思いつきなので、論理的に「穴」はたくさんあると思うけど、備忘録的に書く。
ネタバレ注意。
名前の中の色彩について
色彩は何を意味するのか。
この物語には、名前に色を持つ人物と、持たない人物がいる。
名前に色を持つのは7人。
多崎つくると、高校時代にグループを形成した4人。
- ミスター・レッド
- ミスター・ブルー
- ミス・ホワイト
- ミス・ブラック
大学時代の友人とその父親。
- ミスター・グレー
- ミスター・グレー(父)
ミスター・グレーの話に登場する人物。
- ミスター・グリーン。
彼らはなぜ色を持つのか。
「個性的だから」、という理由だけなら多崎つくるの現在の恋人、会社の後輩たちに「色」がない理由の説明が付かない。
彼らが色彩を持つ理由を考えてみた。
名前に色彩を持つ人物たちは、「多崎つくる」にとって「過去の人」なんじゃないだろうか。
過去の思い出。
思い出の中にだけ存在する色彩。
思い出を彩る色彩。
逆に言えば、名前に色彩を持つ人物は、多崎つくるのもとから去って行く。
彼らは二度と多崎つくるの前に姿を現さないだろう。
ただ、「ミス・ブラック」は、自分と「ミス・ホワイト」のことを「シロ」「クロ」と呼ばないでくれといった。
色ではなく名前で呼んでくれと言った。
自分たちの存在を「過去」とひとくくりにされることを拒んでいるように感じられた。
二度と会えなくても、多崎つくると同じ時間を生きている、それを彼にわかっていてほしいという強い思いが感じられた。
生身の人間に立ち返ることを求めているように見えた。
人間が持つ「色」が見える能力について
ミスター・グリーンは、近い将来の「死」と引き換えに、人間が持つ「色」を見る能力を手に入れる。その知覚は、一旦経験してしまうと、今までの生きてきた世界が”おそろしく平べったく見えてしまう”ほどのものだ。
それほど、魅力的な能力。
ミスター・グレーがなぜこのような不思議な寓話を多崎つくるにしたのか。
そこは、物語の上で重要なんだと思う。
ミスター・グレーが語るこの寓話は、多崎つくるの高校時代を暗示するものではないだろうか?
多崎つくるは、「赤」「青」「白」「黒」の色を持つ人間と”乱れなく調和する共同体”を作り上げた。
この、「名前に色を持つ人々との共同体」=「人間が持つ色を見る能力」なんじゃないだろうか?
そして、その共同体に比べれば、周りの世界が”おそろしく平べったく見える”くらいに完璧な共同体。
それと引き換えに、彼は実際に”死”に直面する。
それは、ある意味では本当の死だった。
肉体ががらりと変わり、内面はほとんど入れ替わってしまうほどのものだった。
また、ある意味では、”乱れなく調和する共同体”からの追放(能力の喪失)によって生き返ったともいえる。
ミスター・グレーの寓話は、「”乱れなく調和する共同体”を手に入れた多崎つくるが死に直面した」ということを暗示しているのではないか。
じゃあ、ミスター・グレーが能力の喪失後に現れた理由は何だ? という問題が残るので、まだ穴はあるけど、人間の色を見る能力は、多崎つくるの高校時代の比喩だという仮説は、割といい線いってるんじゃないだろうか?
駅を作ることについて
多崎つくるは、駅を作っている。
駅と聞いて、『ダンス・ダンス・ダンス』を思い出した。
二つのドアを持つ、空っぽの部屋。
互換性のない、入り口と出口。
誰かが入り口から入ってきて、出口へ出ていく。
駅も、誰かが入ってきて、誰かが出ていく。
ただ、自分はそこにいて、眺めていくだけだ。
最初、多崎つくるも、『ダンス・ダンス・ダンス』でいうところの、「ドアが二つある部屋」にいるような気がした。
だけど、読み進めていくうちに、どちらかというと、『羊男の部屋』を思い浮かべた。
何かと何かをつなぐための部屋。
駅は、どちらかというと、「つなぐための機能」だ。
多崎つくるは、駅を作ることで、何かと何かをつなげている。
羊男が「僕」のために何かをつなげるように。
多崎つくるは、羊男が何かをつなげる代わりに駅を作る。
、『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」が文化的雪かきをするように、駅を作る。
そして、「僕」がダンスステップを踏むように、「巡礼」をする。
”つながっている”と僕は思った。
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