2013年4月16日火曜日
【子どもから学ぶ】学びとは「ものさし」を増やすことだ
このあいだ、福岡に帰省し、姪っ子たちに会った。
久しぶりといふほど久しぶりでもないのに、見違えるほど成長していた。
何人かは小学校に上がっていて、そこで何を学んでいるか、楽しそうに教えてくれる。
「おにいちゃんは、数字いくつまで数えられる? あたし350まで数えられるよ!」
(彼女たちは僕のことを「おにいちゃん」と呼んでくれる。かわいいやつらだ。)
彼女たちは数字を多く数えられることが”偉い”と思っている。
とてもシンプルでかわいらしい考えだ。
これから彼女たちは、千、万、億と数字を知っていくだろう。
そして、ある時Y軸の存在に出会い、2次元の世界を知るだろう。
Z軸の存在を知ると3次元の世界を知るだろう。
そして虚数を知り行列を知り、途方もない世界の広がりを知るだろう。
これから彼女たちが、驚きに満ちた世界に触れることを想像すると、うれしくもあり、うらやましくもある。
今はまだ、単純に数字を多く言えることが”偉い”という考え方に触れて、改めて学びとは何かと考えさせられた。
ひとつの考え方として、学びとは「ものさし」を増やすことだと思う。
姪っ子たちはまだ、単純に数字を数える「ものさし」しかもっていない。
そして、せっせとその「ものさし」に目盛りを刻んでいる最中だ。
そしていつかY軸という「ものさし」を手に入れると、一気に世界は平面になる。
Z軸の「ものさし」を手に入れれば3次元を理解することができる。
ものさしを手に入れれば世界は一気に広がる。
(もちろん、新しいものさしを手に入れる前段階として、今持っているものさしの精度を上げる必要はある。)
これは算数だけの話じゃなくて人生のあらゆる物事についていえることだ。
姪っ子たちはこれからたくさんの「ものさし」を獲得していくだろう。
顧みて僕はどうだろうか。
最近ものさしを手に入れたのはいつだろうか。
大人になるとなかなか新しい「ものさし」を手に入れるのが難しくなる。(実感として)
僕の手持ちの「ものさし」はずいぶんレパートリーが少ないように感じる。
しかも、誰から与えられた、プラスティックの既製品が多いように思う。
自分で獲得して「ものさし」はとても丈夫だ。
反対に人から与えられた「ものさし」は非常にもろい。
たとえば、僕は「いい大学をでて、大企業に就職して、結婚して、ローンで家を買って、老後は年金生活」という「ものさし」を与えられそれを大事に抱えていた。
だけど、世界の方が変化してそんな「ものさし」は用をなさなくなってしまった。
僕はなかなかその「ものさし」を捨てきれない。
僕はその「ものさし」で、変わってしまった世界を測っていくしかない。
世界と「ものさし」のズレは僕の方で調整していくしかない。
そんな生き方は、結構しんどい。
だけど、自分で「ものさし」を作ることになれている人はブレない。
世界が変わってしまっても、正確にその変化を捉えることができる。
(「ものさし」は自分を基準に作っているから)
また、状況に合わせ「ものさし」を追加することもできる。
僕の周りで楽しそうにしている人は、自分でものさしを作っているように見える。
(もちろん、その「ものさし」を作るために苦労をしているだろうけど)
姪っ子たちのキラキラしたまなざしを見てそんなことを思った。
僕自身、そろそろ新しい「ものさし」を欲しているのかもしれない。
曲がっていても、短くても、自分で目盛りを刻んだ新しい「ものさし」を。
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