2013年6月5日水曜日

それでも村上春樹は僕らの抱える普遍的な孤独を描いていると思う

また、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』に関すること。


ネタバレ注意





少し前に話題になったレビューを読んだ。

(このブログはいつもワンテンポ話題が遅い)


一万人を超える人がこのレビューに共感し、話題になっている。


Amazonレビューでも読めるし、以下のブログ記事に同様の内容が書かれていた。


埋没地蔵の館/「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」はなぜイラっとするのか。



とても面白い。

おもわず「あるあるw」とうなずいてしまいます。


この記事を書いたドリーさんという方は、作家志望らしい。

どおりで、面白いわけだ。




このレビューを楽しみながら読みましたが、それはそれとして、僕の思うところを書いておこうと思います。


感想文の感想文。



上記のレビューに書かれているように、村上春樹の小説に出てくる人は、孤独を抱えている割にはなぜか女にモテる。


だから、「これは僕の孤独とは違う」という感想はよくわかります。


「そんなにモテてるのに贅沢言ってんじゃねーよ」と思います。



だけど、それでも村上春樹の描く「孤独」は普遍的だと思います。


僕らが思春期だったっころ、モテずに苦しかったあの孤独とも通じるものがあると思います。




『多崎つくる』に関していえば、彼の孤独は「誰かを激しく求めないこと」が引き起こしたものです。


だから、いくら特定の彼女がいようと、おしゃれであろうと、「誰かを激しく求める」ことができない彼は孤独です。


だけど、彼は「巡礼」を通して「誰かを激しく求めること」を再開することを決めます。


たとえそれによって、激しく傷ついても。

求めたものが手に入らず、それによって死ぬほどつらい目にあうことになろうとも。

そうすることでやっと、多崎つくるは孤独から解放される。

それが彼にとっての救済です。

多崎つくるにとっての問題は、「彼女と結婚する」ことではなく、「彼女を激しく求めること」が何よりも重要だった。


だから、最終的にはプロポーズがうまくいくかどうかはこの物語ではある意味では問題でないし、物語の中でも描かれていない。


「彼女を激しく求めること」ができるようになった時点で、多崎つくるは救われた。




そして、僕が思春期で、モテなくて、孤独で、つらかったときのことを思い出してみる。


そのころ僕は、「誰かを激しく求める」なんてことをしたことがなかった。

思春期なんて、往々にして

「とにかくモテたい」

「誰でもいいから愛されたい」


としか考えていなかった。


そりゃモテないし、救いようがない。


モテだろうが、非モテだろうが、誰かを激しく求めない限り、僕らは孤独なんだということだと思う。

2013年6月4日火曜日

お父さんにオススメの子守唄

ウチだけかもしれませんが、かなりの高確率で子どもが寝てくれる子守唄を紹介します。


斉藤和義の『ワッフルワンダフル』

ワッフル ワンダフル
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原曲よりも、2倍ぐらい遅く、ゆっくりと歌います。

