにちゃんとRegularって書いてあるでしょ」

と言えるものが必要だった。


だから、確実な「文字」を使う方を選んだんだと思う。




デフォルトで使えるもの


人によっては使いづらさがあるものの、『セブンカフェ』はデフォルトの状態で使えるようになっている。


これは大きなポイントだと思う。


地域差、客層の差があることは初めから分かっているからといって、例えばデフォルトはのっぺらぼうの状態で、各店舗で説明書きを加えないと使い始められないというのでは、コストもかかる。


機械が店舗に来て、カウンターに置けばとりあえず使えるというのは大事だと思う。

(もちろん、電源とか水道とか諸々の設定は必要だろうけど)




まとめ



というわけで、僕はこのデザインは至極まっとうで妥当なものだと思いました。


(セブンカフェとか使ったことないけどね! それはともかくとして。)


なんというか、万人に使いやすいデザインって、本当に難しいんだろうなぁと思う。

こうやって考えてみると、デザインって奇抜でかっこいいモノと言うよりは、お店側か経営側とか客とかいろんな人の思惑の妥協点を探っていく、結構地道で泥臭いもんだなと思う。


(そもそも、セルフサービスじゃなくて、店員がコーヒー入れてくれたらこんなデザインいらないわけで。でも店員の教育やらなんやらのコストを考えるとセルフにした方がコスト安いし、その分コーヒー自体も安くなるし。だからデザインが必要になってくるわけで・・・)



そして、出来上がったモノを見ると、「妥当だなぁ」と思ったりするけど、”無”の状態からその”妥当”なところに落ち着かせるというのは、とても難しいんだろうなぁと思う。


デザイナーってすごい。