子どもから大人への過渡期
感性が純粋なホールデンは、大人の社会へ適応しきれない。
かといって子どものままではいれれない。
そんな葛藤に苦しむ。
そして、純粋なもの、幼いもの、無垢なものへの執着する。
淡々と語られる文体から、一見世の中を斜めに見た、冷めたように感じられる。
でも、弟や大事な女の子のこととなると、取り乱し、混乱してしまう。
クールな語り口とその取り乱し具合のギャップが、また痛々しい。
小説全体に広がるこの痛々しさが、ナイフのように僕の心を切り付ける。
思春期の心の痛みを思い出させる。
絶妙なバランス感覚
主人公のホールデンは、一見、非常に感受性豊かでユーモアにあふれ、批判性に富んでいるように見える。
だけど、それとは裏腹に行動はとても陳腐だ。
行動だけみてみると、彼は、彼が軽蔑する多くの人と大して変わりがない。
このことは、僕に2つのことを思い起こさせる。
ひとつは、豊かな感受性を持ちながら、陳腐な行動しかとれないホールデンの葛藤、苦悩。
もう一つは、一見、ホールデンが軽蔑している周りの人間も、実はホールデンと同じような感受性があり、同じように苦しんでいる可能性。
前者については、確かにホールデンは人並みならない感受性を持っていると思う。
後者については、ホールデン自身、うすうすそれを感じている節がある。
最期の章に次のように言っている。
”僕にとりあえずわかっているのは、ここで話したすべての人のことが今では懐かしく思い出されるってことくらいだね。”
僕の勝手な印象だけど、この(一方的な)和解の一言から、「結局みんな同じだよね」って言っているように感じた。
「僕が感じてるこの特別な気持ち、君はわるよね」という共犯的要素と、
「誰もがそれぞれ心の痛みをかかえているよね」という一般論が
微妙なバランスをとっている。
このバランスが、多くの人から支持を得ている要因じゃないかなと思う。
ホールデンの偏った感受性
ホールデンは豊かな感受性と、ユニークな批判性を持っている。
妹のフィービーを溺愛したり、幼馴染のジェーンに親しみを感じている。
一方、サリーなど多くの女の人を軽蔑している。
でも、フィービーの行動はかなり偏屈で、そういう行動は一歩間違うとサリーのように軽蔑する側に入ってもおかしくない。
(フィービーが「お父さんに殺される!」を連呼した時なんか、「ウザ」って思いそうだけど、なぜかホールデン的にOKだし。。。)
また、ジェーンは最後まで登場せず、回想の中でしか出てこない。ほとんど妄想の中で美化されているといえなくもない。現実にはもしかしたら、サリーのようにつまらない女の子になっているかもしれない。
サリーだって、ホールデンがもう少し寛容になれば、外見以外に素敵なところを見つけてあげられたかもしれない。
だけど、ホールデンは、素晴らしい感受性と執着で、フィービー、ジェーンとサリーの境界線をきっちりと分けている。
この境目を、非常にうまく表現しているなあと思う。
確かに、フィービー、ジェーンは素敵だとおもうし、サリーはちょっと俗っぽい。
ホールデンが付けた境目は非常に納得できる。
だけど、一皮むけばフィービーもジェーンもサリーもそんなに変わらないんじゃないの? という可能性をぼんやりと示している。
ホールデンはすごい感受性があるようで、実は偏見だらけで、だけど偏見なんてみんな持ってるし、それでもホールデンの偏見は気が利いているよね。
なんて言ったらいいのかよくわからなくなってきた。
とにかく、ホールデンの鋭い感性と、それが実は偏見だということが、小説としてとてもバランスよく描かれていて、読んでいて、気持ちいいし、楽しいし、悲しいし、面白かったです。
(うまくまとまりません、、、、)
「わき道」にそれてもいいじゃない
ところで、僕は、ホールデンがミスタ・アントリーニに「口述表現」のクラスにつて語ることるところが好きです。
ホールデンはこう言っています。
”問題はですね、僕は何しろ誰かの話がわき道にそれるのが好きだってことにあるんです。だってその方がずっと面白いんだから”
素晴らしい感性だと思います。
いつも文章がうまくまとまらない僕に、勇気を与えてくれます。
わき道にそれたり、まとまらないことを恐れず、頑張ろう。
おわり
0 件のコメント:
コメントを投稿