声はしっかり出して、気持ち大きすぎる位の声で歌った方がよいです。



抱っこしながら、子どもの頭を胸につけると、男の人の低音が安心感を与えるみたいです。



ウチは男の子が二人ですが、どちらも新生児の時からこれを使ってます。


よっぽどダメなときはダメですが、2かいくらい歌うと、大概寝ていきます。




子どもの寝かしつけにお困りのお父様は一度試してみてはいかがでしょうか。


効果は保証しません。

2013年6月1日土曜日

EXILEの記号的カッコよさについて

EXILEってかっこいい。

EXILEのかっこよさには、記号的なものがある。




『スプートニクの恋人』という小説の中で、記号と象徴の違いが説明されている。



「天皇は日本国の象徴だ。しかしそれは天皇と日本国とが等価であることを意味するのではない。わかる?」
「わからない」
「いいかい、つまり矢印は一方通行なんだ。天皇は日本国の象徴であるけれど、日本国は天皇の象徴ではない。それはわかるね」
「わかると思う」
「しかし、たとえばこれが、<天皇は日本国の記号である>と書いてあったとすれば、その二つは等価であるということになる。つまり我々が日本国というとき、それはすなわち天皇を意味するし、我々が天皇というとき、それはすなわち日本国を意味するんだ。さらに言えば、両者は交換可能ということになる。a=bであるというのは、b=aであるというのと同じなんだ。簡単にいえば、それが記号の意味だ」
天皇は日本国の象徴だ。しかしそれは天皇と日本国とが等価であることを意味するのではない。わかる?」
「わからない」
「いいかい、つまり矢印は一方通行なんだ。天皇は日本国の象徴であるけれど、日本国は天皇の象徴ではない。それはわかるね」


話を元に戻すと、EXILEのかっこよさは記号的だ。


EXILEはかっこいい。

かっこいいのはEXILEのことだ。

「EXILE」と「かっこいい」は等価で、交換可能だ。



テレビでEXILEが出てくると、僕らはそれをかっこよさの記号として捉える。

僕らは、それを「かっこいいもの」と捉える必要がある。

記号だから。


もし、そこで「EXILE? かっこよくねえよ」なんて考えだしたら、テレビ上での文脈が成立しなくなる。

だから、そこには異論も疑問も認められない。

テレビでEXILEを見たら、それは「かっこいい」のだ。




この記号的にかっこいいEXILEを眺めていると、だんだん不思議な感覚に陥る。


いわゆるゲシュタルト崩壊が起き始める。

脳ミソの中で

EXILE→かっこいい→EXILE→かっこいい・・・

を繰り返していると、ある時点で、


「あれ? ”かっこいい”ってなんだっけ?」



ってなる。




そういう感覚に陥ったとき、その記号的カッコよさがある種のおかしみを帯びてくる。


オースティンパワーズのようなコメディを見ているような感覚に陥る。


かっこいいってなんだろう?





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2013年5月27日月曜日

Don't you know? 阿波の土柱の、半端なさ!

四国旅行に行ってきました。

いろいろ、回ったんですが、何気なくぷらっと寄った「阿波の土柱」というところが、意外にすごくて感動したので、その感動の余韻が温かいうちに、ブログに書いとこうと思いました。



徳島に「阿波の土柱」というものがあって、なんと「世界三大土柱」の一つらしい。

Wikipedia/土柱



世界三大に数えられる割には、あまり知られていない気がする(観光本には載ってなかった。)

そもそも、「土柱」なんて言葉自体あまり聞いたことがない。


土が雨風に削られて柱のように残ったものが「土柱」らしい。



今回、たまたま泊まったところが、その「土柱」の近くだったので、ついでに見に行きました。


実際行ってみると、周辺はあまり観光地としてにぎわっている感じではなさそうでした。
(たまたま僕が行った時期が悪かっただけ?)


だけど、実際に土柱を目の前にすると、意外とすごかった。


『ナルト』で誰かが「土遁、阿波の土柱!」とか言ってそうな趣きを感じました。

阿波の土柱の内、「波濤嶽」という場所





地球の鼓動を感じることができる、すごい天然記念物だと思います。

迫力満点、一見の価値あり。


もう少し注目されていいスポットだと思います。

2013年5月12日日曜日

非合理なお願い@鈴虫寺

今年のGWは、京都の「鈴虫寺」というところに行ってきました。

鈴虫寺
鈴虫寺の入り口


鈴虫寺HP

本当は「華厳寺」と言うそうです。


「願い事をひとつ、必ず叶えてくれる」有難いお寺だそうです。

(結構有名らしく、寺ガール(?)たちで長蛇の列ができてました)


必ず叶えてくれるなんて言われると、とても悩みました。


いったいどんな願いをすればいいんだろう!


