キタコレ!
すごい!
面白い!
示唆に富んでいる!
ぶっ飛んでいる!
以下、ネタバレというか、先入観を植え付ける可能性の内容を含みます。
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(もうすぐネタバレ)
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最初読んだとき、なんて瑞々しいんだ! なんてイキイキしてるんだ! と思った。
高校生の間隔、狭い世界の中で精いっぱい生きる姿。
特に映画部の「前田涼也」の章なんて胸キュンだった。
「ああ、高校生っていいなぁ」としみじみ感じた。
でも、何か引っかかる。
なんだろう?
ぼくの頭の中で何かが問いかける。
ぼくの頭の中で何かが問いかける。
「なんで桐島は部活やめたんだっけ?」
単なる青春物語なら、「桐島が部活をやめる」のは必要ない。
物語の中で桐島が部活をやめた意味はなんだ?
これを考えて、物語を頭の中でリプレイさせてみたら、これは単なる青春物語じゃないことに気が付いて驚愕した。
以下、その内容。
理想の人間像としての「桐島」。その不在が意味すること。
桐島は、イケメンで、スポーツ万能、優等生だ。
しかも彼女はかわいい。
物語の中で「上」とか「下」とかいう表現がしょっちゅう出てくる。
高校生が無意識にお互いをランク付けしている。
相手が自分よりイケてるかイケてないか。
この階層構造のトップに立つのが「桐島」だ。
いわば、この高校では「理想の人間像」だ。
その「桐島」が部活をやめた。
ピラミッドの頂点にいた「桐島」の不在。これは「理想の人間像の喪失」を意味する。
自分たちが理想としていたものが、突如なくなる。基準がなくなる。
今までは、A君とB君がいたら、どちらがよりイケてるか? が生きるために重要だった。
言い換えれば、より「桐島的」な方がランクが上になり、高校生活を有意義に送ることができる。
反対により「桐島的」でないものはそれだけで生きにくくなる。
「桐島的」かどうかは高校生にとって死活問題だ。
ところが、「桐島」が不在になったことでA君とB君はどちらがランクが上か判断できなくなってしまった。
基準がなくなったからだ。
桐島の不在は「価値基準の崩壊」を意味する。
このことに敏感に(無意識にしろ)感じ取ったのが、この物語のの主人公たちだ。
価値基準が崩壊した世界で生きるために
この物語は、非常に残酷だ。
価値基準がなくなった世界に放り込まれた子供たちは、明日からどうやって生きていけばいいのか?
彼らは必至で模索する。
桐島がいない世界で、自分を見つめなおし、他者と向き合い、誠実に答えを探そうとする。
だからこの物語は、瑞々しく、活き活きとして心に迫る。
価値基準が崩壊した世界で生きていくには自分自身の価値基準を持つしかない。
自分の好きなものを好きということ。
自分の好きなことに力を注ぐこと。
誰かの人生を生きるのではなく、自分の人生を生きること。
言葉にしてしまえば、月並みでダサいことだけど、実践するのは非常につらい。
だけど、これを実践するか、もしくはいなくなった「桐島」の幻想を崇め続けるかしか生きる道はない。
ただ前者には希望があるけど、後者にはいつか終わりが来る。
この小説の主人公たちは、桐島不在の世界に希望を見つけ、自分自身の価値観で生きていこうと決めた者たちだと思う。
この子供たちは本当に強く生きていけるだろう。
そんな希望に満ち溢れている。
そんな希望に満ち溢れている。
僕にっての「桐島の不在」とは?
長くなったけれど、ここからが本題だと思う。
よい物語は示唆に富んでいる。
示唆に富んでいるということは、「あなたの場合はどうだろうか?」を問いかけられる。
僕にとっての「桐島の不在」とはなんだろうか?
「桐島、部活やめるってよ」はサラリーマンの僕にしてみたら
「日本、終身雇用やめるってよ」
に等しい。
大学に行って、大企業に就職して、ローンでマイホームを買って、退職して年金生活。
それを理想にして、そのレールに乗っていれば生きていけるはずだった。
(少なくとも高校くらいまでなんとなくそういう教育の中で育った。)
それが、今はない。
終身雇用だけでなく、あらゆる「常識」がなくなっていく。
価値基準が目まぐるしく変わる世の中を生きていくのためにどうすればよいか?
桐島がいなくなった高校で新しい道を見つけ出した子供たちと同じことが求められている。
古いステレオタイプの人生観を捨て、自分の好きなことやりたいことをするべきだ。
(この辺りは前読んだ『ワーク・シフト』に通じるな)
僕にそれができるだろうか?
ただ、やらなきゃいけないことだけはわかっている。
ジョブズも言っていた
「誰かの人生を生きる暇はない」
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