また、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に関すること。
ネタバレ注意
少し前に話題になったレビューを読んだ。
(このブログはいつもワンテンポ話題が遅い)
一万人を超える人がこのレビューに共感し、話題になっている。
Amazonレビューでも読めるし、以下のブログ記事に同様の内容が書かれていた。
埋没地蔵の館/「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」はなぜイラっとするのか。
とても面白い。
おもわず「あるあるw」とうなずいてしまいます。
この記事を書いたドリーさんという方は、作家志望らしい。
どおりで、面白いわけだ。
このレビューを楽しみながら読みましたが、それはそれとして、僕の思うところを書いておこうと思います。
感想文の感想文。
上記のレビューに書かれているように、村上春樹の小説に出てくる人は、孤独を抱えている割にはなぜか女にモテる。
だから、「これは僕の孤独とは違う」という感想はよくわかります。
「そんなにモテてるのに贅沢言ってんじゃねーよ」と思います。
だけど、それでも村上春樹の描く「孤独」は普遍的だと思います。
僕らが思春期だったっころ、モテずに苦しかったあの孤独とも通じるものがあると思います。
『多崎つくる』に関していえば、彼の孤独は「誰かを激しく求めないこと」が引き起こしたものです。
だから、いくら特定の彼女がいようと、おしゃれであろうと、「誰かを激しく求める」ことができない彼は孤独です。
だけど、彼は「巡礼」を通して「誰かを激しく求めること」を再開することを決めます。
たとえそれによって、激しく傷ついても。
求めたものが手に入らず、それによって死ぬほどつらい目にあうことになろうとも。
そうすることでやっと、多崎つくるは孤独から解放される。
それが彼にとっての救済です。
多崎つくるにとっての問題は、「彼女と結婚する」ことではなく、「彼女を激しく求めること」が何よりも重要だった。
だから、最終的にはプロポーズがうまくいくかどうかはこの物語ではある意味では問題でないし、物語の中でも描かれていない。
「彼女を激しく求めること」ができるようになった時点で、多崎つくるは救われた。
そして、僕が思春期で、モテなくて、孤独で、つらかったときのことを思い出してみる。
そのころ僕は、「誰かを激しく求める」なんてことをしたことがなかった。
思春期なんて、往々にして
「とにかくモテたい」
「誰でもいいから愛されたい」
としか考えていなかった。
そりゃモテないし、救いようがない。
モテだろうが、非モテだろうが、誰かを激しく求めない限り、僕らは孤独なんだということだと思う。
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