せっかくなので、無い知恵を働かせて考えてみました。


そして、次のようなルールを決めました。

制約と誓約。

縛りがある方が、お願いごとの強度も増すと思ったのです。

ルール1 普段できない(思いつかない)お願いをする


せっかく遠いところまできてたので、普段できないようなお願いをしようと思いました。

「家族の健康」とか、「お金がほしい」とかは、いつでも思いつく。

いつでも思いつくようなお願いは、近場の神社とかですればいいなと思いました。

そうではなくて、普段絶対思いつかないような願い事をしたいと思いました。



ルール2 自分からできるだけ遠いことをお願いの対象にする


最近マイブームの内田樹先生の影響もあり、「一番合理的なことは、一見もっとも非合理な方法でなされなければならない」というのを思い出しました。

(詳しくはコレに書いてある。)

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ということで、願い事をするにあたって、非合理なお願いをすることにした。


つまり、「自分のためにならないお願い」が、実は「自分にとって最もためになるお願い」になる、という法則です。

「自分のためにならない」ことを「自分以外の誰かのためになる」としました。


そして、「できるだけ自分から遠いもの」、あるいは「自分とは対極にあるもの」に対してお願い事をしようと思いました。

「情けは人の為ならず」。


廻り巡って自分のためになるような、そんな願い事がになればいいと思いました。




結論。僕のお願い。


結論として、次のようなお願いをしてきました。



これから僕が出会う「僕が嫌いな人」を幸せにしてください。

「ちょっと嫌な人」にはささやかな幸せを。

「こんな奴死んでもいい」と思う人には目一杯の幸せを。


これなら、普段思いつきません。

特に、実際嫌な人を目の前にしてしまったら、絶対思いつかない。

京都の山奥で、頭が冷静だから思いつくことだ。

そして、「嫌いな人」は自分からもっとも対極にある存在だ。


条件にぴったり合う。


このお願いをしてみてから、我ながらなかなかイイお願いをしたような気がします。



効果1 世界が少し平和になるかも


僕が嫌な思いをするだけで、世界が少し平和になるなら、それはそれでいいことじゃないか。


効果2 人を嫌いにならずに済むかもしれない


僕が嫌いになることで、そいつが幸せになるなら、いっそのこと「そいつを嫌いになってやらん!」と思えるかもしれない。

そうすれば、世の中から僕が嫌いな人が一人減るかもしれない。

それは、僕の精神衛生面で、ひとつ健康になるかもしれない。


効果3 好きな人のために日々祈ろうと思う


僕がこんなことを願ったおかげで、「こいつに嫌われれば幸せになれる!」とか考えて、僕から嫌われようとする人が出てくるかもしれない。

それはちょっと嫌だ。(まぁ、実際にそこまでする人はいないと思うけど)

だから僕は、僕の好きな人の幸せを、ちょくちょくお願いしようと思う。

近所の神社なりなんなり。

ことあるごとに。

それで、僕に嫌がらせをしようとする人が出ないようにしようと思う。


自分の好きな人のためにお祈りすることは、悪いことじゃなかろう。たぶん。


(だから、僕に嫌がらせをするのは、よしてください)




自分の好きな人のことはある程度自分で何とかできる。

好きな人の為に祈ることも割とできる。

だけど、僕は聖人君子じゃないので、自分の嫌いな人のことは、なかなか自分自身で解決できない。

だから、この負の感情を神様なり仏様なりの力を少し借りて、ちょっとでも心の平穏を保てればいいと思います。





合理的な効果を求めるには、まず非合理な方法を考えるのもなかなかいいものだと思いました。


(まだ、効果測定中だけど。ていうか、効果測れん気がする。)

