清々しい江戸のサクセスストーリー。
以下、ネタバレ含みます。
「改暦」は現代だったら「改憲」くらいかな?
改暦という一大事業。当時にしてみれば、システム、宗教、文化、政治、あらゆるものを巻き込んだ壮大な事業だったようです。
数学、天文学的な科学も大事なんだけど、それ以上に「政治」的な根回しの難しさが感じられた。
この「改暦」の業、現代だったらなんに当てはまるだろう。
やっぱり「改憲」くらいの位置づけかな?
それも、
「テクノロジーの進化によって、世界はおおきくかわってしまった!
テクノロジーの進化を前提にした全く新しい思想を盛り込んだ憲法が必要だ!」
ていう感じの、科学技術の進歩によって改憲せざるを得なくなってしまうイメージかな。
今はまだ、そこまで憲法に盛り込むほど技術も進歩してないだろうけど、当時の「改暦」はそれくらいのインパクトがあったんじゃないかなぁ。と思う。
あと数十年したら、こんな「改憲プロジェクト」が政治家ではなく技術者が中心に進めることになるかもしれない。。。。(ないか。。。)
宿命的錯覚
最近マイブームの内田樹先生の「こんな日本でよかったね」という本のなかで、夢について書かれていた。
ブログにも同じ内容が書かれていたので、長いけど引用する。
彼がそれを偶然だと思わないのは、それが潜在的「願望」に含まれていたからである。潜在的願望と現実が合致した人間は、そこにあたかも宿命に導かれてたどりついたような「錯覚」を抱くことになる。そう、「錯覚」なのである。そして、「錯覚」であるにもかかわらず、「錯覚できる人間」と「できない人間」のあいだには千里の径庭がよこたわっている。私たちは無数の「願望」を潜在的に抱いており、そのそれぞれについて「願望が実現した場合の細部」について想像をめぐらせて、そのための準備を今すぐに始めることができる。そして、実際にわが身にどんなことが起きるか、そのほとんど99%は自力ではどうにもならない。繰り返し申し上げるが、自分の手で未来を切り開けるということはない。どれほど才能があって、どれほど努力をしても、それがまったく結実しないと嘆く人間がいる一方で、まるで才能もなく、ろくに努力もしていないけれど、どうも「いいこと続き」で困ったもんだとげらげら笑っている人間がいる。その差は、自分の将来の「こうなったらいいな状態」について「どれだけ多くの可能性」を列挙できたか、その数に比例する。当然ながら、100種類の願望を抱いていた人間は、1種類の願望しか抱いていない人間よりも、「願望達成比率」が100倍高い。おおかたの人は誤解しているが、願望達成の可能性は、本質的なところでは努力とも才能とも幸運とも関係がなく、自分の未来についての開放度の関数なのである。(引用、長すぎか。。。。)
この内田先生の「夢論」と『天地明察』サクセスストーリーが、読んだ時期が近かったためリンクした。
『天地明察』の主人公「春海」は、宿命的錯覚を抱けた貴重な人物だったんだろうな、と思った。
小説に描かれていない無数の消えていった夢もあるはずだ(囲碁もその一つだろう)。
だけど、「春海」は、与えられた課題をひたむきに、誠実に取り組んでいく。
人から託された夢を自分の夢として向かい合う。
「自分の未来についての開放度」がとても高い。
だからこそ、「改暦」というでっかい夢も実現することができたんじゃないかなと思います。
僕も、宿命的錯覚に陥ることができる夢に出会うために、でっかい夢をたくさん描けたらいいなぁ、と思った。
こないだの「なぜ夢はデカくなけりゃつまらないのか?」のエントリに通じるものがあるような気がします。
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