ふと、「そもそも、なんで最初に藁なんて持ってたんだっけ?」と思って、Wikipediaで調べた。
Wikipediaには、以下のように紹介されていた。
昔、ある一人の貧乏人がいた。貧乏から何とかして逃れようと観音様に願をかけたところ、「初めに触ったものを、大事に持って旅に出ろ」とのお告げをもらった。男は観音堂から出るやいなや石につまずいて転び、偶然1本の藁しべ(藁)に手が触れた。
僕は、これを知って、『わらしべ長者』について、偉い勘違いをしていたんじゃないかという気がしてきた。
僕は、今まで『わらしべ長者』は、藁みたいなちっぽけなものでも、うまい具合に物々交換していけば、最後には大金持ちになるアメリカンドリーム的な物語だと思っていた。
だけど、本当に大事なのは物語の冒頭、観音様のお告げの部分、「最初に手にしたものを大事に持っていなさい」という部分なんじゃないかという気がしてきた。
観音様の言葉は、いつも有難い。
もし、男が最初に手にしたものが藁だったからといって
「今のなし、もう一回! せめて馬あたりからスタートさせて!」
とか言って、藁を捨ててしまったら男は幸せになれなかっただろう。
ポイントは観音様が言われた、「最初に手にしたものを大事にすること」だと思います。
最初に手にしたものとは、つまり自分が今手にしているものと言い換えてもいいと思います。
スタートラインという意味で。
自分が、今、手にしているものはちっぽけなもののように感じられるものです。
まるで藁のように。
しかも、自分では選びようがない。
だけど、往々にして自分が持っているものの価値は自分ではわからないものだ。
それが億万長者に匹敵する価値があったとしても。
僕らは最初に手にしたもの(今手にしているもの)を大事にしなければならない。
藁を大事にしないものは、ミカンを手にしても、馬を手にしても、億万長者になっても、きっと満足しないだろう。
欲望にはきりがない。
どこにもたどり着かない。
だけど、藁でも、ミカンでも、自分が手にしているものに敬意を示し大切に生きることは、億万長者で幸せに暮らすことと等価値なんだと思います。
『わらしべ長者』は、藁から初めて億万長者に上り詰めるサクセスストーリーではなくて、藁を大事に生きることと億万長者で暮らすことは、「幸せ」という観点でいうと同じ事なんだということです。
この物語は、
「今持っているものを大事にしなさい。それがたとえ藁のように価値がないモノのように見えたとしても。なぜならそれは、他の誰でもなくあなたが手にしているものなんだから。」
と語りかけていると思います。
僕が今手にしているものをもう一度見つめなおそうと思いました。
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