2013年5月10日金曜日

見たいものを見るために全力を尽くす人々

先日、fbのタイムラインにこんなネタが舞い込んできた。


【怖すぎ】ヤフー知恵袋に投稿された、ママ友イジメについての相談の結末が衝撃的wwwwww : はちま起稿


怖い。

なんか怖い。


だけど、なんとなく、わかるような、気も、しないではない。


これは、情報社会に住む現代の人々の傾向なんじゃないだろうか。



僕が好きな『ローマ人の物語』(塩野七生)の中で、次のような言葉が出てくる。


人間ならば誰にでもすべてが見えるわけではない。多くの人は、自分が見たいと欲する現実しか見ていない。

カエサルの言葉らしい。

ローマで偉大な為政者たちは、自分が見たくない現実をしっかり見ていた。

また、人々が見たいと思った現実を巧みに見せることで、ローマ帝国を統治した。




今の僕らはどうだろうか。




インターネットで情報があふれ、あらゆる情報が飛び交っている。


「現実」なら星の数ほどある。


だけど、あまりにも現実が多すぎて、見たいと思う現実がなかなか見つかりにくいのではないか。


ただ情報を眺めているだけでは、見たい現実になかなか巡り合えない。


だから、僕たちは以前よりもより能動的に見たいものを採りに行くようになった。


その顕著な例が、冒頭のリンクのA女史のような方ではないだろうか。


自分の見たいものを見るために、全力を尽くす。


より能動的に、より主体的に、より積極的に。





そして、情報社会はもう一つ我々に変化をもたらした。


それは、「見たいものを見られれば、それ以外のものは全くどうでもいい」という傾向だ。


それは、昔みたいに単純に「見えない(認識できない)」わけじゃなく、これまた能動的に無視するようになった。
(能動的に無視するってなんか変だ。でも、うまく言えない)


みんな、もう、「現実」は星の数ほどあることを知っている。


その中には、もちろん自分が見たくない現実も含まれていることを知っている。


だから、我々はこう思う。


「見たくない現実があったって一向にかまわない。だって、見たい現実が確かにあることを確認できたんだから」


情報社会は、僕らにこんな変化をもたらした(と思う)。


たぶん。きっと。


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2013年5月8日水曜日

【子どもから学ぶ】「はたらく」とは/あるいはキッザニアのお土産

みなさん、GWはいかが過ごされましたか?


このGWで甥っ子、姪っ子たちが、あこがれの「キッザニア」に行ってきました。



「キッザニア」では子どもが様々な「労働体験」ができます。


そして、労働をした暁には賃金をもらいます。通貨単位は「キッゾ」。キッザニア内の高島屋で使えます。


一番上の姪っ子(小3)は、キッザニアでの労働で70キッゾもらいました。

彼女は、その70キッゾで、僕の息子(3歳児)にミニカーを買ってくれました。

自分のおもちゃではなく!

アミューズメント施設とはいえ、初めて自分で稼いだお金で、誰かにプレゼントしてくれるなんて!

なんて素敵な子でしょう。

そのミニカーは70キッゾだったかもしれませんが、僕の中ではプライスレスです!

プレゼントのミニカー@キッザニア
プレゼントのミニカー、プライスレス



僕は、彼女の何気ない個の行動に胸を打たれました。


キッザニアで用意されたプログラムに沿って「体験」することだけが「労働」ではない。


誰かのために、何かをしてやる。それこそが「労働」の本質だ。


そういうふるまいを自然にできるのは、なんと素晴らしいことだろう。




自分のリソースを使って、価値を生み出し、それを交換すること。



これこそ、「はたらく」という意味なんだと。



そして、大人は便宜上、価値の交換に「お金」を使う。




僕はよっぽど、ミニカーの対価として、お金をやろうかなと考えた。

だけど、やっぱりやめた。


僕には子どもにうまく「お金」を説明できるほど知識がない。


そんな僕がお金をあげることで、彼女の金銭感覚を歪めてしまうかもしれない。

それはとても怖い。


だから、価値の交換という意味で、お金以外の何かを、彼女にしてやれればいいなと思う。


そして、価値を生み出し、それを交換することこそ、労働の基本なんだということがわかってくれればいいと思う。



さて、僕は彼女に何ができるだろうか。


こういうところから、価値の創造、つまり「仕事」が生まれるんだろう。


うまく価値あるものが生まれるかどうかは別として。。。